先生がくれたもの。
3月に入ると、小春日和の暖かい日が続いて、気象予報では「今年は例年より早い桜の開花が期待できそうです」と言っていた。
待ちに待った春がすぐそこまで来ていると思うと、それだけで胸が高鳴る。
毎朝ベランダに出ては、マンションの向かいの保育園の正門に立つ、3本の大きな桜の木を眺め、今か今かと開花を待った。
桜が咲けば、春。
リビングのテーブルに、花びら模様の便箋を置き、少しずつペンを走らせていく。
麻耶ちゃんとの電話の後、四六時中考えていた先生への手紙。
前田先生
突然のお手紙すみません。
12月に先生とご一緒したラグビーの試合、
本当に楽しかったです。
これからも、先生といろんなお話が出来たら
いいなと思っています。
気が向いたら、ご連絡いただけませんか?
春日部はるか
手紙の最後に、携帯番号とメールアドレスを書いた。
まだ、いつクリニックに行けるのかも決まっていないのに、手紙を書いておくなんて気が早いような気もした。
でも、書いてみたかった。
書いた手紙を読み返すと、恥ずかしさで顔が熱くなった。
先生は、これを読んだらどう思うだろう。
先生は、電話してきてくれるだろうか。
先生は、メールを送ってくれるだろうか。
何度も読み返した手紙を折りたたんで、小さな封筒に入れる。
封筒を見ると、先生に渡す瞬間を想像してしまう。
先生は、どんな顔をするだろう。
3月13日。
和晃は32歳の誕生日を迎えた。
付き合っていた頃は、お互いの誕生日には必ず休みを合わせて、二人だけで祝うのが当たり前だった。今は全くそんなことはなく、今日も和晃は仕事に出掛けて行った。
それでもせっかくの誕生日。夕食はいつもより豪勢に作ってあげようと、スーパーで少し高いお肉を買った。スーパーの隣にある洋菓子店で、15cmの小さなデコレーションケーキを買い、プレートには『32歳おめでとう』と入れてもらった。洋菓子店は、明日に迫ったホワイトデーを前に、2〜3人の男性客の姿があった。
そういえば、和晃はバレンタインデーのお返しは買ったのだろうか?
いつもなら、自転車で5分の所を、買い物袋とケーキの箱を持って歩いた。
誕生日を意識してか、和晃はいつもより早い帰宅だった。
「今日は誕生日だから、ステーキにしたよ〜」
和晃のビアグラスにビールを注ぐ。
「わー!ステーキなんて、久しぶりだ」
和晃は嬉しそうに言う。
ケーキにロウソクを立てて火をつける。
「それじゃあ、32歳!おめでとーう!!」
乾杯をして、和晃がロウソクの火を吹き消した。
「ありがとう。」
「うん。ケーキは食後にする?」
「うん、そうする」
ケーキを一旦冷蔵庫にしまう。
「ねえ、明日ホワイトデーだけど、バレンタインデーのお返し、ちゃんと買った??」
先月のバレンタインデー、和晃はチョコレートを4つ持って帰ってきた。今年のチョコレートの中には、去年のような本命らしきものはなかった。なんとなく、つまらない気がした。
「買ってない。行く暇がなくて」
悪びれた様子もなくあっさりと言う。
「ええっ、どうするのっ?」
「ん?どうしよう」
「もう・・言ってくれれば買っっておいたのに」
「んー・・いいや、店で何か作るよ。」
「何かって・・デザートとか?」
「うん。チョコレートくれた人に、食べたいもの聞いて、明日作ってやることにします」
「お店の料理が食べられるのは嬉しいだろうけど・・でも、なんかちょっと、手抜きなかんじがするね」
「かんじじゃなくて、手抜き。だってどうせ義理チョコなんだし。いいんじゃない」
「どうせって・・本命が欲しかったの?」
からかい混じりに聞いてみる。
「いや、違うけど。なんか面倒くさくて。毎年毎年・・・」
「出た出た。これがいい人ぶってる料理長の正体だわ」
「ははは、バレたか」
「こんな32の既婚者に、まだチョコレートくれる人がいるんだから、有難いと思わなきゃ」
「はーーーい。って、はるか、いつも自分が食べたいだけじゃん」
「ははは、バレたかー」
3月も残りあと5日となった頃、保育園の桜の一部が咲いているのが見えた。
咲いた。
桜が咲いた。
春が来た。
先生に会える、春が来た。
その日の夕方、郵便受けに、クリニックからのハガキが届いていた。
『定期検診のご案内 ご都合の良い日時をご連絡の上、ご来院下さい。』
嬉しくて、ハガキを持つ手が震えていた。
もう、理由はいらない。
無条件にクリニックへ行ける。
無条件に先生に会える。
先生への招待状・・
ハガキをリビングのコルクボードに貼った。ボードの前を通るたびに横目でハガキを見て、リビングに座っているときはじっと見た。
もういつでも、クリニックへ行っていい。
予約はいつにしようかとカレンダーを見ていると、携帯電話の着信音が鳴った。
高校の時の友人・友里だ。
「もしもし?」
『もしもし、はるちゃん?』
「うん。久しぶり」
『うん・・元気だった?はるちゃん』
「元気だよー。友里は?そういえば、今月で仕事終わるんだっけ?」
『あ、うん。でもね、新しい就職先、もう見つけたの』
「え!?そうなの?よかったじゃない!」
『うん・・母親の知り合いの小さな会社の事務なんだけどね』
「そう!よかったねっ」
『ん・・っていうかね、違うの。電話したのはそのことじゃなくてね』
「え?うん、どうしたの?」
『前に話した、年下の彼とね・・別れちゃった・・』
「えっ・・・?うっうそ、なんで?」
『同い年の女の子と・・浮気してた』
ー・・・・
「浮気・・?」
『うん・・しかも、女の子が妊娠しちゃって、そのコと結婚するって・・・』
「ー・・・」
『私・・・私・・辛くて・・・ヒロ君はまだ若いから、結婚したいって思ってても我慢してたのに・・妊娠したからってあっさり結婚決めるんなら、私も妊娠すればよかった・・・!』
受話器の向こうで、友里がむせび泣いている。
「友里・・・」
『ううーっうあーぁっ・・・』
「ー・・・友里・・・」
私には友里を慰める資格はない。
友里の彼がやったことと、私の前田先生への想いは、きっとそんなに変わらない。
私はただ、和晃に知られていないだけで。
受話器を持って、友里の嗚咽を聞いていた。
優しい言葉ひとつ、出てこなかった。
友里の彼が、友里に言わずに他の女性と付き合っていたことを、責める気になれなかった。
それでも、前田先生を好きだと思う。
それでも、前田先生に会いたいと思う。
悪いことだとわかっていても。
理解されなくても。
エイプリルフール。
桜はまだ三分咲き。けれど、最初に咲いた花からは、ひらひらと花びらが落ちている。
ベランダから見ると、保育園の正門の周りの足元は、うっすらと淡いピンクに染まっている。
先生に会いに行こう。
クリニックの予約は4月の10日に取れた。相変わらず患者は多いようで、時間も夕方の17時しか空きがなかった。
前日の夜は眠れなかった。
12月のラグビーの試合の日以来、4ヶ月ぶりに会える先生。
ベッドの中で、「また、春に会おうね。はるかさん」と言った先生が、何度も脳裏に甦る。
朝起きて、和晃を送り出した後は、夕方が待ち遠しくてたまらない。
早く会いたい気持ちと同時に、久しぶりで緊張が解れない。
胸はドキドキ高鳴るばかり。
昼食の後は、ドレッサーの前でいつもより丁寧にメイクをした。
去年の秋に買った、白いボウタイブラウスを着る。胸元で大きくリボンを締めて、空色のカーディガンを合わせた。
春物のバッグを出す。タンスの奥から先生に宛てた手紙の封筒と、プロフィール写真の載った紙を出して、先生の顔を確かめた。
冬の間、何度も繰り返し見てきた先生の写真。
封筒だけをそっとバッグにしまい込み、ドキドキしながらチャックを閉めた。
家を出て、バス停に向かって歩いていく。
クリニックに通っていた頃は当たり前だったこと、一つ一つに喜びを感じる。
この喜びを、ずっと待っていた。
冬の間、ずっと。
クリニックの入り口の前で、深く息を吸った。
待ちに待った瞬間。
胸の高鳴りを抑えながら扉を開けた。
つんと鼻を突くクリニックのにおい。
先生のダウンジャケットと同じにおい。
待合室には、3〜4人の患者が座っている。
自分も、受付を済ませてソファーに座った。
診療室のガラス扉の向こうを、医師と助手が行き交う。
待っている間、前田先生は見かけなかった。
助手の下山さんが出てきて、私の名前を呼んだ。
「春日部さまー・・」
診療室に入り、4番ブースへ案内された。
「本日は定期検診でよろしかったですよね?」
下山さんが診療の準備をしながら尋ねた。
「あ、ハイ」
「はい。では少々お待ち下さいね。」
診療台のシートに座り、胸がトクトク鳴るのを聞きながら待った。
トクトク
トクトク
トクトク
数分経って、カルテを持った若い女性の医師がブースに入ってきた。
「春日部さん、こんにちは」
愛想良く笑うその若い女性は、髪を後ろで束ね、ピンクのマスクをしている。
「・・こんにちは」
「本日から春日部さんの担当をします、坂井です。」
「ー・・」
坂井先生?
先生の顔を見て、一瞬止まってしまった。
「よろしくお願いしますねっ」
「ー・・・あ、よろしくお願いします・・」
前田先生は?
「えーと、今日は定期検診でいらっしゃったんですねー・・」
カルテを見ながら、坂井先生が話している。
先生を見ながら頷いているが、何ひとつ、耳に入ってこない。
胸が、トクトク鳴っている。
「ー・・ですので、今日はまず、お口の中をチェックさせていただいて・・・」
「あの」
坂井先生は、カルテから私に目を向けた。
「はい?」
「・・前田・・先生は・・」
坂井先生は、困ったような笑みを浮かべて言った。
「あー・・3月でお辞めになったんですよお」
「前田が良かったですよね・・すみません」
坂井先生は苦笑いしながら頭を下げた。
先生が・・・辞めた・・・?
「あの・・それで、先生は・・」
声が、うまく出ない
「さあ・・実家に戻られたみたいですけど」
「実家・・?どこですか・・?」
「神戸なんですけどね」
検診を受けていても、何をされているのかわからなかった。
坂井先生が、何かいろいろ言っていたけど、何も聞こえてこなかった。
検診が終わり、シートを起こされる。
「特に、目立った異常は見当たりませんね。よく磨けています。」
坂井先生が、カルテに書き込みながら言う。
「ー・・前田先生に、伝えていただきたいことがあるんですが・・」
坂井先生が私を見る。
「ー・・あ、ハイ、何でしょうか」
「私の・・連絡先を・・前田先生に伝えてもらえませんか・・」
「え、あのう・・」
「ー・・・お願いしますっ・・」
「・・・・・」
「今・・どうされてるのか知りたいんです・・」
坂井先生は困った顔をしている。
でも、このまま帰れば、本当にもう、何もなくなる。
「わかりました。でも、必ずお伝えできるという保証はありませんが、よろしいですか?」
先生は、優しく言った。
ただ、黙って頷いた。
坂井先生に渡されたメモ用紙に、携帯番号とアドレスを書いた。
診療室を出て、待合室のソファーに座る。
体に力が入らない。
頭がぼんやりする。
胸の鼓動はいつしか静まり、浅くしか吸えない息が苦しくなった。
受付カウンターの女性2人が、こっちを見ながらヒソヒソ話し、クスクス笑っている。
辞めた先生に連絡先を伝えて欲しいなどと言った患者は、前代未聞だろう。
でも他に、方法がない。
笑いたければ笑えばいい。
クリニックが、知らない場所のように感じる。
前田先生がいないクリニック。
ここはどこなのだろう。
会計を済ませて、出口へ向かう。
診療室の方を振り返ってみる。
どこを見ても、前田先生はいない。
クリニックを出て、階下へ下りるエレベーターへ向かって歩く。
頭が働かない。
私は何をしているんだろう。
先生はどこ?
「春日部さん?」
後ろから、バタバタと足音がして、名前を呼ばれてハッとする。
私の前に、白衣を着て眼鏡をかけた、加護先生が立っている。
先生の顔をぼんやり見る。
「・・・・」
「春日部さん・・ですか?」
「・・・・はい」
なに?
「前田が担当していた患者さんですよね?」
「ー・・・」
上目遣いで頷く。
「ああ・・よかった!危うく逃してしまうところでした」
「・・・」
加護先生は、白衣のポケットから小さな白い紙袋を出した。
「前田から、預かっていたものです」
そう言うと、私に紙袋を差し出した。
「春日部はるかさんという女性が来院されたら、渡して欲しいと言われて」
前田先生が・・・?
紙袋をそっと受け取る。
「では」
加護先生は、私の横を通り過ぎる。
「あのっ・・」
「?はい?」
加護先生が振り返る。
「前田先生は・・今・・・?」
先生は、首を傾げて言う。
「さあ・・・。辞めてから、さっぱり連絡がつかないので、どうしてるのかはちょっと・・」
「ー・・・」
「実家が神戸なんですが、むこうに帰ったことは間違いないと思いますけどね。」
「ー・・そうですか」
「じゃあ、お気をつけて。」
会釈をして、加護先生はクリニックへ戻って行った。
エレベーターホールに1人立ち、受け取った紙袋を開けてみる。
左の手のひらに出てきたのは、小さなプラスチックのラグビーボールが付いたストラップだった。
もう 限界だった。
とめどなく、涙があふれ出す。
次から次へと、あふれ出す。
握りしめたストラップが、涙でぬれる。
体の力が抜けていく。
その場にへたり込み、長い間 泣いていた。
バッグの中の、先生への手紙が虚しい。
先生
先生
前田先生
先生が言った
「会える春」はいつですか?
ストラップには
どんな意味があるのですか?