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先生。  作者: Delta
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先生のこと。

銀杏並木の歩道を、ゆるやかに冷たい風が吹く。

視界に入る景色の音が聞こえない。

聞こえるのは、トクトクと鳴り止まぬ胸の鼓動だけ。

ただ呆然としながら歩いていた。

左上の頬には感覚がない。


私は結婚している。

和晃と5年の恋愛の末、結婚した。

和晃を愛して疑わない。

和晃以外に、好きになれる人なんていない。

ずっと、そう思ってきた。

さっきまでは。


自分で自分が信じられなくなる。

自分で自分がわからなくなる。

自分の不誠実な感情に、絶望すら覚える・・・


何時のバスに乗ったのか、どこを通って帰ってきたのか、家に着いてもあまり記憶がなかった。リビングに座って、しばらくぼんやりしていたが、とりあえず夕食を作った。

食欲はなかったが、一人で夕食を摂る。

結婚をしてから、2日続けて和晃と一緒に食事をしたことはない。もう2年近く、朝も夜も、食事は一人で摂っている。和晃が今の仕事を続ける限り、それは続く。一人での食事など、決して楽しいものではない。

だからこそ、和晃には寂しい食事をさせることのないように、何時になっても起きて帰宅を待つ。それが、養ってもらっている主婦としての恩返しだと思っている。

「尽くす」ことは嫌いじゃない。

和晃と一緒に暮らして6年、出来る限り尽くしてきた。通勤中に車内で食べる朝食の為に、毎日欠かさずサンドウィッチを作り、片付けの下手な和晃の代わりに、タンスの服は毎日必ず整理する。和晃が使う髭剃り用のシェービングも、使い切る前に新しい買い置きをし、長期連続勤務が続けば栄養ドリンクを買っておく。料理人である和晃をがっかりさせないように、夕食には腕をふるう。

毎日が、和晃中心に回っている。


そんな自分の努力を、自分で打ち消してしまうほど、心で和晃を裏切ろうとしている。

和晃への気持ちは今も変わらない。

だけど。

人を好きになったのは初めてではない。

だからわかる。

前田先生への気持ちは膨らんでいく。

多分、これからもっと。


キッチンで食事の後片づけをしていると、抜歯した左上が徐々に痛み始めた。痛みはだんだん重くなっていく。クリニックから処方された痛み止めを飲み、和晃の帰りを待つ間、パソコンを開いた。


前田先生のことを知りたい。


クリニックのホームページを開いてみた。

医院紹介から始まり、最新技術の説明などが、写真と共に掲載されている。「ドクター紹介」というのをクリックしてみた。見慣れた医師の顔写真とプロフィールが並ぶ。一番最初に、和晃が担当の先生だと言っていた、加護先生の名前があった。

あー・・この人か。

スクロールを下へ動かすと、4番目に前田先生を見つけた。

淡いブルーのシャツにネクタイ。初めて会った時を思い出させる服で、先生は写っていた。プロフィール文には、「歯科医師 前田晋一 □□歯科大学卒。○○クリニック院長。」とあった。□□歯科大学は、隣の市にある大学だ。クリニックには、姉妹病院が4件あり、前田先生はその中の1つの院長という肩書きのようだ。

本人コメント欄を読んで驚いた。「患者様を第一に考え、口腔内を総括的に治療していきます。こう見えても体育会系で、ラグビーをやっていました。体力には自信があります。よろしくお願いします。」


ラグビー!?・・・てかんじじゃないんだけどなぁ・・。

晋一っていうんだ・・。


意外だった。というか、信じられなかった。前田先生は、それが第一印象だったくらい、体はそれほど大きくない。色白で、男性にしては指先も細い。ラグビーといえば、もっとがっちりしていて体が大きい人というイメージがあった。白衣の前田先生からは想像がつかない。


どんな大学生だったのだろう。

ラグビーをしている時はどんなかんじだろう。

出身はどこなのだろう。

今、何歳だろう?

いろんな想像が頭を巡る。

そして思わず、プリントアウトしてしまった。

ー・・このくらいいいよね・・。

ブラウザの中の先生を見る。

昼間の診療が甦る。

パソコンの前で一人、顔が熱くなっていくのを感じる。

「明日も来てくれるかな。」と言った先生の声が、頭に響く。


深夜1時。携帯が鳴る。

仕事を終えた和晃からだ。

「もしもし?」

『もしもし』

「うん、おつかれさま」

『今終わったよ。』

「今日も忙しかった?」

『んー、相変わらずね。それより抜いたところは大丈夫?』

「うん、今は痛み止めが効いてる。」

『そうか、やっぱり痛むんだね。』

「仕方ないよ。明日も行かなきゃいけないの。」

『そっか。』

「気をつけて帰ってきてね。」

『はーい、じゃあねー』

「はーい・・」

和晃は職場から30分ほどで帰り着く。毎日、それまでに食卓に夕食を並べる。

パソコンをOFFにして、プリントアウトした紙を自分の整理タンスにしまい、キッチンへ向かう。冷蔵庫からサラダを取り出し、お味噌汁を温める。食器棚から和晃のビアグラスを取り出し、箸と一緒にテーブルに置く。

いつもやっていることなのに、今日は違う。やればやるほど、高ぶっていた気持ちが、徐々に現実へと引き戻されていく。


私は結婚している。

これが現実。




翌朝、アラームよりも早く目が覚めた。というより、殆ど一睡も出来なかった。

抜歯の痛みのせいでもあり、その痛みが、より先生を思い起こさせた。

すぐ隣では、和晃の寝息が聞こえる。

私は日頃家庭にいて、たまたま外で出会った人に惹かれている。

それならば、毎日、職場でいろんな人と知り合い、忙しい仕事を分かち合っている和晃は、私以外の女性に心惹かれることはないのだろうか。

いや、あるのかもしれない。

今までの私に、そんな発想がなかっただけで。


今日はあいにくの雨だ。今朝の天気予報で、しばらくはぐずついた天気が続くと言っていた。一雨ごとに、これから少しずつ寒さを増していく。

ビルの前で立ち止まり、何気なく5階を見上げた。



先生に・・・会える。



クリニックは、昨日とは全く違い、いつもの慌ただしさを取り戻していた。待合室のソファーも人でいっぱいで、診療室の扉からは、左右に行き交う医師と助手の姿が見える。

抜歯後の消毒とはいえ昨日の今日で、予約は希望の時間には取れず、クリニックに指定された時間は16時。いつも来る正午頃は、忙しそうではあるが、待合室は人が疎らだ。この時間の患者の多くは、仕事帰りのOLやビジネスマンで、人気の噂も本当だった。

20分ほど待ち、ようやく名前を呼ばれた。

「春日部さんっ」

カルテを持った前田先生が、左手で手招きをしている。

笑顔が少し疲れている。

「こんにちはっ。待たせてごめんね。奥の8番に入ってて。」

「はい。」

8番ブースに向かって歩こうとすると、

「昨日大丈夫だった?」と、私の顔をまじまじと見ながら先生が尋ねた。

「夜、ちょっと痛くて。」

「痛かった?そっか。痛み止めは飲んだ?」

コクンと頷く。

「うん、わかった。すぐ行くから。」

「はい。」

8番から10番ブースは、扉のある個室になっている。見たこともないような医療機器が置いてあり、特別な治療を施す部屋といったかんじだ。

「春日部さん、座っていいよ。」

背後から先生が言った。

「今日はすぐに終わるからね。」

「はい。」

診療の準備をする先生を目で追った。

「痛み止め、もう少し出しておこうか?」

「あ・・、はい、できれば。」

「うん。じゃあ、ちょっと見せてね。倒しまーす・・」

シートが倒され、先生がぐっと近くなる。

胸の鼓動が早くなる。

ミラートップを口に入れ、先生が覗き込む。

「うん、大丈夫みたいだね。」

消毒をして、シートを起こす。

右隣でカルテに書き込む先生を、ただじっと見つめてしまう。

ラグビーかぁ・・素敵だろうな・・。

トクトクトクトク。鼓動は鳴る。

「春日部さん・・」

先生が私を見る。

「熱とかないよね?」

「え?」

「ちょっと、顔が赤い気がするんだけど・・」

ドキッとした。

「ないです・・」

「ホントに?昨日抜歯してるから心配なんだけど・・」

「ないです、ホントにっ。大丈夫ですっ」

先生はふっと笑う。

「うん、それならいいけど。今日は、これでおしまい。次は・・いつ来る?来週くらい?」

「あ、はい・・」

「うん。じゃあ次は、右上の親不知を抜こうね。春日部さんは、写真を見る限り、下には親不知はないみたいだから、抜くのは次が最後だよ。」

「はい・・」

「うん、じゃあ、また来週ね。」

8番ブースを出る。


もう少し、先生といたかった。


「春日部さん」


振り返る。


「おつかれさまでした。お大事に」


その笑顔が好き。


会釈を返す。

次の予約は25日に取れた。



帰り際、駅の書店に立ち寄った。スポーツ関係の本の売り場付近は、立ち読みする男性で溢れている。サッカーや野球、ゴルフの本は割合たくさんあったが、ラグビーの本は数冊しか置いていなかった。「よくわかる。ラグビー ルールと試合」という本を手に取った。パラパラとめくり、自分に理解できるのかは半信半疑だったが、レジへ歩いた。


バスの中で、本を開いた。


今日はCSで、ラグビーを観よう。



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