先生との約束。
「明日の夜?」
「うん。俺、休み代わってもらったから。」
出勤前、歯磨きをしながら和晃が言った。
和晃の両親が、たまには一緒に食事をしたいと言っているらしい。私の誕生日には、忙しいと言って休みなど取らなかったくせに、両親の頼みごととあらば、無理をしてでも休みを取る。
洗濯物のTシャツをハンガーに掛けながら、イライラするのを抑えて尋ねた。
「どこで食事するの?」
「ん〜、母ちゃんたちは俺たちに任せるって言ってるんだけど、どこにしようか?また『ディル』にする?」
「『ディル』?いいけど、今井さんに迷惑にならないかな?またサービスとかしたりして、返って気を遣わせるんじゃない?」
「今井さんには俺が電話しておくよ。サービスとかはしなくてもいいってちゃんと言うから」
「言っても今井さんはすると思うけど」
洗面台でうがいを済ませた和晃が玄関へ向かう。
見送りの為、私も玄関へ行く。
靴を履いた和晃が振り返り、私の頭をポンポンと撫でる。
「ごめんね。急な話で」
「ー・・・」
「いってきまーす」
「・・・いってらっしゃい」
機嫌が悪くなった私から逃げるように、和晃はそそくさと出掛けていった。
洗濯物の続きを始める。
和晃の仕事が忙しいせいで、私と和晃が揃ってご両親と会うことなど、年に何度もない。
お義母さんは、やはり息子の顔見たさなのか、年に1〜2度は必ず食事に誘ってくる。和晃のご両親が絡む時は、私がどんな時よりも“現実”を感じる時だ。
長男の嫁。長男の妻。
自分の立場をイヤと言うほど思い知らされる。
洗濯物を干し終え、まだ寒いベランダに立ち、外を眺める。
ベランダからは、マンションのすぐ向かいにある保育園や、遠くまで延びる新幹線の高架、それを囲むように立ち並ぶビルやアパート、地元の公立高校も見える。通勤や通学で歩いている人々、保育園に登園してきた親子、誰もが急いでいる時間。
それを余裕でベランダから見ていられる主婦の私は、きっと“幸せ者”なのだろう。
その“幸せ”をもたらしてくれているのは、他の誰でもない和晃だ。
なのに私は・・・
ため息は、白くなって一瞬で消える。
全身に寒さを感じ、洗濯かごを持って部屋に入る。
毎日和晃の為に尽くし、家事をこなしている自分と、前田先生を想い、胸をときめかせている自分は、全くの別人なのではないかと思ってしまう。
別人ならよかったのに・・とさえ、思ってしまう。
「あら、はるちゃん、髪、随分短くなったねえ」
「あ・・ハイ。先月切ったんです。」
『ディル』の前で待ち合わせていたお義母さんが、私を見るなり挨拶もせずに言った。お義母さんの隣には、早く着いておきながら、待たされた気になっているお義父さんが立っている。
「こんばんは。ご無沙汰してます、お義父さん。」
ご機嫌を取る為に愛想笑いをする。
「あー・・待ってたよ。」
「待ってたって、そっちが早く着いてただけだろ」
和晃は呆れながらお義父さんに言う。
少しムッとしたような顔をして、お義父さんはさっさと『ディル』に入っていく。
私はお義母さんと一瞬目を合わせて、お互い苦笑いしながら後へと続いた。
和晃とお義父さんは、もともとあまり仲が良くない。
お義父さんは、世に言う典型的な頑固オヤジで、亭主関白な上に融通も利かない。思い通りにならなければ歯に衣着せぬ悪態をつき、そのくせ外面は抜群に良い。家庭ではいつもお義母さんを困らせていたお義父さんを、和晃はひどく嫌っていた。和晃はいつも、「オヤジのようにはなりたくない」と言っているが、私から言わせてもらえば、和晃も最近はお義父さんに似てきたところがあると思う。けれど、和晃のプライドを尊重して、そこは言わないようにしている。
4人掛けのテーブルで、私と和晃は手前の椅子に、お義父さんとお義母さんは奥の長椅子に座った。メニューを見ながらみんなで飲み物を選んでいると、背後から「いらっしゃいませ」と声がした。
今井さんだ。
和晃が振り向き、即座に「おつかれっす」と挨拶した。
私が「こんばんは」と言うと、今井さんは首だけをクイと突き出して「この前はどうも」と笑った。
お義父さんとお義母さんは立ち上がり、「息子がいつもお世話になってます」という型に嵌った挨拶をしていた。
和晃の両親の挨拶に恐縮気味だった今井さんは、和晃と私が座る椅子の背にそれぞれ手をかけ、真ん中に立って和晃と仕事の話を始めた。発注先の商品がどうだとか、近々料理長だけが集まるミーティングが予定されているとか、私は右耳で聞きながらお義母さんと料理を選んでいた。
話が終わると、「じゃあごゆっくりね、はるちゃんも」と、私の肩をポンとたたいて調理場へ戻って行った。
料理が運ばれ、乾杯をする。
そして、さあ、くるぞ。あの話が・・・と、気合を入れる。
サラダを食べ、グラスビールをすでに半分空けているお義父さんが私に話しかける。
「はるちゃん・・まだ出来ない?」
来た。
「あー・・すみません。まだですねー・・」
「もう結婚して2年近く経つのにねえ」
しつこいお義父さんに和晃が言う。
「俺が忙しいんだから仕方ないだろ。はるかが悪いわけじゃないんだよ」
それを聞きながらお義母さんが、私を見て尋ねる。
「でも、はるちゃんだって早く赤ちゃん欲しいでしょう?」
「んー・・今は、和晃さんの帰りも遅いし、和晃さん自身が子育てに協力できる状態じゃないですしねー・・今はなんとも・・・」
「和晃の仕事の時間はもう少し減らせないの?」
「簡単に言うなよ」
和晃は左肘をテーブルにつき、ふてくされたようにワインのグラスを傾ける。
いつもこのパターンだ。私に妊娠の兆しがないかを確かめ、ないとわかれば和晃の就業時間が長いのが悪いと言う。
結婚してからというもの、何度同じ会話が繰り返されてきたことか。
子供は自然に授かればいいと、初めは思っていた。でも、ここ最近、今は欲しくないと強く思うようになっている。
心で前田先生を想っているのに、和晃の子供を身篭る気になんてなれない。
心と体を区別するようなこと・・出来るわけない。
『ディル』を出ると、お義母さんがすかさず私に言った。
「はるちゃん、大晦日はお願いしますね」
「あ、はい。伺います。」
「じゃあねえ、はるちゃん」
アルコールが入り、すっかり気分が良くなっているお義父さんの腕を引っ張り、お義母さんはタクシーを拾った。
和晃の代わりにハンドルを握り、夜のバイパス線を車で走る。
赤い顔をして、助手席にぼんやりと座る和晃に、思い切って言った。
「ねえ、和晃」
「うん?」
「私ね、本当に今は、子供欲しくないんだ」
和晃はふっとアルコールのにおいをさせながら笑い、右手でポンポンと私の頭を撫でる。
「わかってるよ。俺も別に、はるかと二人でも全然楽しいし。そこまで拘ってないし」
「そう?」
「うん。オヤジたちは、俺が長男だからうるさいけど、はるかは気にしなくていいよ」
「・・・うん」
和晃の忙しさを理由にしていることが、やっぱりどこか後ろめたかった。
本当の理由を、正直に言えるはずもないけど。
駅前のバス停で降りてクリニックへ向かう途中、サンタクロースの格好をした若い女性が、小袋に入ったキャンディーを道行く人に配っていた。サンタクロースの格好と言っても、下に穿いているのはかなり短めの赤いスカートで、見ているこっちまで寒くなる。横を通ると、彼女は私にも近づいてきて、「キャンペーン中でえす」と、営業スマイルと共にキャンディーを差し出した。私が受け取ると、彼女はまたすぐ別の通行人の方へ行ってしまった。キャンディーの袋には、携帯電話会社のクリスマスキャンペーンのプリントがしてあった。
クリスマス・・・
先生はどんな風に過ごすんだろう?
やっぱり、彼女がいたりして、二人で・・・?
・・・・・・・
全くリアリティーのない想像をかき消して、ビルに入った。
クリニックに入ると、受付カウンターの前に小さなクリスマスツリーが飾られていた。赤、青、緑のライトが、ピカピカと交互に光を放っている。待合室のソファーに座ってツリーの方を見ていると、診療室から助手の下山さんが出てきて私を呼んだ。
また、下山さんが助手に付くのかな・・と、すこし沈みそうになりながら4番ブースへ案内された。
診療の準備を済ませると、下山さん自らシートを倒し、右下の削った歯に詰めていた白いものをキュレットを使って取り外してくれた。シートを起こされ、「うがいをしてお待ち下さい」と言うと、下山さんはブースを出て行った。
舌で歯に触れると、見事に削られているのが感じて取れる。
数分経って、前田先生が来た。
「春日部さんっ」
振り返ると、青いマスクをした先生が微笑みながら近づき、右隣に座る。
胸がトクトク鳴り始める。
「こんにちはっ」
「こんにちは・・」
「この前はありがとうね。」
「あ、いいえ・・こちらこそ・・」
「うん。」と、マスク越しの笑顔で“それ以上この前の話はできないけど”と言われている気がした。
ただ、笑顔を返した。
「じゃあ、今日はインレーを嵌めていこうね。」
先生はカルテを確認してからシートを倒した。
ライトを口に当てる。
「ハイ、開けてー・・」と、先生の顔が近づく。
先週、少しだけ先生と一緒に過ごしたせいか、それまでとは違っていて、緊張しているようで、でもどこか落ち着いていた。
インレーを、削った歯に充ててみる。1度できっちりとは合わないらしく、先生は何度もインレーを削って歯に合わせていく。
「ちょっと、カチカチーって噛んでみて?」と言われ、その通りにしてみる。
「高さはどう?」と聞かれる。
少し、右顎が浮いたようなかんじがして「高いです」と答える。
「まだ高い??んん〜トライならず!ハイッ、開けて〜」と、ラグビーのトライに懸けた冗談をクスクス笑いながら言う。
「フフフッ」と思わず笑ってしまう。
先生は何度も微調節を繰り返す。途中、「疲れてない?」と聞きながら。
赤い咬合紙をピンセットで掴み口に入れる。
「ハイ、噛んでみてー」と言われ、カチカチと顎を動かす。
「どお?」
「大丈夫です。」
「うん、よし!トライ成功〜」
セラミックインレーを嵌め込むと、手鏡を渡された。
「見てみて」と言われ、口を開ける。
先生は、ミラートップの先で治療した歯を指し、「ココ。ね?審美的にもいい感じでしょ?」と、得意気に言った。
「はい」と笑って頷いた。
「うん。よし、じゃあうがいをどうぞー」とシートを起こされる。
先生は私の胸元のスタイを外し、カルテを持って右隣へ座る。
「春日部さん・・今日で一応、すべての治療は終了なんだけど・・」
ドキンとした。
「他に気になるところとかないかな?」
ずっと通えるわけじゃないとは思ってたけど
こんなに突然終わるものなんだ・・・
「はい・・」
どうしよう
もう、先生に会えなくなる
「うん。」
先生はマスクを外す。
「えっとね、4ヶ月くらいしたら定期検診のハガキを送るから、また、お口の中の状態を診せて下さいね。」
しばらく会えない
4ヶ月も・・会えなくなるの・・?
先生は優しく笑う。
頷いて、微笑み返す。
「また、何かあったらいつでも来てね。僕が診てあげます」
「・・・はい」
思わず俯いてしまう。
多分、私は今、がっかりした表情をしていると思う。
前田先生は、ブースの入り口の方を一瞬見た。
「それとね、これ、今度の26日なんだけど・・・」
先生は小声で言うと、白衣の内側からチケットを2枚取り出し、私に手渡した。
ジャパンラグビー・トップリーグ レギュラーリーグ と、書かれている。
驚きで、声を失ってしまう。
胸がドキドキ高鳴る。
チケットをじっと見ている私に先生は言った。
「よかったら、二人で行きませんか?」
行きたい
先生は、微笑んで私を見ている。
「・・はい、行きたい・・です」
先生は笑って頷く。
「競技場、わかる?」
「あ・・はい」
「うん。じゃあ、西ゲートで13時半に」
「ー・・・」
先生を見たまま頷く。
ブースを出て、待合室へ歩く。
「春日部さん」
振り返る。
「おつかれさまでした。お大事に。」
笑って立っている先生に、笑って会釈を返す。
治療は終わったけど、まだ会える。
先生にまた会える。
二人で会える・・・
帰りのバスに揺られながら、先生に渡されたチケットを手に取る。
チケットを眺めながら、「二人で行きませんか?」と言った前田先生を思い出す。
嬉しくて 嬉しくて
胸はまだドキドキしている。
でも、夢のような気分も束の間・・・
自分が降りるバス停の車内アナウンスにハッとする。
どうしよう
和晃には何て言おう・・・。
26日は、朝からよく晴れていた。
ラグビーの試合は14時キックオフ。
少し早めの昼食を済ませて、おしゃれにも時間をかけて家を出た。
今日のことを、麻耶ちゃんに相談しようと思ったりもしたが、いろいろ考えて、やっぱり相談はしなかった。
自分で考えて、自分の意思で、自分で決めた。
今日は、高校の時の友人・友里とラグビー観戦に行くと言ってある。
私は和晃に嘘をついた。
出勤前、「ラグビー、楽しんでおいでね」と言い、私の頭をポンポンと撫でた和晃。
不思議と罪悪感は湧いてこなかった。
世の中に、浮気や不倫が蔓延している理由が、初めて理解出来た気がした。
私は、好きな先生とラグビーの試合を観に行く。
二人で。
でも、多分私の片思いで、付き合っているわけではない。
これは浮気になるのだろうか?
どこからが浮気なのだろう?
夫に嘘をついた時点で、やっぱりアウトだろうか?
競技場には、たくさんのラグビーファンの姿があった。チームのサポートグッズを手に、続々とゲートから流れ込んでいく。
西ゲートに着いたときは、13時半を少し回っていた。
人ごみの中を見渡しても、先生の姿はまだない。
ゲートに入っていく人の邪魔にならないように、少し離れた所の壁際に立って待つことにした。
携帯電話で時間を見る。
13時45分。先生はまだ来ない。
13時55分。キックオフ5分前。先生はまだ来ない。
ゲート周辺も、人は疎らになってきた。
何かあったのかな・・?
場所、間違ってないよね・・
2〜3歩歩いて遠くを見ても、先生は見えない。
14時。試合は始まり、ゲートに立っているチケットを確認するスタッフがこっちをチラチラ見ている。
私だって中に入りたいよ・・・
コートのポケットに手を入れ、下を向く。
ゲート側は日陰になっていて、スカートの中に入ってくる風は冷たい。少し寒くなってきた。
14時15分。
遠くから、黒いダウンジャケットにジーンズを穿いた前田先生が、走ってくるのが見えた。
思わず、走って駆け寄る。
「春日部さんっ・・ごめんっ・・」
先生は額と鼻の頭に少し汗をかいて、息切れしながら謝った。右手には、グレーのダウンジャケットを持っている。
「どうしたんですか?大丈夫ですか・・?」
膝に手をついて、息を整えようとする先生に聞いた。
「うん・・ごめんね・・遅くなった・・。午前中だけ・・診療があったんだけど・・、最後の患者に手こずってさ・・。着いたら着いたで、駐車場がなくて、探し回ってたら遅くなった・・。ごめん・・」
「いいんですそんな・・大丈夫ですか?」
「うん・・。っていうか春日部さん、寒いでしょ・・?」
先生は、まだ切れた息を静かに吐きながら近づき、持っていたダウンジャケットを私に羽織った。
「ラグビーはこういうの着て観ないと、寒いからね・・」
胸元でダウンを両手で閉めて、目の前で優しく笑った。
ダウンの襟元から、ほんのりクリニックのにおいがした。
「あ・・りがとうございます」
ドキドキする。
先生のダウンで、体が少しずつ暖かくなっていく。
「行こう。もう試合始まってるね」
先生は、左手で私の右手を掴んだ。
「わっ、冷たくなってる!」
「ー・・・」
先生に引っ張られて、ゲートへ走る。
男性にしては、白くて細い指をした手だと思っていたのに、右手を掴んでいるその手は、力強い、男の人の手だった。
あたたかい、先生の手。
メインスタンドのやや端の方に座り、グラウンドを眺める。
初めて観る生のラグビー。
となりには前田先生。
試合は、前半25分を過ぎたところで、7−0。地元のチームは、相手チームに1トライと1コンバージョンをリードされていた。
「あー・・・負けてる」
棒読みで先生が言った。
「ふふっ でも、まだ前半ですし」
「うん、まあそうだけどね」
ニヤッと笑う。
「あ、春日部さん、ハイ」
先生はポケットから缶コーヒーを取り出して、私に手渡した。
「あ、すみません・・」
手のひらにコーヒーの熱が広がる。
「いやいや・・こっちこそホントにごめん。試合、ちゃんと最初から見せたかったのに」
「いえ、連れてきてもらっただけで充分です。」
先生は、ダウンの襟に顔をうずめながら笑う。
「そう?」
「はい。」
試合を観ながら、先生は地元のチームの動きに時々“突っ込み”を入れる。
「あー・・・そっちにパスしてどうすんだよ」
「走れってそこ!」
「なんでレフトが出てこないんだよ〜」
試合を観ているより、先生を見ている方がおもしろい。
「ふふっ」
思わず吹き出した私の方を、先生は振り向いた。
「ん?」
「いえ・・おもしろいなーと思って」
「おもしろい?」
「はい・・。なんか、病院にいるときとは全然違いますね。」
「ハハッ・・そうかな。観に来たのも久しぶりでね、ちょっと興奮気味」
「アハハ、確かに興奮してますね」
前半は7−0のまま、ハーフタイムに入った。
「大丈夫?寒くない?」
先生は少し心配そうに聞く。
「はい、大丈夫です。私コートも着てるし。」
「そっか。」
先生は、笑うと立ち上がった。
「ちょっと待っててね。」
「・・・はい」
先生は他の観客を縫って、スタンドを出て行った。
広いグラウンドを眺める。
グラウンドの両端に立つラグビーの象徴、ゴールポスト。
やっぱり・・先生がラグビーしてるのも見てみたかったな・・
サイズが大きくて、手が出ていないダウンの袖口を見る。
先生のにおいがする。
先生に包まれているような錯覚を覚える。
先生は、ファーストフード店の紙袋を持って戻ってきた。
「おなか空いたでしょ?ハイッ」
紙袋からハンバーガーを取り出すと、私に差し出した。
「わー!いただきます。」
先生は足を開き、太ももに肘をついてハンバーガーを食べる。小柄な割に、食べっぷりは豪快で、口いっぱいに頬張っている横顔は、元ラガーマンを思わせるには充分だ。
「あ、そういえば、インレーはどう?物が食べ辛いとかない??」
「はい、大丈夫です。」
「そう?よかった。昨日はねー、インレーの合わない患者さんがいてね、あんまり合わないから技工の人まで呼んだんだけど、それでも結構時間掛かっちゃって、その患者さん、何か約束があったみたいでね、『今日はもういいです』って言うから、結局また埋めて、途中で帰っちゃった、ハハハハ・・」
「えっ、帰っちゃったんですか?」
「そう。ほら、昨日、クリスマスだったしね。悪いことしちゃった」
「あー・・そっか。クリスマス・・。歯医者でそんなに時間掛かると思ってなかったんでしょうね。」
「んー・・。そんな大事な用事の前になんで治療に来るかなあ〜」
「アハハッ、それ、らしからぬ発言ですね。」
「ハハッ、ホントだ、まずいな。守秘義務があるのに。免許剥奪かな?」
「ハハハッ、そんな大袈裟なー・・」
「しかも、昨日、診療が終わってからツリーの片付けとかさせられてねー・・」
「アハハハ・・」
先生と、こんなに楽しい会話をしたのは初めてだった。
試合は12−0。後半でさらに1トライを許し、地元のチームは負けてしまった。
競技場を出て、先生と並んで歩く。
「負け試合だったね・・ごめん。」
「そんな、先生が悪いわけじゃ・・」
「んーでも、せっかくなら、地元が勝つ試合を見せたかったなー・・」
「いえ、ホントに・・ここに来られただけで充分です。」
先生は微笑んでいる。
「送っていくよ。僕、車だし」
「え、あ、でもそんな」
「ホントは、これから食事にでも連れて行ってあげたいところなんだけど、まだカルテの整理が残ってて、またクリニックに戻らなきゃならなくてね」
「あっ、だったら尚更いいですっ・・」
「いいから。せめて、送らせてください。」
真っ直ぐ、私を見る先生。
「あ・・じゃあ、駅前までお願いします。」
「うん。」
先生の車は、“さすがお医者さん”と思わせるような、高そうな四駆の黒い輸入車だった。
窓から中を覗くと、助手席には脱ぎ捨てたような白衣が置いてある。先生は運転席に座ると、白衣を後部座席に放り投げ、「どうぞ」と、私を助手席へ促した。
「失礼します・・」
脱いだダウンジャケットを先生に手渡し、助手席へ座った。
スッキリとした車内は、白衣があるせいか、やっぱりクリニックのにおいがする。
車内では、小さい音量でラジオが流れている。
ハンドルを握る先生の横顔。
運転席に座っているのが和晃ではないことが、どこか信じられない。
聞きたいことを、コトバにできない。
たくさんあるのに、聞いてもいいのかわからない。
競技場から駅前までは、20分ほどで着く。
駅近くの信号で止まり、先生が口を開いた。
「楽しかった?ラグビー」
「ー・・はい。楽しかったです。」
「うん。それはよかった。僕も、春日部さんとラグビーを観られて、楽しかったです。」
照れくさくて、思わず俯いて笑う。
『続いてのナンバーは、オーストラリアのシンガーソングライター、Delta Goodremで、Last Night On Earthです。どうぞ』
ラジオから、DJの曲紹介が聞こえ、バラードが流れる。
駅前で、先生は車を止めた。
「ここで大丈夫?」
「はい、大丈夫です。」
「うん。今日はありがとう。」
「いえ、こちらこそ、ありがとうございました。」
先生は、優しく笑う。
それに応える。
「また、春に会おうね。はるかさん」
はるかさん と 呼ばれた。
車内に流れるバラードが、先生の笑顔と共に心に焼き付いていく。
「気をつけてね」
「はい」
助手席を降りて、ドアを閉める。
先生は窓越しに私を見て、左手を軽く振った。
先生の車が、たくさん走る車に紛れて消えていく。
「春に会おうね」と言った先生。
また会える。
この約束があれば
きっと先生と
また会える。