善良な男
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その男は、善良だった。朝早く起きて田を耕し、粗末な着物をきて、慎ましやかに暮らしていた。
困った老人が居れば荷物を持ち、幼子が泣いていれば声をかけてやり、清く正しく生きてきたつもりであった。妻子も持たず質素な生活ではあったが、男はそれなりに満足していた。
ある日、男は道に落ちている一冊の本を見つけた。善良な男はその本を村の役場に届けに行った。もちろん、落とし主が困っているだろうという純粋な善意からである。
しかし、神は善良な男に微笑まなかった。その本は何やら貴重な物であるらしく、男には無断で持ち出した容疑がかけられることになった。そんな大それたことをするような人には見えないねぇ、と言いつつも、村人は手のひらを返したように冷たくなった。
男は落胆した。
「俺が何をしたというんだ。こんなことで捕まるならいっそ金でも盗めば良かった」
男が生まれて初めて持った悪意だった。
次の日、男は急に釈放された。訳も分からずに牢を出ると、そこには美しい女がいた。
「伯爵のご令嬢が身請け人となってくださるとおっしゃっている。本来ならお前のような者に情けをかける必要はないんだが今回は特別に見逃してやる。感謝するんだな」
看守は吐き捨てるように言った。令嬢は何も言わず微笑んだままだった。
迎えに来た馬車にのせられ、男はひとまず礼をのべた。令嬢はそれを途中で遮ると言った。
「礼には及びませんわ。私はあなたの中に眠る悪意に導かれてきただけです。あなたには素質があります」
「は、はあ。一体何のことやら。俺は平凡な男です」
「善良に見えること。あなたが腹の底で何を考えようと、人畜無害に見えるのですよ。それはある種の才能です」
男はうなだれた。
「その一点についてはあなたに勝る人はいません。私が探していたのはあなたのような人です」
「人探しを手伝ってください」
「はあ? 俺が、ですか」
「もちろんただでとは言いませんわ。報酬はいくらでもさしあげます。でも、もし断るならあなたはまた牢獄行きになってしまいますね」
これは脅迫だ、と男は思った。男がしぶしぶ同意すると、令嬢は鞄から諸悪の根源となったあの本をとりだして男に渡した。
「ではこれを。この本にはある仕掛けがあって、一度手にするともう手放せなくなるのです。この本を手放したとたん、あなたにはあらゆる災厄が降りかかります」
男は一瞬凍りついたが、そのうち怒りが込み上げてきた。
「最初からあんたが仕組んだことだったんだな。いい加減にしろ。人を何だと思ってるんだ」
「あなたの最大の欠点は善良すぎることです。だからこうやって騙される」
令嬢は澄ました顔で答えた。男は言い返せなかった。
「あなたに探してもらうのは、魔術師です。それも並みの力ではない」
令嬢はため息をついた。
「魔術師? ただの村人の俺がそんなことできるはずない」
「彼女は人を信じず、操り、騙し、意のままに動かします。あなたのような善良に見える人間はたやすくカモにされる。それを逆手にとって彼女を罠にはめるんです」
馬車は豪華な邸宅の前に着いた。
「では、今日はお疲れでしょうからゆっくり休んでください」
令嬢はそう言い残すと引きとめる間もなく去って行った。
これが男の奇妙な生活の始まりだった。