先生の存在。
痛み止めを飲んでも、数時間経つとまた痛んだ。
夜は出血が止まらず、夕食はあまり食べられなかった。
痛みで何もやる気になれず、和晃の帰りを待つ間、横になることにした。
どのくらい眠っていたのか、携帯電話の着信音で目が覚めた。
時計を見ると深夜の1時だった。
和晃・・・?
「もしもし?」ぼんやりしたまま電話に出る。
『もっしも〜し!!はるちゃん、起きとったあ??』
「・・・・麻耶ちゃん?」
『あ、ごめんなあ、もう寝とったん??』
「ううん、大丈夫。」
『はるちゃん、お誕生日おめでとう!』
「あ・・ありがとう。そっか、もう26日か・・」
麻耶ちゃんは、三重県在住の、小学生の頃からの友人だ。小学生の時クラスで流行っていた文通で知り合い、手紙のやり取りで14年付き合っている。携帯電話やパソコンを利用するようになってからは、そっちでのメールのやり取りの方が多くなってしまったが。
『なんやー、はるちゃん、誕生日なのに元気ないなあ。相変わらず、旦那は遅いん?』
「んー・・まだ連絡ない。」
『誕生日くらい、早う帰ってきて欲しいよなあ・・』
「そうだねー・・」
『明日は旦那と過ごすんやろ?』
「ううん」
『え?過ごさへんの?はるちゃん1人?』
「いや、友達とご飯食べに行くけどね」
『そうなん?旦那、仕事忙しいんやなあ。』
「んー、まあ、忙しいうちはいいんじゃないかな。暇になっちゃうと、売り上げとかに影響するし」
『そら、そうやな〜。忙しいうちが華やな。はるちゃん喰わしていく為に頑張ってんねやもんな』
「ははっ、そうだね。頑張ってくれてる。」
『ホンマ元気ないなあ・・。何かあったん?』
「今日、親不知を抜いてさー・・2回目。」
『うわっ!そら痛いなあ。そんで元気ないんや。』
「出血はするわ、痛むわで、ちょっとしんどくて」
『そうかー・・そら辛いなあ』
「麻耶ちゃん、元気にしてた?」
『うん、ウチは元気よ。わかるやろ??』
「うん、わかるけど。ははっ」
『仕事は何かと忙しいねんけどなー。まあ、私なりに頑張っとるわ。』
「忙しいのかー・・。みんな大変だなあ。彼氏は?今いるの?」
『おるよ〜。最近出来てん。楽しむところは楽しんどるわ』
「そう。それは何より。」
『はるちゃんは?旦那とは仲良うやっとる?』
「うん」
『はるちゃん、いつも1人やし淋しいやろうけど、はるちゃんなりに楽しまなあかんで。ウチらまだ若いんやしさあ』
「うん。そうだね」
『うん。ほな、また電話するわあ』
「ありがとうね、わざわざ」
『ええのよ。ほな、またな〜』
麻耶ちゃんとは、学生時代からお互いのいろんな悩み・秘密を打ち明け合ってきた。地元の友人などは、結婚するとどこか疎遠になっていったが、麻耶ちゃんは、初めから遠く離れていたからこそ、今でも変わらぬ関係でいられるのかもしれない。
和晃が帰宅したのは、深夜の2時を過ぎていた。
「誕生日なのに、一緒にいてやれなくてゴメンね。明日は今井さんによーく頼んであるから、楽しんでおいでね。」
「うん、ありがとう。あ、予約は21時でお願いしといて。」
「わかった」
結婚してから、和晃と一緒に過ごす時間は随分少なくなった。出勤が早く、帰宅も遅い為、深夜、1〜2時間顔を合わせている程度だ。結婚してからしばらくは、淋しいと思うこともあった。
・・・いつからだろう。
それが当たり前となって、淋しいとすら思わなくなったのは。
誕生日当日。
右上の頬には、まだ痛みが残っていた。
クリニックの時間に間に合うように出掛ける準備をしていると、携帯にメールが届いた。
一緒に食事をする予定の友里だ。
『今、仕事終わったよ。何時に行けばいい?』
待ち合わせの時間を指定し、返信する。
『わかりましたー。楽しみにしてるよ〜』
高校時代は、友里の他に2人の女友達といつも一緒だったが、他の2人は結婚してから子供を授かり、4人で集まることはなくなった。
唯一、友里は独身で、子供のいない主婦の私と、時々会っては食事をする。
日が暮れた時間に出掛けるのは久しぶりだ。
バスに乗り駅前へ向かうと、歩道の銀杏はすっかり葉を失い、枝だけになった木が並ぶ。景色は秋から冬へ。クリニックがあるビルの前では、数人の作業員が、木に電飾を施している。イルミネーションの準備だろう。
待合室のソファーには、誰も座っていなかった。22時まで受け付けているといっても、20時を過ぎれば昼間や夕方の忙しさはないようだ。
受付を済ませて待っていると、診療室から前田先生が出てきた。
「春日部さん、どうぞ」
白衣の下にはダークグレーのシャツに黒のネクタイ、今日はシックに決まっている。
「こんばんは」と、優しい笑顔。
「こんばんは」と、笑って返す。
診療室も静かだった。助手や他の医師の姿も2〜3人で、患者も奥に2人ほど見えるだけだ。
4番ブースに案内された。
診療台に座るなり、先生が背後から言った。
「あれ?髪、切りました??」
え・・・ そんな表情をして振り返る。
「昨日も来たのに・・」
「あっ・・昨日はあ・・忙しかったからね・・」
先生は、気まずい笑みを浮かべて言った。
それでも、髪を切ったことを気づいてもらえた。それがたまらなく嬉しかった。
「昨日、抜くとき、痛い思いをさせてごめんね。あの後、大丈夫だった?」
先生は背後から手を回し、首元にスタイを着けながら話しかける。
「夜、出血が止まらなくて、結構痛かったです。今もちょっと・・」
「痛む?」
「はい・・」
先生はカルテにペンを走らせる。
「うん、それじゃ、もう少し痛み止めを出しておこうね。」
消毒をする為にシートを倒す。
青いマスクをした先生は、ミラートップを片手に、私の顔の目の前で頷いている。
「左上の時より痛むのはね、右上の方は少し、乾いたかんじになってて、そのせいで痛むんだけど・・。でも、ちゃんと治るし、痛みも徐々に治まってくるから、心配要らないよ。」
「はい。」
「うん、それじゃ、うがいをしてね」
シートを起こしてもらい、うがいを済ませる。
「春日部さんが夜来るなんて珍しいね。」
スタイを外しながら先生が言う。
「あ、今日は、今から友人と食事の約束があって。誕生日で・・」
「え?そうなの??」
先生はカルテの生年月日を見る。
「あ、本当だ。おめでとう!」
先生はマスクを取って言った。
「あ・・ありがとうございます。」
周りには誰もいない。少し離れたところから、別の患者の治療をしている医師と助手の声が聞こえるだけ。
まだ、カルテに何か書き込んでいる先生に、思い切って話しかけてみた。
「先生・・」
「ん?」
「先生って、ラグビーをなさってたんですか??」
「え?あーうん、なんで知ってるの?」
「あ、この前、ここのホームページ見てたら書いてあって・・」
「あ〜あれねー。そうそう、そういえばそんなことも載せてたね。うん、ラグビーやってたよ」
「へえ・・」
「なんで?ラグビー好き?」
「最近、興味持ったんですけど、まだ詳しくはないんです。」
「そうなの??女性でラグビー好きって珍しくない?僕の周りにはいなくてさー。ラグビーの話を振ってくれた患者さんも初めてかも。」
「ポジションはどこだったんですか?」
「ポジションわかるの??」
「・・少しなら」
「スクラムハーフ」
「あー・・」
「ん??」
「そうかなーって思ってたから」
「ははっ、そう?僕ね・・」
と、先生が言いかけたところで、受付の女性の声が診療室に響いた。
「20時半ご予約の患者様いらっしゃいました。前田先生の担当です。よろしくお願いします。」
「はーい」
先生は上向き加減で言った。
「じゃあ・・残念だけど、今日はこれでおしまいだね。また、来週くらいかな?」
「あ、はい。」
「うん、それじゃあ、お食事楽しんでください。」
「ありがとうございます。」
「いってらっしゃい、お気をつけて。」
先生は、手のひらを向けて笑顔で言った。
ビルを出ても、嬉しくてたまらなかった。
1日遅れだけど、髪を切ったと気づいてくれた。
おめでとうと言ってくれた。
今日は「おつかれさまでした」ではなく「いってらっしゃい」
先生の言葉、先生の表情。
1つ1つが、喜びに変わる。
先生の存在が、大きくなっていく。
先生の存在が、確かなものになっていく。
『ディル』の前でバスを降りると、友里はすでに来ていた。
友里は、高校を卒業してすぐに、デパートの婦人靴売り場に就職した。2年前に人事異動があり、今はインフォメーションに立っている。
「はるちゃーん!」
友里が手を振った。
「ゴメンゴメン、待ってた??」
「ううん、5分くらいだよ。」
「じゃあ入ろうか。寒いし」
「うん、お腹空かせて来たんだ〜。」
「今日はサービスしてもらえるらしいよ。」
「ホントにい!楽しみー!」
店に入ると、キャッシャーに立っていた接客係の女性が、私と友里に気づいた。
「いらっしゃいませ。ご予約でしょうか?」
「あ、はい。春日部です。」
「ああ!お待ちしておりました!どうぞ」
2人掛けのテーブルに案内された。23時までの営業だが、お客さんは疎らだ。
飲み物を注文して待っていると、調理場から出てきた男性がこっちへ近づいてくる。
白いコックコート、膝下まである長い前掛け、黒いズボンを穿いた、スラリと背の高い今井さんだ。
「こんばんは。本日はご来店ありがとうございます。」
今井さんはニコニコしながらお辞儀をした。
「こんばんは。今日はお客さん少ないんですね。」
「何言ってんのお〜!はるちゃんたち来る前まで忙しかったんだよ〜」
「ええー。ホントかなー」
今井さんは、和晃を「和ちゃん」、私を「はるちゃん」と呼ぶ。統括料理長でありながら、気さくでフレンドリーなところが、部下から慕われている。和晃を採用したのも、支店の料理長に推薦してくれたのも、他ならぬ今井さんだ。和晃の実力を買ってくれている。
「今日は、ケーキも用意してあるから、食べていってね。」
「わー・・嬉しいです。ありがとうございます。」
「和ちゃんに、くれぐれも祝ってやるようにって頼まれてるからね〜」
「ホント、すみません。」
「それじゃ、ごゆっくり」
今井さんは、友里にも軽くお辞儀をして調理場へ戻って行った。
飲み物が運ばれ、乾杯をする。
「はるちゃんお誕生日おめでとーう!」
「ありがとーう」
店内にグラスの音が響く。
「はるちゃん、今日は旦那さんは?」
前菜のサーモンを口に入れながら友里が尋ねる。
「ん?仕事。いつも仕事よ。」
「誕生日なのに残念だね・・」
「それ、昨日も同じこと言われた。別の友達にね。でも、大丈夫よ。慣れてるから」
「えー・・でも、やっぱり淋しくない?」
「最初の頃はそんな風に思ってたけど、今はもう、なんともない。」
「そうなの・・」
「友里は?仕事はどう?」
「んー実はね、今の会社、来年の3月で潰れちゃうみたいなの」
右手のフォークが止まった。
「は?」
「来年の3月で、全員解雇になるの」
「なるのって・・・え?じゃあ、どうするつもりなの?」
「ん?退職金が少し出るみたいだから、それで繋いで次の仕事探す。」
「そんな・・」
「前々からね、そんな噂はあったんだ。だからあんまり驚いてない」
「そうなの・・」
「あー・・私もはるちゃんみたいに結婚したいな〜」
「・・・え?」
「私ねー、はるちゃんと旦那さんみたいな、仲のいい夫婦になりたいんだ」
私と和晃に憧れる友里を、どこかまともに見られなかった。
私と和晃は、友里が思い描いているような夫婦じゃない。
多分今は。
「友里、彼氏は?」
「それがねー、今付き合ってる人、年下なんだ。」
「いくつ?」
「5歳下」
「・・てことは、21?」
「うん。まだ若いでしょー。だから当分結婚はないかなーって・・。でも結婚したい。はるちゃんみたいになりたーい」
「ハハ・・大変だよ、結婚は。」
もし、結婚していなかったら
「でも、はるちゃん幸せそうだもん。」
「そう?いろいろあるんだよー」
もし、結婚していなかったら
「ええー、独身の私よりは、きっと楽しいはず」
「独身は独身の楽しさがあるでしょ?」
私はどうしていただろう?
先生への、この気持ちを。
今井さんが運んできた手作りケーキのプレートには
「Happy Birthday HARUKA from KAZUAKI」
とあった。
「和ちゃんリクエストのケーキだよ。作ったのは俺だけどねー」
今井さんは、得意気に笑ってみせた。
和晃の想いが、胸にひどく痛かった。
ケーキを前にしてもまだ、先生のことを考えている。
『ディル』を出ると、少しずつ雨が降ってきた。
友里と別れ、バスに乗る。
雨に濡れた窓ガラスが、街のネオンをキラキラさせている。
綺麗な景色がぼやけていく。
胸が痛い。
嬉しいことばかりの誕生日。
なのに 涙が止まらない。