先生への想い、その報い。
外は雨が降っていた。
クリニックの日はやっぱり雨だ。
傘は持っていない。
雨の中を歩いていた。
視界に入るものは色あせて、何もかもがぼやけて滲む。
雨のせいなのか
涙のせいなのか
春の雨はまだ冷たい。
家に帰り着いても、玄関に座り込んだまま、ぼんやりと右の手のひらにあるラグビーボールを眺めていた。
先生がいなくなった。
春に会おうねと言ったはずの先生。
4ヶ月、先生に会えることだけを信じて
ただ、その日を待ちわびて
毎日 毎日 先生を想って
携帯電話のメール着信音が聞こえ、半ば面倒くさい気がしながらディスプレイを見た。
メールは麻耶ちゃんからだった。
『はるちゃ〜ん。先生には無事会えた〜?今頃幸せをかみしめとるんやろうなあ。報告待ってるよ〜』
ため息と、涙が入り混じる。
涙はどうして、尽きることがないのだろう。
雨に濡れて冷えきった体の中で、目の周りだけが熱い。
麻耶ちゃん 先生はもう・・・ いなかったよ。
シャワーで体を温めてから、キッチンへ立った。
泣きすぎたせいか、頭がズキズキ痛む。
それでも夕食を作らなければいけない。
悲しい出来事があったなどと、和晃に知られてはいけない。
和晃には関係のないこと。
普段通り、振舞うしかない。
何度も、料理を作る手が止まる。
いつもより、出来上がるのも遅かった。
食卓に、1人分の料理を並べて座る。
食欲など、ちっとも湧いてこない。
先生がいなくなった。
前田先生がいない。
いると思っていた場所に、いなかった。
涙が出るのに、実感が湧かない。
「どうしたの?」
帰宅した和晃が、私の顔を見るなり言った。
「え?」
「顔。すごく赤いよ。」
「あ・・えと、今日ね、歯医者の帰り、すごく雨が降ってて、傘持ってなかったから濡れちゃって・・」
「熱っぽいの?」
「あ・・ちょっと、頭が痛いかな」
「どれ?」
和晃が私の額に手をあてる。
「風邪引いたかな?んーちょっと熱い気もする」
「・・・そうかな」
「うん。無理しないで、俺のことはいいから。横になって」
「・・・」
「はるか?」
「あ、うん・・。ありがとう。」
「暖かくして寝るんだよ」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ・・・」
和晃は、冷蔵庫から缶ビールを出して、1人で食卓に座る。
そのうしろ姿を見てから、寝室に入った。
和晃の優しさが痛い。
和晃以外の人を想い、いなくなったことでボロボロになっている私に、何も知らずにあたたかく接してくれる和晃。
ベッドに入っても、すぐには眠れなかった。
今日だけで、どのくらいの涙が出ただろう。
日常というものは、無情なほど当たり前のように繰り返される。
前田先生がいなくなった現実を受け入れきれないまま、またいつもの生活を続けていく。
先生に会えなかったことで、先生に会えることを楽しみにしていた4ヶ月が、延長されているような気がしてならなかった。
先生に会えていれば、何かが変わっていたはずの“今”
結局、何も変わらなかった“今”
何をしているときでも、携帯が常に気になる。
もしかしたら、先生が連絡をくれるかもしれないと期待をして、どこかで自分を誤魔化している。
クリニックが、私の連絡先を伝えてくれているのかも定かではない。
伝わっていないのかもしれない。
そして本当は気づいている。
先生からの連絡など、あるはずがないことも。
先生とはもう、会う術がないことも。
スーパーの帰り道、自転車を押して歩きながら、保育園の正門にある、桜の木の下に立った。
ボタボタと咲く満開の桜が、花びらを風にのせて、精一杯、「春」を演出している。
この桜が咲くのを、ずっと待っていたのに。
今ではもう、何の意味もない。
麻耶ちゃんに事実を話したのは、クリニックに言ってから2週間もしてからだった。
『おっ・・おらへんかったん?』
「・・・・うん」
『えっ・・ちょっ・・なんでなん!?』
「・・辞めて・・神戸に帰ったって、他の先生たちは言ってたけど」
『連絡先とかわからへんの?』
「個人情報だから、教えてもらえないよ・・。でも、辞めてから連絡がつかないんだって」
『ええっ・・ウチ・・ちょっと待って、わけわからんわ・・。なんで・・春に会おう言うたの先生の方からやんか・・なのに・・』
麻耶ちゃんも、予想外の展開に動揺していた。
「もう・・多分、会えない」
『そんな、ちょっと待ってえな、なんとか見つけ出す方法とかあるんちゃう?歯科医やったら、開業とかするつもりかもしれへんし、ホームページ立ち上げたりとかするかもわからへんし・・・』
「うん・・・」
『・・・はるちゃん・・大丈夫・・?』
「ー・・・うん・・」
『・・神戸かあ・・。はるちゃんとこからだと新幹線で2時間半くらいか・・。ちょっと遠いなあ・・』
「・・・・・・」
『神戸の・・人やったんやなあ』
「・・・ストラップをね・・」
『え?』
「ストラップを・・もらったの・・最後に」
『・・・』
「ラグビーボールが付いててね、加護先生っていう男の先生に、前田先生が私に渡すように預けてたんだって」
左手で携帯を持ち、右手の人差し指で、テーブルの上のストラップを軽く弾いた。
「・・・どういう意味があるのかなあ・・」
『はるちゃん・・』
「・・・・」
『はるちゃん、先生探そう』
「え?」
『探す言うても、ネットで名前検索するくらいしか出来へんけど、いつかホームページ出来るかもしれへんやん』
「・・・ふふっ、それじゃストーカーだよ」
『えっ・・あ、まあそうかもしれんけど、でもはるちゃん、先生に会いたいねやろ?』
「・・・・うん」
『純粋に会いたいだけやねんから、とにかく探してみよう』
「・・・・」
『先生とデートしたこともあんねやしさあ、もし見つけて会いに行っても、先生、嫌な顔はせえへんと思うわ』
「神戸まで会いに行ったりしたら、怖がられるよ。引くんじゃない?」
『そんなん!見つけてから考えたらええわ!!』
「う・・うん・・」
麻耶ちゃんの気持ちは嬉しかった。
でも、先生は見つからないと思う。
ストラップ以外に、連絡先も何もなかったということは、先生には、私と何かを始めるつもりなど、なかったということだと思うから。
クリニックも、先生とは連絡がつかなかったのだろう。
何日経っても、先生から連絡が来ることはなかった。
麻耶ちゃんが言った通り、時々インターネットで先生の名前を検索してみても、前田先生らしき人物にはヒットしなかった。
「人」1人を、そんなに簡単に見つけ出せるものではないに決まっている。
4月の終わりになると、前田先生と出会う前のような、単調な毎日が戻ってきていた。
桜の木も、青い若葉を生い茂らせ、日差しにも少しだけ暑さを感じ始める。
ラグビーはシーズンオフで、中継も全くない。
ただ毎日、和晃の妻としての日常を過ごしていく。
朝、和晃の朝食を作り、和晃を送り出した後は、洗濯物を干す。部屋の掃除をして、スーパーへ食材の買出しに出掛け、昼間は少しのんびりして、夜は夕食を作り、和晃の帰りを深夜まで待つ。
時々先生を思い出し、今、どうしているだろうと考える。
先生の写真を見たり、ストラップを眺めてみたり。
けれど、状況は何も変わらない。
先生を想う気持ちも、先生に会いたいという気持ちも。
ゴールデンウィークを目前に控え、和晃の店には予約が殺到し、準備や仕込み、発注、書類の整理や売り上げの算出、会議・・・和晃の帰宅は毎日2時を回るようになっていた。
その日も遅く帰宅した和晃は、私がお風呂を済ませてリビングへ行くと、テレビの前で携帯を片手にうたた寝していた。寝室へ行き、ベッドに入ればいいものを、和晃はリビングでよくうたた寝をする。
開きっぱなしの携帯を取った弾みで、何かのボタンを押してしまった。ディスプレイを見ると、メール作成の画面だった。誰かにメールを送ろうとして、眠ってしまったようだ。
タイトルだけが入力されている。
『おやすみ』
おやすみ・・・?
しかもよく見ると、携帯メールではなく、プロバイダーのメールサービスの画面だ。
いつから、メールアドレスを持っていたのだろう。
そんな話は聞いたことがない。
心臓が、ドキドキ鳴り始める。
このメールは、誰に送るのだろう。
ドキドキドキドキ 手が震えるのを感じながら、前画面へと戻していく。
From:温美
『おはよう、たぁさん(^^)今日は学校でレポートの発表です。応援しててね。頑張るよ 〜』
from:温美
『今日はお仕事お休みなんだー。連勤ばかりで大変だね。体大事にしなきゃダメだよ。
愛してる』
ドクドクドクドク
from:温美
『私も大好きだよ、たぁさん』
from:温美
『たぁさんに会いたい。そばにいてほしい。会いたいよー』
ドッドッドッドッドッドッ
心臓が、割れそうな音を立てる
from:温美
『ハッピーバレンタイン☆たぁさん愛してるー(^^)』
from:温美
『今井さんはいい人だねー。素敵な上司に恵まれてるたぁさんが羨ましい』
私が知らない会社での出来事や、和晃の身の回りのこと、「温美」は何でも知っていた。
メールは1年以上前のものまで続いていて、途中から何と書かれているのか覚えられなくなった。
携帯を持つ手がひどく冷たい。
震えが止まらない。
横で眠っている和晃の顔を見る。
何がなんだかわからない。
温美って・・・誰?
たぁさん?
愛してるって・・・なに?
和晃の肩を揺さぶる。
「ねえ、和晃」
「んー・・」
和晃は顔にしわを寄せながら動く。
「ねえ、和晃っ」
目をゆっくりと開いたり閉じたりしながら、ぼんやりとした表情でこっちを見ている。
携帯のディスプレイを和晃の方へ向けた。
「ねえ、温美って誰?」
和晃を真っ直ぐ見て聞いた。
ドクドクドクドク
どうか、間違いであってほしい
「温美・・・?」
和晃は、よく状況を理解できていない様子で、携帯を覗き込む。
「これ、プロバイダーのメールサービスの方でしょう?ログインしないと使えないやつ」
「・・・・」
和晃は携帯をじっと見ている。
ドクドクドクドク
「和晃・・誰とメールしてるの?」
和晃はようやく何のことかわかったらしく、携帯を手に取り、画面を待ち受けに戻した。
「ねえ、温美って誰?」
「あー・・これは・・、ネットで知り合った友達っていうか・・」
無表情で和晃は言う。
「友達・・・?」
「うん、料理のブログで知り合って・・」
「和晃、いつアドレスなんて取得してたの?私、知らない」
ドクドクドクドク
「知り合ったときに、アドレスの取り方教えてもらって、こっちでもメール出来るからって・・」
和晃は、私を見ない。
「・・・・愛してるって何・・?」
「愛してる?」
「メールで、その人に愛してるって言ってるでしょう?」
「あ・・いや、ただの遊びで言ってるだけっていうか・・」
「は・・・?」
意味が わからない
「いやその・・」
「和晃・・その人が好きなの・・?」
何を言っているのだろう
「いや、仮想っていうか、架空で好きなだけで・・」
「はっ・・・?もう・・意味わかんない・・」
わからない
わけがわからない
「でもっ、本当に好きなのは、はるかだけっ・・」
和晃が、慌てたように私に寄ってくる。
思わず床に手を突いて離れた。
「何・・言ってるの・・?」
「これはっ・・」
和晃は、頭から額、顔全体に大量の汗をかき、あごからスタスタと水滴が落ちている。
人が追い詰められて、こんなに汗をかく姿を、生まれて初めて見た。
その汗に、とてつもない嫌悪を感じていた。
「すごい・・汗かいてるよ・・なんなの」
「・・・う、うん」
「なに・・・?浮気してるの・・?」
「ううん、違う!ただ、メールのやり取りしてるだけで、会ったこともないし・・」
「だって!愛してるとか、大好きだよとか言ってるじゃない!会ったこともないのに言えるの・・?」
「だから、それは架空の恋愛だから・・」
「架空・・?相手は実在する人間でしょう?私の知らないようなことも、その人は何でも知ってるじゃない。会社での・・話とか・・」
「・・いろいろ・・相談とかしてて・・」
「相談・・?私には、何にも話してくれないくせに、その人には何でも話してるんだ」
「はるかに言ったら、はるかもストレスを抱えると思ったし、やきもちも・・妬くと思って・・」
和晃は正座をして、両手を膝につき、俯いている。
「いつから・・・?」
「・・・半年・・くらいかな・・」
「嘘言わないでよ!31の誕生日の時、おめでとうってメール来てるじゃない!1年以上前からでしょう!?」
「ー・・・もう、そんなになるかな・・・」
和晃は俯いたままだ。
気がつくと、私はひどく泣いていた。
息が切れる。
「ずっと・・・私に黙って・・隠れて・・裏切りだとは思わなかったの・・?」
「ー・・よく考えたら、裏切りだったと思う。・・・ごめんなさい・・」
「私が・・和晃の知らないところで、和晃の知らない人に愛してるって言っても、なんとも思わないの・・?」
「思う・・。ごめん・・・ごめんなさい・・はるか・・」
「見つからなければ、ずっと続ける気だったんでしょう?・・いずれは会って、関係も持つつもりだったの・・?」
和晃は首を横に振る。
「俺、そんなに器用じゃないもん・・。仮想恋愛だし・・いつかは終わると思ったし・・」
「ハハッ・・器用に隠れてメールで恋愛してたんじゃない」
「ー・・・」
「・・・・」
私に、和晃を責める資格なんかない。
私だって、前田先生に恋していた。
和晃に知られなかっただけ。
でも、和晃は、私が前田先生を好きになるずっと前から、裏切っていた・・
前田先生を好きになったとき、和晃を裏切っている自分を責めた。
なのに和晃は、なんの躊躇いもなく・・・
裏切っているのは、和晃の方だった
「1年以上も・・何にも知らないで尽くしてたんだ・・」
「ごめん・・ごめんなさいはるか・・・ごめん・・」
「あはは・・・あははははは・・バカみたいね私・・」
乾いた笑いが出た。
「はるか・・」
ガタッ・・
私に触れようとする和晃から、逃げるように離れた。
「ー・・・知らない人に見えるよ・・和晃・・」
「・・・・・」
私の知っている和晃じゃない
「どうしたらいいかわからないよ・・」
「ー・・ごめん・・ごめんはるか・・」
「もう・・6年だもんね・・私に飽きたんでしょう?」
和晃は首を振る
「私に不満があるんでしょう・・?だから・・」
「ない・・不満なんかないよ・・!」
「ウソ・・この1年、上辺だけで私に接してたんでしょう・・?ホンネはその人に打ち明けて、私は家にいて身の回りの世話だけしてて・・、専業主婦だからってバカにしてたんでしょ・・!」
「してないよ・・!ちがう・・」
「・・・・なにが違うの・・?」
心臓は、もう鳴り止んでいた。
頭がクラクラ、ぼんやりする。
信じていたものに裏切られる瞬間とは、こういうものなのか。
どこか信じられない部分と、救いようのない絶望感がそこにある。
「もう・・やめるよ・・。メールもしないし、アドレスも破棄する」
「当たりまえよっ・・・!」
和晃を、初めて憎しみの目で睨んだ。
私を1年以上も騙していた。
私は知らずに尽くしていた。
和晃のために
和晃のために
愛されていると、信じていたから。
私に、和晃を責める資格はない。
きっとこれは報いだ。
前田先生を好きになった報い。
和晃をリビングに残して、寝室に入った。
何時間も泣いた。
声を出して泣いた。
怒りをぶつけるものがないのが辛かった。
自分の中で込み上げてくる怒りを押し殺し、それでも、怒りは何度も甦る。
窓から、まだ暗い外を眺める。
うっすらと、遠くへ延びる新幹線の高架が見えた。
先生
前田先生はどうしてるだろう
まだ、日が昇らないうちに寝室を出ると、ひんやりとしたリビングの床に、和晃はうずくまるように横になっていた。
毛布をそっとかけて、和晃の寝顔を見た。
そして静かに家を出た。
タクシーを拾い、駅へ向かう。
神戸へ行こうと思った。
先生には会えないけど、
先生が生まれ育った街を見に行こう。
前田先生が
生まれ育った街を。
今より少しだけ
先生の近くに。