近くない先生。
ラグビートップリーグの試合中継を観ながら、買ってきた本を開いて座っていると、お風呂上りの和晃が、後ろで声を上げた。
「ええっ??」
「なに。」
「好きだったっけ?ラグビー?」
「最近ね。おもしろそうかなって思って。」
「そうなの??まあ、はるかはスポーツ好きだもんねー」
「うん、観るのがね。ねえ、和晃はラグビー詳しい??」
「いやー・・あんまりわかんないなー。俺は球技はちょっとねー・・苦手だし。」
「そうだった。」
小学生の頃は、身長を伸ばしたくてバスケットボールをやった。高校生の頃はプロ野球を観るのが好きで、学校からそのまま球場へ向かい、試合を観て帰ったりした。冬季オリンピックの中継でアイスホッケーを初めて観て、しばらくはアイスホッケーばかり観ていた。
その反面、和晃はスポーツ観戦には全く興味がない。球技も本当に苦手なようで、学生時代は水泳を、20代始めの頃は、サーフィン、スキー、スノーボードをやっていたようだ。競うものより、自分で楽しむものを好むところは、いかにも温厚な和晃らしい。水泳は学生の頃授業でやった程度で、スキーやスノーボードの経験がない私とは、ことスポーツに関しては、お互いに全く話が合わない。
今まで、ラグビーの試合中継など、ちゃんと観たことはなかったが、やはりイメージ通り、選手は体が大きくガッチリしている。しかし、中には比較的小柄な選手もいて、ポジションで言うスクラムハーフには、そんな選手が多いように思えた。肩を並べ、勢いよくスクラムを組むフォワード、攻撃の要・司令塔となるハーフバック、駿足と呼ばれ、ボールを持ったらゴールラインめがけてトライを狙うスリークウォーターバック、ディフェンスリーダーのフルバック。
前田先生なら、やっぱりスクラムハーフかなー・・という想像と共に、先生と背番号9番が、時折重なって見える。前田先生がやっていたスポーツというだけで、試合を観るのが無条件に楽しくなり、横文字の多いルールやペナルティなども、すんなり頭に入ってくる。
ラグビーを観ている私の隣に、缶ビールを片手に和晃が座った。
「26日のこと、今井さんに言っといたよ。」
「あ、本当?2名で予約してくれた?」
「うん、でも、時間はまだわからないんだよね?」
「んー、25日がまた抜歯なんだ。次の日は消毒に来て下さいって言われるから、ディナーの前にクリニックに行こうと思ってて。そっちの時間次第かな」
「また抜くのー?左もまだ治ってないのに?」
「うん、そうみたい。またあの痛みとの闘いよ。」
「抜いた後が痛いんだよねー」
「抜いたことあるの?」
「あるよ〜。だから痛いのは知ってる。」
「そうなんだ。」
「『ディル』には友達と行くんだっけ?高校のときの」
「うん。友里も夕方までは仕事だから、『ディル』の前で直接待ち合わせする。」
「今井さん、サービスするって言ってたよ。」
「ホント??やったー。」
テレビからホイッスルが聞こえ、黄色いユニフォームのレフリーが左手を高く上げた。
選手がトライを決めた。
翌日、雨は上がっていたが、曇り空で気温も低かった。
誕生日のディナーに着て行く新しい服を買おうと思い、厚手のコートを着て、美容室のあるショッピングモールへ向かった。服を見る前に、美容室を覗いてみた。
「こんにちは。」
「おっ、春日部さん、こんにちはっ!」
牛嶋さんが1人、フロントに立っていた。店内には、他の美容師さんも、お客さんの姿もない。
「あれ、1人?」
「そうなんすよ〜。今日、暇なんす。予約ゼロ。」
牛嶋さんは苦笑いで言った。
「他の人は?」
「今、休憩入ってます。買い物っすか?」
「んー、ちょっと服見に来た。」
「そうすか。」
「うん。」
牛嶋さんが、私の髪をじっと見て言った。
「髪、よかったらまた少し切って行きませんか?」
「え?」
「ん〜、なんか、もう少し短くても似合うと思うんすよ。今もボブスタイルだけど、もうちょい短めのショートボブくらいに」
「切ってからまだ1ヶ月も経ってないよ」
「いいじゃないっすか〜。カット料金、ちょっと安くするんで。」
話をしていても、お客さんは1人も来ない。暇な牛嶋さんが、少し不憫に思えた。
「わかった。じゃあ、お願いします。」
「マジっすか!?ありがとうございます!やー、言ってみるもんすね。」
「安くしてくれるんでしょ?」
「もちろんすよ〜」
美容室を出てから、一度化粧室に向かった。化粧室の鏡で、もう一度ショートボブに仕上がった自分を見る。確かに、牛嶋さんの言う通り、さっきまでよりこっちの方がいい。雰囲気が少し、軽くなった気がする。成り行き任せで切ってみたが、意外に気に入ってしまい、それだけで嬉しくなった。
そのまま服を見て回った。どの店も、新作の冬物が所狭しと並んでいる。
誕生日のディナーに着て行く服を買いたいというのもあるが、どこか前田先生を意識している自分がいる。
ピュアホワイトのボウタイブラウスを買い、家に帰った。
夜、帰宅した和晃が「ただいま」よりも先に言った。
「あれ??また短くなった??」
「あはは。うん、つい流されて、また切っちゃったー」
「流されて??ていうか、どんどん短くなっていくなー・・。学生のころみたいだね」
「あー・・そうだね。あの頃はもっと短かったけど。」
「でも、そうするとなんだか、はるかはやっぱりショートの方が似合ってるかな。はるからしい。」
「そお?」
「んー」
25日。昨日まで晴れていたのに、クリニックに行く日になると雨が降っていた。普段、通勤などをしているわけではない為、傘を持ってバスに乗るというのが億劫だった。
他の歩行者と傘の端がぶつかったり、走行車が歩道に水を飛ばすのを避けたりしながら、ようやくビルにたどり着く。天気が良い日より、幾分遠く感じてしまう。
クリニックの入り口にある傘立ては、他の患者の傘でいっぱいで、今日も忙しいのだろうと予想がついた。
待合室のソファーに座っていると、初めてクリニックに来た日に案内してくれた、50代くらいの女性の助手に名前を呼ばれた。
「春日部さまー・・」
診療室に入ると、前田先生は5番ブースで男性患者の治療に当たっている。その後ろを通り、前回と同じ8番ブースへ案内された。
「荷物をお預かりしますね」
そう言って、女性がバッグを壁のフックに掛けてくれた。診療台に座ると、ブースの入り口から「下山さん」と呼ぶ男性の声が聞こえた。声の方を振り向くと、和晃の担当の、眼鏡の加護先生が立っていた。助手の女性は「下山さん」というようで、仕事のことで何か注意をされているようだった。下山さんは、クリニックの助手や歯科衛生士の中では、数少ない年配の女性だ。加護先生は、かなり厳しい口調で下山さんを叱咤して、ブースから去っていった。
下山さんは「失礼しました」と私に一言いうと、診療の準備を始めた。
医師の技術もそうだろうが、助手として働いている人への厳しい教育があるからこそ、市内NO.1と呼ばれるクリニックが成り立っているのだろう。
「先生が来るまでお待ち下さい。」
そう言うと、下山さんもブースから去っていった。
5分ほど経って、前田先生がやって来た。
「春日部さーん、こんにちは」
「こんにちは・・」と、前田先生を見ると、思わず吹き出しそうになってしまった。何があったのか、いつものさわやかなかんじとは違い、先生の髪はボサボサだった。
「お・・お忙しいんですか??」と、つい聞いてしまった。
「え??なんで??」
「だってあの、髪、グチャグチャです」
「えっ?ああ、うそ?グチャグチャ??」そう言って、先生は照れくさそうに、慌てて髪を右腕で直した。
「ゴーグルを着けたり外したりするからさぁ・・あはは」
先生は、フラットパネルモニターに、私のX線写真のデジタル画像を出し、じっと見ながら、「うん」と何かに納得し、「じゃあ、今日は右上の親不知を抜くからね。」と、いつものように笑顔で言った。
表面麻酔をした後、シリンジで麻酔をする。
これだけはどうしても痛い。
「痛いよね・・ごめんね」
麻酔をしている間、先生の顔がすぐそこにある。でも、前回のように見つめる勇気はなく、目線は洋画の流れるテレビの方を向いていた。
シリンジをゆっくりと抜き、「ちょっと待ってて」と、先生はブースから出て行った。
先生がいなくなると、大きなため息が漏れる。
緊張する・・・。
先生は、前回の麻酔の時より早く戻ってきた。モニターの右下に表示してある時計で時間を確認すると、「ちょっとごめんね」と言って、自分の右手の人差し指を、私の右の頬に乗せた。
わっ・・・
今日は落ち着いていた鼓動がいきなり鳴り始める。
麻酔を早く効かせる為か、指で頬を軽く解している。
先生は真剣に私の顔を見ている。
触れられている、見られている。
鼓動が早くなっていく。
右頬に、先生の指先の体温が伝わってくる。
トクトクトクトク、息も苦しくなってくる。
先生はふっと笑う。
「じゃあ、ちょっと動かしてみようね」
そう言うと、グローブをして鉗子を口の右上奥に入れた。
先生の腕に力が入り、メキメキッと耳に響いた瞬間、激痛が走り、思わず目をかたく閉じてしまった。
「うわっ、痛かった!?」と、先生が慌てて力を抜いた。
声を出せず、ただ少し頷いた。
「ごめん!!大丈夫!?」と、心配そうな表情で聞いてくる。
「だい・・じょうぶです・・」と、なるべく笑って答えた。
「もう抜けてるからね・・、本当にごめん・・」
そう言うと、グローブをした左手で右頬を優しく2回撫でた。
ローラーコットンで止血をする。
「血が止まるまで、もう少しこのままでいてね」
笑顔で言うと、先生はブースを出て行った。
数分経って、下山さんが入ってきた。口の中のコットンを取り出し「本日はこれで終わりです。明日、消毒にいらして下さい。」と、事務的な口調で言った。
8番ブースを出ると、前田先生は隣の7番ブースで、別の女性患者の治療に当たっていた。
心の中に、じわりと嫉妬心が湧いたのがわかった。
私以外にも、女性患者はいくらでもいるのに。
そんなの、当たり前のことなのに。
こんなことで、嫉妬する自分が恥ずかしかった。
先生の後ろを通り、待合室へ向かう。
いつもなら、ここで先生が呼び止めて、その笑顔を向けてくれるはずなのに。
「おつかれさまでした」は なかった。
治療の時は、その距離10cm。
でも、先生は近くない。
先生は医師で
私は患者。
先生の後姿を横目で見ながら、診療室を出る。
先生の指先の温もりが残る、
右の頬が、ズキズキ痛い。