先生への迷い。
和晃の休日は14日ぶりだった。
毎年11月中旬頃から、クリスマスや忘・新年会、正月の企画メニューの作成で忙しい。12月に入ると、忙しさは止まることを知らず、和晃の疲労はピークに達し、そのまま正月を迎え、年明けには必ず1度は体を壊している。クリスマスや年末年始、忙しいながらも世間が浮かれ始める季節、サービス業には、毎年の悪夢がひしひしと押し寄せる。憂鬱なのは、仕事をする本人たちだけでなく、それを傍で支える者たちも同じだろう。
「今日はドライブでもしようか?天気もいいし」
朝食のパンを食べながら和晃が言った。
「どこに?」
「どこでもいいよ。はるかの行きたいところ」
「急に言われてもね」
「たまの休みだし、仕事を思い出さないようなところに行きたいなあ・・」
「特に行きたいところはないけど・・じゃあ、都市高速をドライブしてよ」
「あ、いいね〜。久しぶりに行こうか」
和晃がコーヒーを飲みながら微笑む。
私は昔から、都市高速が好きだった。一般道路よりも高い位置を早いスピードで走り、一周すれば市内のいろんな景色を見ることが出来る。空港、立ち並ぶ高層ビル、いくつもある大きなイベント会場、港や海。昼間の明るい街並みを見るのも好きだが、延々と続くような夜景を見るのも悪くない。
いつも単調に家で家事をしているだけに、都市高速のドライブは、どこか開放感のような、そして、都会に住んでいるという喜びのようなものを感じられる。
出かける準備を整えると、和晃の携帯が鳴った。
仕事の電話だろうと思った。
休日も、食材の発注先の業者や、出勤している同僚から、仕入れや料理のことで電話が入る。仕事の電話なら、15〜16分はくだらないのに、和晃は1分足らずで電話を切った。
「あれ?仕事の電話じゃないの?」
「んー、母ちゃんから」
ん??と思う。
お義母さんが和晃に電話してくる用事で、動くことになるのは大抵私の方だ。
和晃は長男ゆえ、春日部家での行事ごとでお義母さんからの要請があれば、嫁の私はほぼ絶対服従だ。長男と結婚する以上、それなりの覚悟はしていたが、市内からは随分離れた田舎町にある和晃の実家は、昔からの風習やしきたりを重んじる。
何の用事だったのか・・少し沈みそうな気持ちになりながら尋ねた。
「お義母さん何て??」
「大晦日、また、はるちゃんに手伝いに来てもらえないかって」
「ああ、うん。行くよちゃんと」
「朝は俺が送っていくから。」
「うん」
大晦日は毎年、おせち作りのお手伝いだ。お義母さんは、調理師免許を取得している私に絶大な期待を寄せていて、実際はお手伝いというより、作るのは殆ど私だ。和晃の店は年中無休、年末年始の休みなどあるはずもなく、当然、実家に行くのは私1人だ。お義母さんは優しくて温厚で、和晃は母親似だといつも思う。しかし、同居を拒み、和晃が30歳を過ぎているのに子供もいないとなれば、やはりあの家では肩身が狭い。
いつも納得がいかないのは、なぜ私への頼みごとを、和晃を通して言ってくるのか。
不満を挙げればキリがないが・・。それが「長男の嫁」と言われればそれまでだ。
車に乗り込み都市高速入り口を目指す。
「そういえば今井さんが、この前はご来店ありがとうございましたって言ってたよ。」
和晃がハンドルを握ったまま話しかける。
「あ、ホント?すごくおいしかったよ。ちゃんとお礼言っておいてくれた?」
「うん。俺が頼んだケーキ、今井さんがかなり丁寧に作ったって言ってた。はるちゃんは味に厳しいからって」
「ハハハ・・イチゴのデコレーションケーキだったよ。友里と2人で食べたんだけど、コース料理の後だったし、すごくお腹いっぱいになった」
「ホント?その時電話でさ、誕生日くらい一緒にいてやれって怒られた」
「今井さんに?」
「そう。だったら、休めるようにもっと人を入れてくれって言ったけどね」
「あはは。今、調理場の人少ないんだよね?」
「んー・・。あと2人くらい入ってくれると、俺ももう1日くらい多く休めるんだけどなぁ」
「アルバイトの募集はかけてるの?」
「かけてるよ。いろんな求人誌に。でもなかなか、いい人材がね〜・・。うちは勤務時間もハードだしね。『ディル』も先月1人辞めて、今井さんも休みなしって言ってた」
「今井さん、子供もいるのに大変だね。一緒に過ごす時間がないんじゃない?」
「そうそう・・」
都市高速に入り、大好きな景色が見えてくる。
最初に見える空港には、ターミナルに向かって飛行機が何機も並んでいる。離陸した飛行機が、ゴオオンという音と共に、真横を空に向かって昇っていく。
空港の横を通り過ぎると、ビルが立ち並ぶ都心部へと入っていく。
助手席の窓からクリニックがあるビルを見つけ、思わず窓ガラスに手をついてしまう。
「どうした?」と、和晃がチラッとこっちを見て言う。
「ううん、別に」
ただじっと、ビルだけを目で追う。次々と通過していく景色の中で、そのビルだけが止まって見える気がする。
先生は、今日も仕事かなあ・・
誕生日の日、診療室を出るときに見た先生の顔を思い出す。
「ー・・と思わない??」
和晃が何か言った。
「え?」
「ええーっ?聞いてなかったのお?」
「え?あ、ごめん。」
「はるか、最近なんか元気なくない?」
「え?そお?」
「うん、なんか、時々うわの空っていうか。悩みでもあるの?」
「ううん、別にないよ〜。全然大丈夫〜」
「そう?」
「うん」
和晃を安心させる為に、笑ってみせた。
うわの空。
自分では気づかなかった。
和晃がいるときは、先生のことはなるべく考えないようにしていたつもりだった。
でも、やっぱり考えている。
常に。
心のどこかで。
30分弱で、都市高速を一周した。
ドライブの後は和晃の買い物に付き合い、夜は和晃の希望でイタリアンの店に行き、パスタを食べた。
久しぶりの休日を、和晃は満喫しているようだった。
4日後のクリニックの予約を前に、麻耶ちゃんに電話をした。
前田先生のことを話してみようと思った。
1人で思い悩んでいるより、誰かの助言が欲しかった。
例え非難されても、もう、想いを抱いている自分がいる。
『もしもしぃ』
「麻耶ちゃん?」
『おおーはるちゃん』
「もう、仕事終わった?」
『うん、今、駅から家まで歩いて帰ってるとこやに。だいぶ寒くなったなぁ』
「んー、こっちも朝晩は冷えるよ。でも、今年は暖冬傾向だって言ってたよ。」
『あ、ホンマ?もう、ウチ寒いの苦手なんさ。冬なんか来んでええわあ』
「あはは」
『どうしたん?今日は?』
「うん・・ちょっと、麻耶ちゃんに聞いてもらいたいことあって」
『そうやろ!?やっぱりな〜、この前の誕生日ん時も、なんかおかしい思ってたんやんか〜』
「うん・・」
『なん?』
「麻耶ちゃん・・私ー・・好きな人がいる」
『え?』
「いいなあって思ってる人がいて・・」
『ちょっ・・何?何かヤバイことしよるんちゃうやろな!?』
「ううん、何にもしてないよ」
『あ、そうか、だったらええけど・・』
麻耶ちゃんが、深い息を吐いたのがわかった。
「片思いしてるだけなんだけどね・・」
『うん・・』
前田先生との出会い、これまでの経緯、先生のこと、先生を想っている自分のこと、全てを麻耶ちゃんに話した。
麻耶ちゃんは、ただ時々『うん』『うん』と頷いていた。
話し終わった後、返ってきたのは意外な言葉だった。
『素敵やなあ・・はるちゃん』
「ー・・・え?」
『恋焦がれとるはるちゃんの言葉、なんか素敵やなあと思ったでさあ・・』
「もっと・・そんなのよくないって言われると思ってた」
『そう言うて欲しかったん?』
「・・わかんない」
『ええやん。はるちゃん、結婚しとんのに1人でおること多いし、他の人に恋して、楽しむくらいええと思うわ。』
「和晃を裏切ってるよ・・」
『でも、旦那のことも大事に思ってんねやろ?』
「うん」
『ほなええやん。せっかく好きやって思ってるんやしさあ、その気持ち大事にしたらええやん。まあ、人妻やし、好きならどんどんいってまえーとまでは言われへんけどなあ』
「ー・・・うん・・」
嬉しかった。
ただ嬉しかった。
先生を好きな気持ちは膨らむのに、どこか自分の不誠実な想いを否定していた。
好きでいたい。
先生を好きでいたい。
和晃には絶対に知られないように。
和晃をキズつけたりはしない。
ずっと隠し通す・・先生への想い。
好きな気持ちを楽しむ。
前田先生を 好きな気持ち・・。
クリニックに行く日は決まって雨が降る。
クリニックの入り口の傘立てがいっぱいなら、待合室のソファーも人で埋まっている。
座る場所すらなく、フロアの隅で立って待つことにした。
待っている間、診療室のガラス扉の向こうを通る、前田先生を2回見た。
今日は待ち時間も長かった。
30分ほど待って、助手の下山さんに名前を呼ばれた。
診療室は、いかにも忙しいという雰囲気が漂っていた。
いつもの、癒しを思わせる空気は全くない。
6番ブースに案内され、下山さんが診療の準備をする。給水口に紙コップを置き、治療器具をジャラジャラと出し、スタイを首元に着けられる。フラットパネルモニターに、デジタル画像も出していた。
あれ・・この写真・・・
自分のではない気がした。
背後に足音がし、「春日部さん、こんにちは」と、マスクをした前田先生が来た。
「こんにちは」と返したが、先生の顔に笑みはない。というより、私の顔など見てもいない。
モニターを見るなり、先生が言った。
「下山さん、写真が違う」
下山さんは慌てたように「すみません」と謝ると、モニターのリストから私の名前を探していた。
やっぱり、私の写真じゃなかった。
なんとなく、先生の言葉にトゲのようなものを感じた。
「春日部さん、シート倒すよー・・」
シートを倒しながら先生は言う。
「今日は、上の奥にある、すごく小さいんだけど悪くなってる箇所があるから、そこを削って、白いもので埋めていくっていう治療をするからね。」
「ー・・はい」
早口で、少し投げやりのような説明に戸惑った。
忙しくて、ゆっくり説明する余裕などないのかもしれない。
「顔に水がかからないように、タオルをかけますね」
下山さんはそう言うと、私の顔にそっとタオルを置いた。
一番嫌いな「削る時の音」が耳に響く。
全神経が、削られている歯に集中する。
「ちゃんと奥で吸引してあげないと!」
前田先生の、下山さんへの注意が飛ぶ。
先生の口調は明らかにキツイし、少しイライラしているように感じる。
一瞬、喉の奥に水が流れ込んできた。
歯を削られているにも関わらず咽てしまい、我慢できずに咳き込んでしまった。
「ああ、咳をするなら手を上げてくれないと!」
ー・・・
前田先生はキツク言った。
「すみません・・」
ズキンとした。
ショックだった。
ズキン・・ズキン・・ズキン・・ズキン
胸が苦しくなった。
泣きそうになった。
タオルの向こうで、先生はどんな顔をしているのか。
怒っているのか・・想像するとコワくなった。
「下山さん、そっちも!」
前田先生は怒っている。
イライラしている。
多分、度重なる下山さんのミスに、以前の加護先生のように怒っているのだろう。
咳をしたのは確かに悪かった。
でも、手を上げる余裕などなかった。
あんな言い方しなくても・・。
タオルが取られ、「うがいをして下さい」と、シートを起こされた。
先生の顔が見られなかった。
見るのがコワかった。
先生は、6番ブースを出て行った。
数分経って、女性の医師が入ってきた。
「では、削ったところを、今度は埋めていきますね」
残りの治療をしてもらっている時も、先生の怒った声が頭に響いていた。
どうしようもない気持ちでいっぱいだった。
いつも優しい先生から、あんな風に言われたことがショックだった。
治療が終わると、女性の医師は「待合室でお待ち下さい」と言い、さっさとブースから去っていった。
1人、6番ブースに取り残された。ふと外を見ると、雨は激しくなっていた。
・・・早く帰ろう。
膝に乗せられていたひざ掛けをたとみ、ハンガーからコートを取り、バッグを持ってブースを出た。
出た瞬間、カルテを持った前田先生がいた。
目が合った。
「春日部さん・・」
先生は、気まずいような顔をしている。
会釈をして、先生の横を通り過ぎ、待合室へ歩く。
私はどうかしている。
「春日部さん」
結婚しているのに、この先生を好きになったりして。
「春日部さん」
やっぱり間違ってる。
「春日部さん」
この恋は間違ってる。
「春日部さん」
よかったじゃない。間違いに気づいて。
「ー・・・はるかさん!」
・・・・・
無意識に、足が止まった。
他の患者の治療に当たっている医師も、近くを歩いていた助手も、そこにいる誰もが、驚いた顔で前田先生を見た。
当然だ。
患者を、下の名前で呼んだのだから。
振り返ると、少し困ったような笑顔で前田先生は言った。
「おつかれさま・・来週も来る?」
「ー・・・」
私は頷いていた。
「お大事に。」
前田先生は笑った。
マスク越しに。
いつもより、控えめに。