先生の故郷。
朝8時半過ぎの駅は、通勤・通学の人々で溢れていた。
誰もが急ぎ足で行き交う駅構内を、縫うように歩く。
2日分ほどの着替えを詰め込んだ小さめのキャリーバッグを引きながら、新幹線の切符売り場へと向かう。
時刻表を確認し、9:00発、東京行きの自由席の切符を買った。
自動改札機の前で和晃のことが頭を過ぎり、一瞬、足が止まった。しかし、すぐ後ろに人の気配を感じて、改札機に切符を入れた。
電光掲示板でのりばを確認して、エスカレーターでホームに上がる。
新幹線のホームは、在来線とは違い、旅行や出張を思わせるような荷物を持った人が多く、自由席ののりばに並ぶ人の列に、自分も紛れた。
昨夜のことを考えていた。
和晃には、1年以上も前から、ネット上に心の拠り所となる相手がいた。
女で、文面からしてまだ若いコだろう。
1年前なら、私はまだ真っ直ぐに和晃だけを想い、和晃に尽くしていた。
和晃はどうして、そんな相手を作ったのだろう。
私に不足している部分があったから・・・?
どんなに身の周りの世話をしても、私は和晃の心までは癒してあげられていなかった。
いつも必至に尽くしていたにも関わらず。
私は一体何をしていたのだろう。
和晃の何を見てきたのだろう。
新幹線がホームに入ってくる。
2号車の窓側の席に座った。
隣には、30代くらいの女性が座ってきた。
椅子に深く腰掛け、外を眺めた。
朝の日差しがゆるやかに車内を明るくしている。
バッグの中で、携帯電話のバイブレーションの音がする。
多分、和晃だ。
音が鳴り止むのを待ってから、携帯を開いた。
10分置きに、もう3回も、着信が残っている。
私がいなくなっていることに、和晃は慌てただろうか。
実家に連絡されて、親に余計な心配をかけたくない。
メールだけ、送っておくことにした。
『2〜3日出ます。少し1人で考えたいこともあるから。実家ではありません。親には心配かけたくないので、連絡したりしないで。』
新幹線がゆっくりと動き出す。
流れる景色を見ていると、また携帯のバイブレーション。
『はるか、今どこにいるの?
俺のせいで、はるかをひどく傷つけたこと、本当に深く反省しています。
謝っても、謝りきれない。
ずっと、はるかを騙していたようなかたちで、こんなこと言える立場じゃないけど、でもこれだけは信じて欲しい。
本当に愛しているのははるかだけ。
はるかにはこれからもずっと、おれの傍にいてほしい。
はるかの信頼を取り戻すためならどんな償いでもする。
これから仕事に行きます。
帰って来てくれるのを待っています。』
携帯を閉じて、バッグへしまう。
また、外を眺める。
昨夜に比べたら、なんて穏やかな時間だろう。窓の外は、よく晴れた清々しい景色が次々と流れ、新幹線の揺れ動く音と、時々聞こえる車内アナウンス。隣の女性が読んでいる単行本のページが捲られる音。
まぶたが重くなり、目を閉じた。
シートの揺れに身を任せ、しばらく眠った。
神戸・・・どんな街だろう・・
「ー・・・ろしま、ひろしまです。降り口、右側です」
広島駅に到着するアナウンスで目が覚めた。
1時間ほど眠っていただろうか。
ぼんやりとしながら携帯を見ると、10時を回ったところだ。
また、メールが届いている。
和晃かと思いきや、麻耶ちゃんからだ。
『おっはよーはるちゃん!来週からゴールデンウィークやなあ。はるちゃんは何か予定あるん?』
神戸に向かう新幹線に乗っていることを知らせた。
麻耶ちゃんは、絶対に驚いて電話してくるだろう。
新神戸駅のホームに降り立ち、深く息を吸った。
神戸に来た。
前田先生がいる神戸。
先生の生まれ育った街、神戸。
改札を出ると、思っていたほど駅の中に人が多くないのが意外だった。
静かな駅構内を歩き、土産物なども取り扱っている広めの売店で「神戸」と大きく書かれたガイドブックを買った。
右も左もわからない。
売店の前に並んでいるベンチに座り、ガイドブックを開く。
別冊で付いているエリアマップを外し、1ページ目を見る。
オープンしたばかりなのか、JR三ノ宮駅前のランドマークが観光の目玉として大きく取り上げられている。その下に順に、三宮、北野、元町、旧居留地、メリケンパーク、ハーバーランド・・・
市内交通で足を延ばせば、舞子という場所で明石海峡大橋も見られる。
とりあえず、泊まるところを決めておくことにした。
ガイドブックの後半に、「おすすめホテル一覧」があり、新神戸駅と三宮のちょうど中間地点にある、1泊5千円弱で泊まれるホテルを見つけた。
携帯を開き、ホテルの電話番号を見ていると、麻耶ちゃんから電話が掛かってきた。
「もしもし?」
『はるちゃん?今どこ!?』
「アハハ・・麻耶ちゃん、仕事中じゃないの?」
『今からお昼やに。それよりどこにおんの?』
「新神戸駅。さっき着いたの」
『着いたのって・・どうしたん急に?』
「・・・・うん・・ちょっと、和晃といろいろあって、家出てきたの」
『いろいろって?』
「ー・・・ん、まあ、いろいろ」
『・・・・』
「行くとこなくて・・それなら、神戸の街を見に行こうかなって思い立って・・」
『1人で来とんの?』
「うん」
『・・・わかった。ほんだら、ウチも行くわ』
「えっ!?」
『はるちゃん、1人じゃ心配やし、はるちゃんにも会いたいしな。』
「え、いいよそんなっ」
『ウチ、明日から連休やでさあ、今日の夕方、仕事終わったらすぐ出るわ』
「え、でも・・」
『ええのんよ。ウチも久しぶりに神戸行きたいわあ。電車乗り継いで3時間くらいかかんねんけど、そうやなあ・・・5時・・6時・・7時・・8時(20時)半くらいには三ノ宮駅に行けると思うでさ、また電話するわあ』
「・・・うん・・わかった・・」
『ほな、あとでな』
「うん・・」
麻耶ちゃんの気持ちが嬉しかった。
前田先生のいる街とは言っても、知らない場所に自分1人。
心細くないと言えば嘘になる。
麻耶ちゃんに、和晃のことを聞いてもらおう・・・
ホテルに電話をして、ツインの部屋を、とりあえず1泊で予約した。
地下鉄山手線で、まずは三宮へ向かう。
地下鉄を降りて、案内表示板をたどりながら歩いていく。迷路のような地下街を通り抜け、JR三ノ宮駅前の歩道橋を渡り、地図で見るところの「神戸国際会館」に入った。
時計は12時を過ぎている。
とにかくどこか落ち着ける場所で、麻耶ちゃんが来るまでどうするか考えよう。
エレベーターで11階へ上がる。
吹き抜けになり、ガラス越しに庭園の見渡せるおしゃれなカフェレストランに入った。
ランチを注文して、運ばれてきた水を半分飲んだ。
青空の下、整えられたビルの屋上の庭園がキラキラしている。
しばらくぼんやり眺めた。
和晃は、私が神戸にいると知ったらどのくらい驚くだろう・・。
前田先生は、この街のどこにいるんだろう・・。
服のポケットから、先生にもらったストラップを取り出して、携帯電話に結びつけた。
前田先生・・・
「お待たせしました」とホールサービスの女性がランチプレートを運んできた。
女性がガイドブックに目をやり、少し笑顔を向けながら尋ねた。
「ご旅行ですか?」
「あ・・はい・・」
ちょっと・・違う気もするけど
「そうですか。いい街ですよ、ここは」
「・・・はい」
「楽しんでいってくださいね」
「はい・・ありがとうございます」
サラダを食べながら、ガイドブックとエリアマップを開く。
三宮って・・・駅だけで一体いくつあるの・・?混乱しちゃいそう
ランチを済ませてから、神戸国際会館を跡にした。
ホテルに荷物を預けてから、ホテルから近い「北野」を観て回り、「生田神社」に寄ってから、麻耶ちゃんが着くころに三宮へ戻ることにした。
バッグとエリアマップを持ち、「北野」という町を歩く。
傾斜のある坂をゆっくりと登って行くと、様々な洋風建築が見られる。観光スポットではあるが、閑散としていて静かな町だ。
「風見鶏の館」という異人館の前に来ると、円を描くように並んだベンチがある広場があり、そこから少しだけ神戸港が見渡せるようになっている。さらにその上へ登ると、「北野天満神社」があり、小さな展望台からはポートタワーが見えた。
空はよく晴れている。
昨夜のことなど嘘のように、気分が清々しい。
自分の悩みなどちっぽけで、それほど大したことではないように思えた。
神戸を選んでよかった・・・
「生田神社」は、源平合戦の舞台となった生田の森に囲まれていて、縁結びやスポーツ必勝祈願で有名だと、ガイドに書かれている。
縁結び・・・
和晃と付き合って2年目の元旦、地元の縁結びで有名な神社に初詣をした。結婚が決まった時は、ご利益があったと2人で喜んだ。
和晃は今、何を思っているだろう・・・
どんなかたちであれ、もう一度、平穏な日々を取り戻せますように・・
参拝を済ませて、生田神社を跡にした。
19時を過ぎて、麻耶ちゃんから電話が掛かってきた。
「もしもし?」
『はるちゃん?今どこ?』
「今?三宮だよ。どこって言うと、ちょっと説明できないけど・・」
『あ、ホンマ?ウチな、予定より早く着きそうなんさ』
「え?そうなの?じゃあ、今から行くよ。JRの三ノ宮駅でいいんでしょ?」
『うん。中央改札付近で待っとってくれる?』
「わかった」
エリアマップで自分の位置を確認してから、JR三ノ宮駅を目指す。
夜の三宮の街は、昼間にも負けない賑やかな雰囲気で、キラキラするネオンの下には、それぞれのナイトライフがある。
街を歩いていると、時折目に留まる「歯科」や「デンタルクリニック」の文字。
見つけるたびに立ち止まる。
前田先生が働いているのではないかと、淡い期待を抱いてしまう。
けれどもすぐに、虚しいため息をついて、また歩き出す。
先生を探し出すことなど、不可能だ。
JR三ノ宮駅・中央改札の前まで来ると、すぐに背後から呼ばれた。
「はるちゃん!」
振り返ると、2年ぶりに見る麻耶ちゃんがいた。
「麻耶ちゃんっ」
「あ〜はるちゃん、久しぶりやなあ」
麻耶ちゃんは私の手を握り、懐かしむように笑顔を向ける。
麻耶ちゃんは、結婚式で会った2年前より、また少し大人っぽく、キレイになった。
「ごめんね麻耶ちゃん、こんなところまで・・」
「ええのんよ〜。ウチが勝手に来たんやし。それよりお腹空いたわ。ごはん食べよ」
「うんっ」
駅前のランドマークの8階にある、和食居酒屋に入った。
「ウチ、神戸久々来てんけど、ここ(ランドマーク)は初めてやわ」
「オープンして間もないみたいだよ」
「今日は1人で何しとったん?」
「ん?えーとね、北野っていうとこ回って・・生田神社にも行ってきたよ。センター街をぶらぶらしようかなって思ってたら、麻耶ちゃんから電話が来て・・」
「そっか。ほな、この後センター街行こか」
「うん」
飲み物が運ばれ、乾杯をする。
「ほな、久しぶりの再会やなっ。かんぱーい」
「かんぱい」
ビールを一口飲んだ麻耶ちゃんが、すかさず私に尋ねる。
「で、何があったん?旦那と」
「・・うん・・・」
昨夜のことを、麻耶ちゃんに話す。
麻耶ちゃんは、初めは少し驚いたような表情で、その後は少し淋しげな目で頷いていた。
「はるちゃんの旦那・・そんなことするような人じゃなかったのにな・・」
「うん・・私もそう思ってた・・。でもね、私も和晃と同じことしてたし・・」
「・・先生のことか」
「うん。だからこんなところまで来ちゃったんだけど・・。和晃を責める資格なんてホントはないのに、いっぱい責めて、家出までしちゃった」
「ー・・・先生に、躊躇わんと、気持ち伝えといたらよかったなっ」
麻耶ちゃんは、悲しそうな笑顔で言った。
「アハハ・・そうかな」
明るく賑やかな三宮センター街を、麻耶ちゃんと2人で歩く。
たくさんの店が立ち並ぶ中、ラグビー用品専門の店の前で足が止まった。
「おっ、ラグビーの店やなあ。」
「うん・・」
「神戸はラグビーチームもあるしな。ちょっと入ってみる?」
「いいの?」
「ええよ〜。はるちゃんの行きたい所は全部行こな」
麻耶ちゃんに背中を押され、少し躊躇しながら中へ入っていく。
店内には、ラグビーボール、ヘッドキャップ、スパイク、ジャージ・・ラグビーで使用するものが所狭しと並び、壁にはトップリーグの選手たちのポスターが貼られている。
先生も・・こんな所に買いに来たりしたのかなあ・・・
レジの横に、歯科クリニックのリーフレットが置いてあり、思わず手に取った。「スポーツ歯科・マウスガードは当院へ」と書かれている。
ふっと笑いながらリーフレットを戻そうとすると、その横に、見覚えのあるストラップが並んでいる。
あ・・これ・・
バッグから携帯を取り出す。
同じ・・
先生からもらったストラップと同じ製品が色とりどりの種類で並んでいる。
「それ?先生からもらったんは」
麻耶ちゃんが後ろから聞く。
「うん・・」
すると、レジにいた若い男性店員も、同じことを聞いてきた。
「あ、それ、誰かにもらったんですか?」
「・・え?」
「それ、うちの会社のオリジナルなんです。東京と大阪、あとここの3店舗でしか取り扱ってないんですよ。まあ、ネットでも買えるんですけどねっ」
ネット・・・
「どなたかとお揃いですか?」
店員がいたずらっぽい笑顔で言う。
「え?」
「これ、2つペアでしか売ってないんです。ほらね」
店員が、売り物のストラップを1つ手に取って見せた。
ー・・・!
「このへんでは、地元の大学生とかが、彼女とお揃いで持ってたりしてて、ラガーマンの間ではちょっとした人気アイテムなんですよ」
じゃあ・・
それじゃあ・・もう1つは・・・
「ー・・はるちゃんっ・・・」
後ろで話を聞いていた麻耶ちゃんが、私の肩にそっと手を置いた。
ずっと知りたかった ストラップの意味。
ずっと先生に会いたかった。
でも 会えなかった。
先生の影を追ってやって来た神戸で
探し求めた意味を見つけた。
先生
先生
前田先生
会えなくても
繋がっていた。
答えはこれで
合っていますか?




