会えない先生。
12月末、CSの番組表を見ると、スポーツチャンネルはラグビー中継が目白押しだった。全国高校ラグビーフットボール大会、大学選手権。スポーツチャンネルのホームページには、高校ラグビーの見どころや、大学選手権トーナメントの途中結果が掲載されていた。地元代表の高校が、実は全国的にもトップクラスの強豪校で、トーナメントではAシード校になっていること、某有名私立大学に、過去に何人もスポーツ推薦で進学していることを知った。地元の高校が、あまりにも素晴らしい成績を出し続けていることに驚いた。そして、それを今まで全く知らなかった自分に、半分呆れた。
大学ラグビーは、関西や関東地区の有名大学が圧倒的な強さを持ち、地元の大学はそれほどいい結果は残せていないようだった。
一般的に、年末の大掃除は家族で大晦日にやることが多いが、年を越す準備も、基本的にはいつも私1人でやっている。毎年、クリスマスを過ぎたらすぐに大掃除を始める。多忙な時期に突入した和晃は当てにできない上、大晦日は和晃の実家に拘束される予定だ。大掃除は、30日までに終わらせるというのが、私の中での決まりごととなっていた。
いつもはMDプレイヤーで好きな音楽をかけ、ひたすら掃除に没頭するが、今年はテレビをつけっぱなしにして、高校ラグビーの中継を観ながらやることにした。
布巾を片手に、テレビの前で手が止まる。
高校生は社会人と違い、全員がヘッドキャップを着けて試合に臨んでいる。スポーツをしない学生よりは、はるかに鍛えられている体でグラウンドを駆け抜け、顔つきにはまだ幼さが残っている。
体の大きさも社会人に比べてバラつきがある。中でもスクラムハーフは特に小柄で、前田先生もこんな風に小さかったのだろうかと想像してしまう。
先生と競技場に行ってから、まだほんの少し。
“先生”を考えると、あの日のすべてが鮮やかによみがえる。
汗をかいて走ってきた先生。
先生のダウンジャケットのにおい。
つないだ手のぬくもり。
ハンバーガーを頬張った横顔。
「送らせてください」と言った真っ直ぐな目。
別れ際に向けられた笑顔。
「はるかさん」 と 呼んだ声。
今年はいつもより、イマイチ掃除が捗らない。
深夜2時に食卓に向かい合って座り、和晃にジュースの入ったグラスを渡す。
「遅かったね。しばらくは続くんでしょ?」
「んー・・毎日宴会予約が入ってるからねー・・」
帰宅があまりに遅い時は、夕食での飲酒はさせないようにしている。朝までアルコールが体に残っていてはいけないからだ。
「今日ね、大掃除しながら高校ラグビー観てたんだけど、ほら、駅近くの男子校が全国でAシード校だって知ってた?」
「あ〜、強いもんね。シードなんだ」
「えっ?知ってたの?」
「うん。」
「え、だって和晃、スポーツニュースとか見ないよね??」
「ニュース見なくても、それくらい有名だから知ってるよ。ここのところ毎年全国大会まで行ってるもんね」
そういうスポーツに興味関心のない和晃ですら知っていたことを、自分は知らなかったなんて。
なんか悔しい。
「え?はるか、知らなかったの?」
「・・・最近知りました。」
「えええ〜っ、有名なのにい〜。あそこはサッカーも強いんだよな」
「へーそうなんだ・・・」
「今年は優勝できるといいねー」
「うん。シードだから、2回戦から出るみたい。テレビの前に座って応援するんだ〜」
「ははっ。また楽しみが1つ増えたね」
「うんっ」
長い時間、1人で過ごす私のためにと、CS放送の受信契約をしたのは和晃の方だった。
和晃に勧められて行ってみたクリニックで前田先生に出会い、和晃が与えてくれたCSでラグビーを観て、前田先生を想う。
なんて皮肉な話だろう。
そのことに罪悪感すら感じていない私は、なんて、ひどい妻だろう。
大晦日は雪がちらついていた。
早朝から和晃と車に乗り、春日部家で降ろしてもらった。周囲を山に囲まれた場所にある和晃の実家は、寒さも都心とは比べものにならず、木造の古い家の中は、廊下に立つと吐く息も白くなるほど底冷えがする。
台所へ向かうと、お義母さんはすでに“おせち作り”を始めていた。始めるといっても、野菜を洗ったり、重箱を出しておくといった程度だが。
「おはようございます」
「あら、おはよう、はるちゃん。」
挨拶だけ交わし、エプロンを着けて調理を始める。
春日部家に1人で来た時は、なるべく無心になるようにしている。
ひたすら作り、ひたすら動く。
結婚する前から出入りしている家だが、初めの頃は、“言われたこと”や“習慣の違い”に対して、驚いたり腹が立ったり、時には傷つくこともあった。結婚して“嫁”になった以上は、どんなことも受け入れ、耐えていかなければならない。いちいち感情を抱いていては、続けられないと思った。
そんな自分では、続けていく自信がなかった。
ならば無心になろうと決めた。
それが、私が出した“嫁”を続けていく手段。
おせちも半分以上出来上がった頃、お義姉さん夫婦が帰ってきた。
和晃には姉が1人いて、すでに嫁いでいる。子供が2人いて、お義父さん、お義母さんは孫2人にメロメロだ。玄関の方で賑やかな声がしたと思ったら、バタバタと廊下を走る音がして、姪の2人が台所の扉から顔を出した。
「あー、はるちゃあん」
4才になった『さつき』ちゃんがニコニコしながら言った。
「さつきちゃん!あれー、また大きくなったねー」
「はるちゃん何してるの??」
6才になった『やよい』ちゃんがすぐに話しかけてくる。
「お正月のおせちを作ってるんだよ」
「ふーん。ねーはるちゃん遊ぼー」
さつきちゃんにエプロンを引っ張られて下を見る。
「うん、遊びたいけど、もうちょっと待っててくれる??」
「えー」
「さつき、だめよー。はるちゃんはまだ、ごはんを作ってるでしょ」
やよいちゃんがさつきちゃんの腕を引っ張る。同時に私のエプロンも引っ張られていく。
やいやい揉めている2人の後ろに、お義姉さんが来た。
「あらあ、はるちゃん、今年も作ってくれてるのね」
「あ、はい。ご無沙汰してます。」
「和晃は相変わらず忙しいの?」
「はい。毎日帰りが遅くて・・・」
「はるちゃんも大変ね」
「いえ、もう慣れましたけど・・・」
「そう?」
お義姉さんの笑い顔は、和晃とよく似ている。
「ほーらほらっ!はるちゃんの邪魔しないの!あっちに行くわよ」
お義姉さんは、子供2人を居間へ連れて行き、それと入れ替わるようにお義兄さんが入ってきた。
「おっ!はるちゃん、久しぶりっ」
「あ、こんにちは。お久しぶりです」
お義兄さんは、少し太めの35歳で、36歳のお義姉さんよりも1つ年下だ。気さくで話しやすく、春日部家での苦労を唯一理解し合える人だ。
「今年もはるちゃんのおせちが喰えるっていうから、楽しみにして来たよ」
「ええー、お義兄さん、また太っちゃうんじゃないですか?」
「ハハハハーッ、それは言わないでえ〜」
お義兄さんは笑いながら、自分も居間の方へ歩いて行った。
台所に立ち、1人黙々と作り続ける。
居間の方からは、わいわいと騒がしい声が聞こえてくる。
こんな時はいつも、孤独を噛みしめる。
どんなに嫁としてこの家に入っても、やっぱり所詮はよそから来た人間。
そばにいて欲しい時、夫はいつも不在。
煮物をかけていたコンロの火を止め、気分転換に裏口から外に出る。
朝よりも、雪がたくさん降っている。近くに見える山は白く、すっかり姿を変えていた。
肩にゾクッと寒気が走る。
ふいに、先生のダウンジャケットを思い出す。
競技場の前で、私にダウンを羽織ってくれた先生。
暖かかったなあ・・・
今年最後の日、先生はどう過ごしているのだろう。
クリニックは年中無休だから、今日もやっぱり仕事だろうか。
あー・・・早く家に帰りたい。
おせちを仕上げ、「泊まっていって」と引き止めるやよいちゃんとさつきちゃんを宥めて、春日部家を跡にした。
1時間に1本しか通らないバスに乗り、乗り換えの為に駅前へ向かう。駅前に着く頃には18時を回っていて、すっかり暗くなっていた。
駅前のバス停に降りると、なんだかやたらとホッとした。
クリニックに通う為に何度も降りたバス停。
先生と初めて『ブレイク』でコーヒーを飲んだ後、並んで歩いて来たバス停。
先生はいないけど、あの時先生が立っていた場所に立ってみる。
ため息が出た。
疲れにも似た、安堵のため息が。
大晦日だからといって、和晃が早く帰宅することはなく、マンションの部屋で1人、テレビのカウントダウンを見ながら新年を迎えた。
お正月だろうと、特別なことは何もない。
中継がある日は、1人でラグビーを観て過ごした。
地元の高校は決勝戦で破れ、今年も優勝を逃した。
先生は、ラグビーを観てるだろうか。
年が明けて、最初に電話をしてきたのは麻耶ちゃんだった。
『なんで何も聞いてへんの!?そんなデートしといて!』
「デート・・だったのかなあ」
『誰が聞いたってデートやわそんなん!えっ?携帯の番号もメアドも聞いてへんのやろ??』
「うん・・」
『なにしとんのよ、はるちゃーん』
「だって・・聞いてもいいのかどうかわからなかったんだよー・・。知りたかったり教えたかったりするなら、先生の方から言ってくれるかなって・・思って」
『そやなあ・・確かに、はるちゃんの立場やったら、聞くの躊躇うのもわからんでもないわあ』
「コーヒーも試合も、誘ってくれたのは先生の方からだったし・・」
『試合に行くって決まった時点で、待ち合わせに変更とかあるかもしれやんのに、携帯番号くらい教えたりせえへんの?普通』
「治療終わった直後にほんの少し小声で話すくらいしか出来ないし、携帯番号ってなんか、親密さが出ちゃうっていうか、勇気いるし・・」
『そうやんなあ・・。歯医者の中やと、他の助手とかもおるやろうしな。大きい声で個人的な話は出来へんよなあ』
「んー・・先生も、人目を気にしてるっぽかったし・・」
『なあ、先生って独身なん??』
「わかんない。でも多分・・」
『先生は、はるちゃんが人妻やってわかってて誘っとったんかなあ?』
「どうだろう・・。私、指輪は常にしてないけど、保険とかでそういうのってわかっちゃうんじゃないの?」
『あ、はるちゃん指輪してへんの?』
「うん。好きじゃないから」
『そうなんや。んー・・先生はどういうつもりやってんやろ・・』
「ただ単に・・ラグビー見せたかっただけとか・・」
『それにしちゃ思わせぶりなんちゃう??』
「ー・・そうだねえ・・・ハア、先生に会いたいなあ」
『会いに行ったらええやん』
「でも、春に会おうねって言われたし」
『春まで待つの?』
「うん・・もうどこも悪くないし。理由もなくクリニックには行けないもん」
『歯石取りとかあるやん。そんなんは??』
「それは先生の仕事じゃないよ。衛生士とか助手の人たちがやってる」
『でも行ったら顔は見れるやん!』
「ハハッ、そうだけど」
『気持ち・・伝えへんの?』
「ー・・・そんなことできないよ」
『そうかあ・・旦那のこともあるしなあ。』
「うん・・。和晃はキズつけないって決めてるから」
『んー・・あ、ほんだら、好きって気持ちは伝えへんでも、友達になって下さいって言うのはええんちゃう??』
「あはっ・・友達・・」
思わず苦笑いしてしまう。
友達という表現で仲良くしてもらうには、あまりにも先生は“大人”で、違和感を感じた。
『だって、何かしら繋がりとか関係がないと、今みたいに会いたくても会われへんやん』
「そうだね・・。会う理由がない」
『そやろ?次行った時にさあ、手紙とか渡してみたらええやん』
「手紙・・」
『うん。他人に見られへんようにこっそり渡すねん。受け取ってくれると思うわ』
「ー・・・うん・・」
『な?』
「うん・・考えてみる。」
『おおっ!その調子やわ。おもろなってきたわあ』
「ー・・楽しんでるね麻耶ちゃん・・」
『そらそうやわ。聞いとってこんなわくわくする話ないわ』
「他人ごとだと思って・・」
麻耶ちゃんの電話の後は結局、手紙のことばかり考えるようになった。
渡そうか、渡していいものか迷っているようで、渡すならどんな内容にしようかと考えている。
結局、渡す気になっている。
先生は受け取ってくれるのだろうか。
手紙をもらったらどう思うだろう。
迷惑になったりしないだろうか。
渡すタイミングはあるだろうか。
気持ちをどう表現すればいいだろう。
繋がりを持ちたいです。これからも仲良くしてもらえませんか?・・・?
毎日毎日、前田先生を想いながら、変わらぬ日常を過ごしていく。
先生に会いたい気持ちを抑えながら、時々、タンスの奥にしまってある先生のプロフィール写真を見ながら。
2月。
冬の寒さはピークを迎え、バレンタインデーは年末以上に雪が降った。
「ちょっ・・誰!?今年は暖冬傾向とか言ってた人!」
毎朝見ている天気予報の気象予報士に向かって、テレビの前で突っ込んだ。
「はるかは家にいることが多いんだからいいじゃない」
出勤前、じっくりとマフラーを選びながら和晃が言う。
「だけど、スーパーには自転車でいくんだからっ。寒い!」
「だってはるか、車はいらないって言うから」
「ー・・・いらないけど」
自分専用の車なんか持っていたら、春日部家からの嫁出動要請は確実に増えるに決まっている。和晃が、私専用に軽自動車を買ってくれると言ってくれたことが何度もあるが、「私の為に新たなローンを組ませるのは悪い」「自転車で充分だから」と、断り続けている。
自分のわがままで意地を張っているとはいえ、雨や雪の日はやっぱり辛い。
「和晃、今日チョコレートもらえるかなあ」
「さあ〜、どうだろうね・・」と言いつつ、見る限り、顔は期待に満ちている。
「私、楽しみにしてるから〜」
「ハハハ、いってきまーす」
去年、和晃が職場の女性からもらってきたチョコレートの中に、1つだけ、「本命では??」と思わせるようなものがあった。鈍感な和晃はそんなことには気づいてもいないようだったが、女だからなのか、私にはなんとなくわかった。普通なら、嫉妬したり、不安になったりするのかもしれないが、その時は、夫が職場でモテているということが妙に嬉しかった。結婚していても、他の女性から見て、素敵だと思われる男性であってほしい。
バレンタイン・・・クリニックには若くて綺麗な女性がたくさんいた。
前田先生も、彼女たちからもらうのだろうか。
好きなのに、チョコレートを渡す権利もなければ、そんな瞬間を与えられることもない自分に虚しさを覚える。
会うことすら、ままならない自分に。
2月というのは、1年の中で最も早く過ぎていく月のように感じるのは、私だけなのだろうか。師走と書く12月よりも、2月の方が早い気がする。
日数が少ないから?
寒さが緩んだ2月下旬、伸びてスタイリングしにくくなった髪を切りに、美容室のあるショッピングモールへ行くことにした。
美容室の扉を開けると、お客さんの髪をブローしている牛嶋さんが、私に気づいて「いらっしゃいませー」と言った。
バッグとコートを預けて待っていると、先客の会計を済ませた牛嶋さんが近づいてきた。
「お待たせしました。今日はどうします?」
「この前みたいに切ってもらえます?」
「ショートボブっすか?」
「うん。あの時の、結構気に入ってて」
「でしょっ?春日部さん、短いのが似合ってますよ」
「うん・・そうかも」
「そうっすよ。しかも、長い時に比べて頻繁に来て下さるんで、こっちも助かってます」
「あはは、そっちか」
「うそうそ、冗談っすよ」
「いーや、今のがホンネだねー」
牛嶋さんは、後ろから両手でサイドの髪の長さを揃えて見る。
「前下がりの感じで・・いいっすか?」
「うん。お願いします。」
もう少し。
あと1ヶ月くらいしたら、前田先生に会える。
誕生日の日。「髪切りました?」と先生が気づいてくれた時と、同じスタイルにしたかった。
見ただけで、私だと気づいてもらえるように。
「春日部さん、なんか明るいっすね」
仕上げのスタイリング剤を髪になじませながら、鏡越しに牛嶋さんが言った。
「明るい?」
「んー・・なんちゅうか、なんだろうな。」
「え?」
「なんとなくっすけど。明るいなーって思って」
牛嶋さんが笑顔を向ける。
思わず笑ってしまう。
美容室を出て、モール内にある大きな文具店に入った。
天井から下げられている案内表示を見て、『便箋・封筒』と書いてある通路に向かう。
離れた所から見ても、そこだけ淡いピンクの品物が置かれている場所があった。季節限定で、春のイメージや桜の柄をあしらった万年筆やノートが並び、その中に、全体に桜の花びらを散らした模様の、横書きの便箋を見つけた。同じ模様で、手のひらサイズの『名刺・カード入れ』と書かれた封筒も一緒に手に取った。
レジに持って行き、会計を済ませる間、それを買っていることにドキドキした。
これで、先生に手紙を書こう。
先生が 「春に会おうね」と言ったから、便箋のデザインにも 「春」 を選んだ。
折れ曲がらないように、大切にそっと、バッグへしまう。
春が来るまでもう少し。
先生に会えるまで
あと少し。