先生の眼差し。
「歯医者さんどう?」
深夜2時、遅い夕食を食べながら和晃が聞いてきた。
「うん、和晃が言ってた通り、すごくいいところ。」
「だろ?怖くなかったろ?」
「最初は怖かったよやっぱり・・。でも、内装とかすごく綺麗でビックリした。最近の歯医者さんって、みんなあんな感じなのかな?」
「歯医者も今はたくさんあるし、いかに患者をたくさん呼ぶか、いろいろ大変なんじゃないかなぁ・・」
「そうなんだろうねー・・。ねえ、和晃の担当の先生は誰?」
「俺?俺は加護先生って人。」
ふいに、前田先生じゃないことに、なんとなくホッとした。
「ふう〜ん・・どの先生だろう?」
「眼鏡かけてるよ。」
「今度行った時探してみようっと。」
「次はいつ?」
「明日。親不知を抜くって言われた。」
「うわっ!なんか痛そう!」
「プレッシャーかけないでよっ」
「気をつけて行きなさいね。」
「うん、大丈夫よ。」
和晃に紹介してもらったクリニックなのに、クリニックのことを和晃と話すのは、妙に心地悪かった。
「今度の私の誕生日は休めそう?」
「んんー・・26日かぁ・・。ごめん、無理っぽいなぁ・・」
結婚してからは、お互いの誕生日も、結婚記念日でさえも、一度も二人で祝っていない。和晃が忙しすぎて、都合よく休みが取れないからだ。
和晃が休めないと言うのも予測済みで、驚きもしなかった。いつものことだ。
「あ、そう。じゃあ私、友達と外に食事に行ってもいい?」
「うん、いいよー。たまには贅沢しておいでよ。」
「うん、じゃあそうする。『ディル』に行こうかなと思ってるんだ」
「今井さんのところ?」
「うん、いいかな?」
「いいんじゃない?俺が伝えといてやるよ。」
「よろしく。」
今井さんは、和晃の直属の上司だ。和晃が料理長を勤める店は、『ディル』の支店であり、他にも市内に店舗が4つ。今井さんは、その全ての店舗の統括料理長で、基本的には『ディル』本店で仕事をしている。上司と言っても和晃とは同い年で、肩書きに関わらず、二人は仲がいい。『ディル』は、ランチは主にビュッフェスタイル、ディナーではコースとアラカルトが楽しめる、フレンチ中心の洋食レストランだ。
前々から、次の誕生日は『ディル』に行こうと決めていた。
いよいよ、3度目の歯科診療の日。
今日はまた少し、違った緊張感があった。抜歯なんて、子供の時以来だ。
予約は12時。いつも通り、バスで駅前へ向かう。
バスの中で、この前の「大丈夫。痛くないようにするから」と言った、前田先生の顔を思い出していた。
患者を安心させるのも、仕事のうち・・・?
月曜日の正午のクリニックはとても空いていた。待合室に座る患者は一人もおらず、診療室も、いつもの忙しそうな雰囲気はない。
受付を済ませてソファーに座ろうとすると、すぐに診療室の扉が開き、前田先生が出てきた。
「春日部さんっ、こんにちはっ。どうぞ」
笑顔で軽快に名前を呼ばれた。
「あ、はい・・」
薄いグレーのシャツ、シャツに合わせたセンスの良いネクタイ、長い白衣。今日はまだ、マスクはしていない。
診療室に入ってすぐの、2番ブースに案内された。いつもは、診療ブースの殆どが患者でいっぱいで、医師や助手が忙しく動き回っているのに、今日は、助手の姿も2〜3人といったところだ。テレビで流れる洋画はラブストーリーのようで、診療室は、映画の静かなサウンドトラックに包まれていた。
診療台に座ると、前田先生がマスクをつけて、診療の準備を始めた。いつもなら、助手の女の子がやる仕事だ。スカートを穿いている私にひざ掛けをかけ、給水口にはうがい用の紙コップを置く。カチッとセンサーが反応し、水が注がれる音がする。
「じゃあ今日は、左上の親不知から抜いていこうということなんだけど・・・」そう言いながら、後ろからそっと手を回し、淡いブルーのスタイを胸元に掛けてくれる。治療器具をジャラジャラと出しながら、「今日、ご飯いっぱい食べてきた?」と尋ねてくる。
「ー・・?はい・・・。え?」
なんでそんなこと聞くんだろう?
「あ、いや、麻酔するとね、2時間くらい、舌の感覚がなくなっちゃうから、熱いものとかで口の中を火傷したら大変だからね。しばらくは、食べ物を控えたほうがいいんだけど・・」
「ああ、そうなんですね。大丈夫です。」
「大丈夫?うん、よかった。ちゃんと麻酔をして、なるべく痛くないようにするからね。」
先生は優しく微笑む。
わかってる・・。と微笑み返す。
前田先生なら大丈夫。
「じゃあまずは、歯茎の表面を軽く痺れさせるお薬をつけるね。シートを倒しまーす・・」
シートを倒し、口にライトを当てる。
「はい、開けてー・・」
口の中に、ツンとした強い香りと、慣れない味が広がっていく。
不味い・・・・。
「はい、一度うがいをしていいよ。ちょっと待っててね。」
ライトを消し、シートを起こす。
うがいをしても味は消えず、左上の奥に、かすかな痺れを感じる。
天井にあるテレビを見上げる。流れているラブストーリーは、主要登場人物がたくさん出てくる、オムニバスだ。以前、CSの映画専門チャンネルで放送しているのを観たことがある。最後はみんなが幸せになる、ハッピーエンドだったと思う。
数分経って、前田先生が戻ってくる。
「春日部さん、ちょっと痺れてきた?」
先生の方を向いて、コクコクと頷く。
先生は笑って「うん、じゃあ、麻酔をしていこうね。」
シートを再び倒し、ライトを当てる。先生は、右手に麻酔のシリンジを持ち「はい、開けてー・・きもち・・左を向いてくれる?」と言う。
少しだけ、顔を左に向ける。
「うん、そう。ゴメン、薬が入っていくとき、ちょっと痛むかも・・・ゴメンね・・」
そう言って、ゆっくりとシリンジを口の中へ進める。
左奥にチクリと感じ、そのままガキガキと歯茎が凝固していくような感覚と、強い痛みが走る。
「ゴメンね、痛いよね、ゴメンね・・」
そのまましばらく、先生は真剣に針先を見ている。
周りには誰もいない。しん・・と、静かで穏やかな時間が流れる。
先生の真剣な眼差しに、思わず見蕩れてしまう。
先生の視線から、目が離せない。
先生の目。
先生の瞳。
マスク越しに、先生の吐息が聞こえる。
ネクタイ越しに、先生の鼓動が聞こえ、自分の鼓動と重なる。
先生は、私の視線に気付いてか、ゆっくりと、長いまばたきをした。
青いマスクのラインに沿った、切れ長の目が凛々しい。
ああ・・私・・・・
ゆっくりとシリンジが抜かれ、先生はふっと笑う。
「はい、閉じていいよ。口の中が苦いでしょ?一度うがいをしてね。麻酔が効いてくるまで待とうね。」
そう言ってシートを起こし、先生はまたブースを出て行った。
紙コップを持つ手が震えた。
待つ間、ただぼんやりと座っていた。
気付いた自分の気持ちに動揺していた。
ただ動揺していた。
私・・・、この先生のことが好き・・・
グローブをして戻ってきた先生が、シートを倒す。
胸の鼓動が早くなる。
「麻酔は効いてきたかなー・・。少し、動かしてみようね。痛いときは手を挙げてね。」
コクンと頷く。
先生は微笑む。
「うん、じゃあ、開けて・・」
鉗子を口に進める。白衣の袖を肘まで捲った先生の右腕に、力が入ったのがわかる。
左上に、メキッという音が響いた。
「痛い??」
先生は心配そうに聞く。
私は首を弱く横に振る。
また微笑む。
「うん、もう抜けてるからね。出血も少ないから安心してね。しばらくの間止血するから、これを噛んで、横になったまま待っててね。」
白いローラーコットンを口に入れられる。
「抜いた歯、持って帰る??」と、笑いながら聞いてくる。
「い・・いらなひでふ(いらないです)」
「ハハハ・・いらないよね。じゃあ、こっちで処分しちゃいます。血が止まるまでもう少し待ってね。」
ライトが消され、診療台の上でぼんやり待つ。
胸の鼓動は、トクトク鳴りっぱなし。
音を、先生に聞かれるのではないかと思った。
「はい、開けてー・・」
ゆっくりと、ピンセットでコットンを取り出してくれる。
「うん、大丈夫。しばらくうがいはしないでね。シートを起こすよー・・」
起き上がるとき、少し頭がフラッとした。
「春日部さん、明日来られる?」
「あ・・はい・・」
「うん、じゃあ、明日も来てくれるかな。状態を見て、消毒をするからね。」
「はい」
後ろから手を回し、ゆっくりとスタイを外してくれる。ひざ掛けを取り、バッグを手渡してくれる。
そして
「おつかれさまでした。お大事に。」
微笑んでくれる。
微笑み返す。
待合室に行き、ソファーで会計を待つ。
待っている間もずっと、診療室の前田先生を目で追っていた。
視線に気付いたのか、前田先生がこっちを見る。
目が合う。
先生は、マスク越しに笑顔を向ける。
もう・・その笑顔から、離れられない。