先生との時間。
クリニックからの帰りのバスを降りて、近くのスーパーに寄った。
和晃は深夜に食事をする為、カロリーの高い料理はなるべく避けるようにしている。
厨房での仕事なら、「賄い」という従業員の食事があるのが一般的だが、和晃は自分の厨房では敢えてそれをしないようにしている。余った食材で料理を作るのも勉強のうちだという料理人は多いが、より良い食材で、より良い料理を作り、少しでも早く一人前の立派な料理人を増やしたいという和晃の考えからだ。賄いは時に、下で働く者たちのプレッシャーになることもある。「部下への思いやりがある」と、評判の和晃は、職場の同僚からも慕われている。和晃が家で食事をするのは、賄いがないというのも理由だが、昼も夜も職場で食事を摂るのは気が向かないらしい。
夕食の材料を買い込み、片手で傘を持ち、片方の腕にズッシリとした買い物袋を提げて家に帰る。夕方近くになると、冷たい雨と風で、より一層寒さを感じる。
買ってきたものを冷蔵庫や棚に入れて、裾の濡れたコートをハンガーに掛けて部屋に干す。お気に入りのバッグも湿っている。ファンヒーターのスイッチを入れ、温風吹出口の近くに置く。お湯を沸かして紅茶を入れ、リビングのテーブルの前に座り、CSのスポーツチャンネルをつけた。
ラグビー中継の録画が放送中だった。ラグビーの試合は、中継を観ていても静かだ。聞こえてくるのは、解説者の声と、選手の声、ボールの音、レフリーのホイッスル。
ボールをバックスへ展開し、グラウンドを走るスクラムハーフを目で追う。
前田先生と重なって見える。
「はるかさん」と呼んだ先生。
「春日部さん」と呼ばれて振り向かなかったのは確かに私・・。
呼び止める手段だっただけで、他に意味はなかったのかもしれない。
考えれば考えるほど、顔が熱くなっていく。
嬉しいような・・
照れくさいような・・。
先生にキツイ言い方をされて、迷いが生まれた。
この恋は間違っている・・。
でも。
迷いはほんの一瞬で、先生に名前を呼ばれ、笑顔を向けられ、「来週も来る?」と聞く先生にまた引き寄せられていく。
先生
先生
前田先生・・
先生は、他のどの患者にも同じように接しているのだろうか?
他のどの患者にも、同じように優しい言葉をかけ、他のどの患者にも、その甘い笑顔をむけるのだろうか・・・
クウォーターバックがボールを持って走る。タックルをかわし、ゴールラインを越えグラウンディング。ホイッスルが響き、トライが決まる。
他の選手が、トライを決めたクウォーターバックに駆け寄り、抱き合って喜び合う。
きっと先生も、こんなふうにラグビーをしていた。
先生に出会わなければ、こんなにラグビーを知ることはなかった。
壁に掛かったカレンダーを見る。
来週、クリニックへ行く日。
先生に会える日が待ち遠しい。
晴れるといいなあ・・来週こそは。
部屋干しした洗濯物に触れる。湿ったままの和晃のトレーナー。
今日は乾きそうにない。
夕食を作ろう。
和晃のために。
夕食には、和晃の好きなハンバーグを準備した。カロリーを考え、材料には豆腐を使った。
料理に関しては厳しい面を持つ和晃のために、作り置きは一切しない。何時になろうと、出来たてを食卓へ並べる。
和晃が帰宅したのは、早めの深夜1時だった。
職場で美味しく出来たからと、ビュッフェのデザートで出すタルトを半分だけ持ち帰ってきてくれた。
「これね、キッチンの女の子が作ったんだけど、すごく良く出来てたから、はるかに持って帰ってきたんだ」
「わあ、おいしそう〜」
ラ・フランスを表面に広げたタルトだった。
最初は嬉しかった。
でも、和晃は時々、家で職場の女の子をやたらと誉める。
「そのコ、まだ27歳なのにすごく頑張るコでさ、パティシエでもないのにデザートを良く研究してて、店に貢献してくれてるんだ」
「ふうん・・すごいねー」
和晃が、私と歳が近い女の子を誉めると、どこか「それに比べてお前はダメだ」と言われているようでキズつく時がある。和晃に悪気がないのはわかっている。鈍感というのは時に残酷だ。結婚する前は、「いつか2人で店を持てたらいいね」と夢を語っていたが、私が主婦に納まったことで、調理師としては経験不足と見るようになったのか、そんな夢も語らなくなった。そして私自身も、和晃と仕事をしたいとは思わなくなっていた。
職場の女の子を誉めているだけならよかった。でもその夜は、私が作った夕食に軽くケチをつけた。
「今日のハンバーグ、何か変なニオイがする」
雨の中スーパーへ行き、新鮮な食材ばかりを使って、深夜にガスコンロの前に立ち、喜んでもらおうと作った料理なのに、そんな言われ方はいささか心外だった。
「どんなニオイ?」
「うーん、なんとなくなんだけど・・」
箸で掴んだハンバーグを鼻に近づけ、ニオイを気にして口に入れようとしない光景に腹が立った。
「食べなくていいよ。残せば?」
思わず口から出た。
和晃はハッとしたような表情で「いや・・食べるけど・・」と言った。
誰がいるから、深夜に帰宅しても当たり前のように食卓に料理が並ぶと思っているのか。
毎日毎日、どんな気持ちで夕食のメニューを考えていると思っているのか。
職場の女の子を誉めた後に、私の料理にケチをつけたことで余計に腹立たしかった。
いつもなら、多少のことは聞き流すが、今日は異常に頭に来た。
準備に使ったフライパンなどの洗い物を済ませて、和晃を1人食卓に残し、お風呂に入った。
私が先にお風呂を済ませると、和晃も申し訳なさそうに後に続いた。
喉が渇いて冷蔵庫を開けると、さっきのタルトが入っていた。
もはや全く食べる気になれない。
ミネラルウォーターのペットボトルだけを取り、バタンと扉を閉めた。
『ええ〜!?はるかさんって呼ばれたん?』
3日ほど経って、仕事帰りに電話を掛けてきた麻耶ちゃんが驚きの声を上げた。
「うん・・」
『うわうわ、ええなあ〜はるちゃん、嬉しかったんちゃう??』
「うん・・ビックリしたけど。でも、多分あれは咄嗟に出ただけだと思う。」
『まあ〜そやなー。呼び止める手段だっただけかもわからんな』
「うん・・」
『次はいつなん?先生に会えるんは?』
「ー・・あさって」
『へええ。楽しみなんちゃう?』
「うん・・楽しみ」
『あはは!素直やなあ〜。うんうん、ええこっちゃ』
「麻耶ちゃんは?デートしてる?」
『デートなあ〜、したいねんけど、今ちょっと、彼氏よりもウチの方が仕事忙しくてさあ、土日もないねやんかあ』
「えーっ、じゃあクリスマスも?」
『そうやなあ。クリスマスぐらいはデートしたいなあ』
「年は?」
『30やに』
「じゃあ、4つくらい上なんだね」
『ん〜やっぱ、年上の方が甘えさしてくれるでな。先生は?いくつくらいなん?』
「わかんない・・けど、さんじゅう・・1・・2・・歳かなあ」
『へえ〜そうなんや。そのくらいでもう院長の肩書きとか貰えんねやな。』
「そうみたい。ホームページのスタッフ募集要項のところに、経験5年以上で分院長って書いてあった」
『5年かあ。ウチの知り合いの旦那が歯科医やってる人がいてるねんけどさあ、歯科大って、臨床とかあって6年くらい行かなあかんのやろ?』
「うん・・そうらしいね。それで院長ってことは、経験は5年以上あるってことだから・・」
『そうやな。やっぱ31〜32歳やろうな』
「んー・・」
『もっといろいろ話できたらええねやろうけどなー・・歯医者ってなかなかそうもいかんよなあ』
「うん。治療についての話ばっかり」
『相手が相手やからなあ』
「でも、麻耶ちゃんが言ったみたいに、気持ちを楽しむことにしてるよ。」
『そうやな。気持ち、大事にしたらええのよ』
「・・・うん」
『まあ、ウチも何かと忙しいねんけど、いつでも電話してな』
「うん、ありがとう。麻耶ちゃんもあんまりムリしないでね。」
『おう、サンキュー。ほな、またな〜』
「うん」
晴れるといいなと思っていたクリニックの予約の日。朝、アラームで目覚めると、カーテンからこぼれる太陽の日差しに、気持ちが高鳴るのを感じた。
先生を好きになって、それまではなんでもなかったことが嬉しかったり、楽しかったりするようになっていた。
夕方17時の予約が待ちきれず、着て行く服を何度も選んだり、診察券の裏に書かれている予約の時間の欄を眺めたりした。
バスに乗るころはすっかり日が暮れていた。
この時期は、日が落ちるのも早い。
駅前の至る所でイルミネーションが光り輝き、街はクリスマスムード一色だ。
歩道を吹きつける冷たい風に寒さを感じながら、クリニックのあるビルへと歩く。
クリニックに入ると、思ったほど忙しそうではなかった。
会えるのが楽しみだったというのと、先週、「はるかさん」と呼ばれて以来、先生と顔を合わせるのは初めてで、胸の鼓動はトクトク鳴りっぱなしだった。
診療室から前田先生が出てきたときは、今までにないくらい心臓は早く、トクトクはドキドキへ変わる。
「春日部さん、こんばんはっ」
いつもの笑顔、いつものキマッた白衣姿で、カルテを片手に私を呼ぶ。
「こんばんは」
緊張を隠しながら笑顔を返す。
「寒くなかった?外は」
半歩前を歩く先生が、振り返りながら話しかける。
「寒かったです」
「夕方も冷え込むようになったよね」
「そうですね・・」
他愛ない会話がたまらなく嬉しい。
診療台に座り、先生も右隣に座る。モニターのX線写真で、治療する場所を指差した。
「えーっと・・今日治療するところはね、右下の奥なんだけど、ちょっと深く削ることになるんだよね・・」
右手に持っていたペンを自分の額にコツコツあてながら言う。
「削るとね、型をとって、インレーっていう被せものをするんだけど、春日部さんは今のところ、金属のインレーは1箇所もないし、今回は、春日部さんさえ良ければ、セラミックインレーっていう、白い被せもの作ってやっていこうと思っているんだけどどうかな?」
「あ・・はい。先生にお任せします。」
「セラミックの場合は保険が適用されないから、ちょっと高額になってくるんだけど大丈夫?」
「はい、大丈夫です。」
先生はふっと笑う。
「うん、よかった。せっかく白い歯が揃っているし、審美的にはこっちの方がいいと思うからね。」
削るときに痛まないようにと麻酔をされ、この前のようにタオルを掛けられ治療を受けた。
前田先生は、時々手を止めて声をかける。
「大丈夫?」
「痛くない?」
「もう少しだからね・・」
先生の表情は見えなくても、言葉に“優しさ”を感じる。
頭に、先生の胸元やネクタイが触れる。
“先生”を感じる。
シートを起こされ、うがいをする。
先生はゴーグルを耳に掛けたまま額の上に押し上げ、カルテにペンを走らせる。
ゴーグルと一緒に前髪が上がり、先生の輪郭がクリアーになる。
額から高くのびた鼻にマスクのラインが交差し、その凛々しさに“男性”を感じる。
「春日部さん、少し、時間ある?」
前田先生はマスク越しに小声で言う。
「え・・?」
「今日は、あと1人患者さんを診たら終わりなんだけど、よかったら少し付き合ってもらえませんか?」
先生はやわらかく笑う。
真っ直ぐな視線に引き寄せられる。
「ー・・はい・・」
胸の鼓動は最速になる。
「それじゃあ、駅前の『ブレイク』で待っててくれる?」
「ー・・・」コクンと頷く。
先生はススッと鼻を鳴らして笑った。
「じゃあ、あとで」と言い、先生はブースを出ていった。
思いも寄らない先生からの誘い。
動揺のあまり、放心していた。
ブースに助手の女性が入ってきてハッとした。
「おつかれさまでした。待合室でお待ち下さいね。」と言われ、コートとバッグを持ってブースを出た。
2つ隣のブースで、最後の患者の治療に当たる先生の後ろを通る。
胸のドキドキは、もう限界。
来週の予約を取り、クリニックを出る。
エレベーターに乗って、深い息を吐く。
なんだろう・・どうして私を誘うんだろう・・
喜びと緊張で、足に力が入らない。それでも平静を装って『ブレイク』まで歩く。駅前で人気のコーヒーショップ『ブレイク』は、通りに沿ったガラス張りの店で、いつもたくさんのお客で溢れ、店の近辺はコーヒーの薫りが漂っている。
店に入り、カフェモカを注文して、外が見渡せる奥の2人掛けのテーブルに座った。隣には、教科書のようなものを開いて黙々とノートに向かう若い女性が座っている。カフェモカの薫りを鼻で感じながら、外を見る。胸のドキドキは鳴り止まず、座っているのも精一杯だ。
今、先生を待っているという自分が信じられない。
外を行き交う人を、左右に何度も目で追う。
白衣を着ていない先生と会える。
どんなかんじだろう?
いろんな想像が頭をよぎる。
20分ほど待ったところで、通りを歩く先生が見えた。
白衣の下に着ていたシャツとネクタイの上に黒いブレザー、大きめの重たそうなビジネスバッグを持っている。
店に入った先生は店内を見回し、私を見つけると軽く左手を上げて合図した。
微笑み混じりに頷く。
注文したコーヒーが載ったトレイを持って、先生は近づいてくる。
「お待たせ。ごめんね」と笑顔で言うと、トレイをテーブルに載せ、向かいに座る。座るとすぐに、先生は私のカフェモカのカップを左手で握った。
「うん、OK。熱くはないね」
「え?」
「さっき、麻酔をしてるからね。熱いものを飲んで、火傷してたりしたらと思って、ここを指定したのはマズカッタなって思ってた」
ホッとしたような顔をして言った。
「ああ・・大丈夫です。まだ飲んでないから」
「あ、ホント?よかった」
先生はコーヒーを一口飲んだ。
それをじっと見つめる私に、先生は話し始める。
「あ・・実は、明日の午前中から東京で歯科学会のセミナーがあってね、これから夜の便で発つんだけど、飛行機の時間までまだもう少しあるから、それまで春日部さんとお話できたらって思って・・」
「え?これから東京に行くんですか?」
「うん。でも、明日の夜にはもうこっちに戻るけどね。」
「そうなんですか・・大変ですね・・」
「んー、まあ、学会はよくあるから慣れてる」
「そう・・ですか」
ぬるくなったカフェモカを飲む。右下に感覚がないのを改めて感じる。
「この前、せっかくラグビーの話をしてくれたのに、院内じゃ殆ど話せないからね」
「あ・・それでわざわざ・・」
「ううん、春日部さんにラグビーのこと教えてあげようって思ってたんだけど、話す機会も少ないし。」
「そうですね・・ありがとうございます」
先生はずっと、私の方を向いている。
両肘をテーブルの上に置き、腕を組んで、時々コーヒーを飲む。
「先生は、いつからラグビーをされてたんですか?」
「小学校2年生の時からかな。地元のジュニアチームに入っててさ。でも、僕は体が小さかったから、初めは全然ダメだったんだけどね。」
「へえ・・」
「最近見るようになったって言ってたよね?」
「あ、はい。でも、トップリーグとか見てても、選手の名前とかは全然わからなくて、詳しくないんです」
「そっかあ。トップリーグもいいけど、高校とか大学ラグビーから見てみたら?おもしろいよ?」
「学生さんたちのラグビーですか?」
「うん、年末年始はラグビーの試合、たくさんあるよ。地元の高校とか出てるなら応援もやりやすいし、トップリーグは、学生の頃から有名だった選手もいっぱいいるしね。高校ラグビー観てたら、上手い奴はやっぱり際立ってるし、自然と選手の名前もわかるようになるよ」
先生は、クリニックで仕事をしている時とは違う、無邪気な表情でラグビーを語る。
「僕は残念ながら、ラグビーでは食べていけなかったけど」
はにかんだ笑顔を愛おしく感じる。
「ラグビーをやってる先生も見てみたかったです・・」
「ハハッ・・。最近は忙しくて、ボールも触ってないなあ・・」
聞きたいことはたくさんあるのに、なにもコトバにならない。
目の前で笑っている先生を、見ているだけでよかった。
このまま時間が止まってしまえばいい。
このまま
今のまま・・
『ブレイク』を出て、駅に向かって先生と並んで歩く。
「何時なんですか?飛行機・・」
先生は腕時計を見る。
「19時50分。これから地下鉄で空港に行けばちょうどいいかな。・・春日部さんは?」
「私はバスです。すぐそこのバス停から」
バス停を指差すと、先生はそっちへ歩き始めた。
「じゃあ、バス停まで」
「えっでも・・」
「いいから」と、微笑む先生について行く。
イルミネーションを眺めながら先生は言う。
「もうクリスマスかあ・・。早いなあ・・1年。」
「ふふっ、どうしたんですか?」
「やあ〜、30過ぎると、毎日1日が過ぎるのが早くてさあ」
「そうなんですか?」
「んー。春日部さんも今にそうなる」
「あはは」
「ホントだって」
バス停の少し手前で立ち止まる。
また時計を見て、先生が言う。
「バス、ある?」
「あ、ハイ。大丈夫です。」
「痛くない?」
先生は右手で頬を指差して言った。
「・・・ハイ」
「うん。よかった。じゃあ・・今日は付き合ってくれてありがとうね」
ビジネスバッグを右手に持ち替えながら、先生は笑った。
「いえ・・こちらこそ、ありがとうございました。」
「それじゃあ、また・・来週?」
「あ、ハイ・・」
「うん。じゃあ」
先生は左の手のひらを向けると、駅構内へ向かって歩き始めた。
先生の後姿を見つめる。
後姿をずっと見つめる。
先生は一度振り返った。
思わず、微笑んでお辞儀をすると、先生は左手を高く上げて軽く手を振りながら笑った。
行き交う人で、先生がだんだん見えなくなる。
先生が見えなくなっていく。
先生
先生
前田先生。
先生が好きです。
私はこんなにも・・
先生が好き。