*
少女は世界でたった一人ぼっちだった。
「おれの顔ってどんなだ?」
「デコボコだよ」
少女は世界で一人の異常者だった。
***
横幅三十センチ、高さ百センチばかりの狭すぎる通路を歩きながら少女は考える。なぜ、こんな無駄なことをしなければならないのだ。自分には絶対に必要ないのに。少女は十四歳まで続くこの訓練を自分がしても意味が無いことを知っていたのだ。
「皆さんまだまだです、ほらあなた、そう、あなたです。先生が肩を叩かなければ気づかないというのがその証拠です。ふらつかないように歩けるまで、幅の広い道は歩いてはいけません。さぁ頑張って! 足にできた痣の数ほどその日は近づきます」
少女は陽気に声を張り上げる先生を見つめて身震いをした。違う、違う。違いすぎる。先生の声は、笑っていた。優しかった。愛情さえこもっているようだ。
―――それなのに、顔が。顔がおかしかった。
異常なほどにつり上がった目。その瞳は冷め切っていて何の光も宿していない。まるで家畜を見るような目線を、弾むような声とともに生徒へ送るのだから、少女は気持ちが悪くてしょうがない。
「素晴らしい! 皆さんも一〇三六さんを見習いなさい! 先程から先生は感じていました! もちろん私は大人ですからね! 皆さんとは違って分かるのです! 迷いのない進み具合、安定した歩み、素晴らしい! よくできました! さぁ皆さん続けて!」
相変わらずの表情で少女を褒め称えた先生はしかし、少女がいる方向とは的外れな方角を向いている。この人が無能なことも少女一人だけが知っている事実だった。きっと少女の成績が良いことはあらかじめ資料か何かで知っていたのだろう。褒められている少女は全く別の生徒の方を向きながら自分を褒める先生が滑稽でならなかった。けれどもこの先生、勘は優れているらしい。
「何か私のことを見下している人がいるような気がします…まぁ、気のせいですか」
たまに本当に有能なのではないかと思わせる発言をしたりして少女を驚かせた。が、何度も足を障害物にぶつけている姿を見ていた少女は、この人を無能と判断していた。
「痛え!」
「そこ! また無理矢理壁を突き抜けようとしましたね! 一〇三七さん、私には分かりますよ!」
今悲鳴が聞こえたんだから、ぶつかったことくらい誰にでも分かるでしょう。
先生は自分の有能さを一々誇示しようとした。もう、毎回毎回うんざりだ。少女はため息をつきながら先生の方を見る。すると、少女を凝視する目とかち合った。ドキリとした。気持ち悪い。
あの目が、本当に自分を見ているような気がした。慌てて視線を逸らす。
「だーかーら、先生! おれは、一〇三七? とかいう格好がつかない名前じゃねえの! 頭悪ぃの? 何なの?」
馬鹿にしたように少年は言った。しかし向いている方向は先生がいる方向の真逆だ。先生は怒りを堪えるように少し声を震わせながら言う。
「なんですか? じゃあその名前というのは」
「アレキドラマントス!」
「………………それ、本当にイカしてる名前だと思ってるんですか?」
自信有りげに頷く少年を見て少女はまたため息をつきそうになった。が先生に先を越される。
「じゃあ、アレキスムマンゴ…二スム? ……さん、いい加減壁を壊すのをやめて真っ直ぐに歩けるようになってください」
先生は生徒を窘めるような声音で言う。しかし、向いている方向は少年がいる方向の真逆だ。
少女は背を向け合って話している二人の姿を見て、今度は誰にも先を越されることなくため息をついた。
「……滑稽すぎる」
Eyeのない世界。これが少女の生きる世界のすべてだった。
少女は世界でたった一人ぼっちだった。
少女は世界で一人の正常者だった。
この後、ただ歩く、という至極簡単な動作を少年と先生がまだ何かしら言い合っているのを聞きつつ、しばらく続け、少女は、成績優秀者は訓練免除にならないものかと一人、誰も思うことのないつまはじき者ならではの考えを巡らせた。
***
「アレクサンダーファイブ? お前バカじゃねえの? かっこ悪ぃ!」
ゲラゲラと笑いながら少年の脇を訓練が終わった子供たちが走り去っていく。女の子たちはクスクスと笑って通り過ぎていった。すっかり大人しくなった少年は一人補修のために訓練室に残っていた。
「アレキスムマンゴ二スムさん、あなたは身体能力としては悪くない数値が出ています。もう少し落ち着いて頑張ればきっと、真っ直ぐに前へ進んでいけると思いますし、お友達もでき――――――」
「うっせえよ!」
少年は下を向いて拳を握り締めた。
「どうせおれは落ちこぼれだ! そういう慰めとかいらねんだよ! 腹立つ!」
今、少年が目に涙を浮かべている姿さえ、誰にも分からない。伝わることはない。この世界には目が、無いのだから。時として、誰にも伝わることがないと保証されている状況は安心を与えてくれる。自然に感情をさらけ出すことができる。きっと少年は悔しさのこの涙、誰にも見られたくないはずだ。
しかし――――。
この状況で、言葉以外で伝わるはずの感情は、誰にも伝わることなく、もちろん行き場なんてどこにもなく、やがては悲しみへと変わる。
先生、泣いてるよ。この子。悲しいんだよ。見えないの?
ミンナ、ホントニ…ミエナイノ?
一人気配を隠して佇む少女は、二人の姿を見つめていた。
少女が今浮かべている表情は―――――――。
「後、三十分ほど、練習してからみんなのところへ戻っていいですよ」
「…………………」
先生はしばらく少年の気配を探ったが、依然として沈黙を守ったため分からなかったようだ。はらはらと流れ落ちる涙は確かに悲鳴をあげていたのに。ミエナイ、ミエナイ。誰にもミエナイ。
ミエナ―――「泣くなああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
声が、沈黙を殺した。
誰だ。少女だった。
「お前! ちゃんと言葉にしろ! こいつは無能だから分からないんだ! 伝えたかったら言葉に出せ! 叫べばいい! 悲鳴を上げろ! こんな無能でも力になってくれる! 世界は、世界は残酷だけど、優しさもきっとあるんだ! 信じろ! ……なぁ、泣いても、―――――伝わらないんだ」
少年が嗚咽を零した。先生が少女のあまりの大声に驚いたように振り返る。今度はきちんと少女の位置を感じ取れたようだ。
少女は目を見開いた。なんだ――――――
「………先生も泣いてる」
「「え?」」
少年と先生の声が重なった。
「ねえ、笑おう」
少女がそう言って笑顔を浮かべるとそれを感じた二人は泣きながら笑った。
***
「無能、無能ってお前、先生きっとそのせいで泣いたんだぜ」
目を真っ赤にしたウサギ少年が恐る恐る歩きながら言う。次、壁を壊したら雑用を押しつけると言われてようやく真面目にやる気になったらしい。少女はその様子を迷路のような通路の外側のちょっとしたスペースから眺めていた。先生は既に二人を残して去っていた。
「だってあの人、見栄張ってる…全然気配感じるの上手くないし」
少年は驚いたと言うように足をとめた。
「何言ってんだお前? 先生は偉いから先生なんだぞ?」
「わたしはこっちだけど…」
良い加減、背を向けながら話しかけるのをやめて欲しい。少年はわざとらしく咳を一つしてからまた歩き出した。
「いつかばっちり感じ取れるようになってやる! もう笑われるのは嫌だ! だからお前もそうやって、今のうちにおれを散々馬鹿にしとくがいいさ! …痛え!」
少年が真正面にある壁に激突した。
「…そうやって、とりあえず進むのをやめた方がいい。分からなかったら一度立ち止まったらいいんだ。考えて、それで左に道があると思ったらまず左足を出すんじゃなくて手を出す。空をつかんだら道があるから進んで」
少女は少年をまっすぐに見つめながら言う。目が見えない代わりに耳は異常に良い。少女の囁くような声でも聞こえたはずだ。少年は軽く首を縦に振ってから左手をそっと伸ばした。ごつりと手が壁に触れた。少年は右へ進んだ。
「お前はすげえね」
少年は素直に感心したかのように声を零す。
――――――見えるからね
少女はほんの聞こえるか聞こえないの声でそう零す。少年が首をかしげた。流石だ。何を言ったかまでは分からないにしても何かを言った、ということは分かったらしい。
「もうすぐ三十分だ」
少年は少し弾んだ声でそういった。
「何で、わかるの?」
少女は時間の感覚を察知するのは苦手だった。時刻の授業もあまり成績は良い方ではない。その理由は、目が見えていても何ら意味がないからだ。対して少年の方はわりと得意のようである。
「そりゃあまぁ――――」
一度ためてから、少年はお腹に手を持っていく。
「腹時計だな!」
ポン! というこぎみ良い音とともに少年の顔に笑顔が花開いた。
「かっこ悪い」
少女が言うと、
「褒め言葉にしか聞こえなねぇなぁ」
などと能天気な言葉が返ってきた。
少女は思う。
声と顔が一致している人間は、見ていて心が落ち着くものだと。そして―――自分が少年に心を許しそうになっていることに気づいて、内心、戸惑った。が、誰にも気づかれることはあるまい。
声に出さねば伝わらない。それがこの世界のすべてなのだから。たとえ、たった一人見える少女がいたとしても。それは、少女にはほかの人の感情が伝わるということだが、少女の感情は誰にも伝わらないということ。あくまで一方通行の関係は、どこへ行ってもどこまで行っても、少女を孤立させ孤独にさせた。
***
――――――世界が異常者の集まりだったとして、その中にたったひとりの正常者がいたとする。
するとね、変わるんだ。変わってしまうんだ。
ある一人の少女は言った。
正常者が異常者となって、異常者が正常者になるんだ。
ねぇ、多いもの勝ちって、こういうことを言うんだよ。
先生は優秀な同僚とともに朝食をとっていた。不覚にも今朝泣いてしまったことは絶対に言うつもりはなかったのだが流石というか、ホンモノの先生は違う、さっそくばれて食事という名の尋問になった。
優秀な同僚は一向に進まぬ会話の中で深いため息をついた。
「…お前がまぐれで先生になれたとかいう話は既に五十回以上は聞いた。その話はもういい、俺が訊きたいのはなぜお前が――――っておい、聞いてるのか? ……泣くな!」
同僚は髪をぐしゃぐしゃと乱雑にかいて面倒くさそうに再びため息をついた。
「大丈夫だ、お前はよくやっている、その…虚勢を張るのはやめた方が良いとは思うが…」
「…虚勢なんて張っていません」
先生はようやく口を開いた。どの口が言う、と同僚は思ったがようやく話し始めたところでわざと話の腰を折るのはよくないと判断し口をつぐむ。
「私は、一〇三あっ…えっと…アレキ…? アレキスム…アレ…クサンド…? 何でしたっけ?」
「いや、知らんわ! 何だそれは?」
さっぱり話が見えてこない。同僚は呆れを通り越して何か変な心境に到達しつつあった。
とりあえず、元、ということで、などとブツブツ呟きながら先生はもう一度話しだした。
「指導中、元、一〇三七さんが黙ってしまったんです。その途端に私はどうしていいか分からなくなった。それまでは反抗的な態度を見せつつも言葉を紡いでくれましたから私は答え続けました。けれど、私のような、まぐれで先生になれた身では、黙ってしまわれたらどうすることもできない。統計的な心理推測は私にはさっぱりですし、ましてや盛んな少年期とあらば何を考えているのか。あなたほど優秀な先生なら元、一〇三七さんをどう、諭してやればいいのかは一目瞭然なのかもしれません、しかし私には―――――」
先生の言わんとしていることを何となく理解した同僚は眉間にしわを寄せて考えを巡らせる。どうしたものかと思う。フォローすればいいのか、しかしこれは何かが違うような気がした。これでは根本的な解決は望めないはずだ。励ますだけではまた同じようなことが起こった時に同じようなことになる。同僚がもんもんと、答えのなさそうな難題に悩んでいた時、声音の変わった先生の声が、部屋に木霊した。
「ねぇ、私がなぜ泣いたか訊きましたよね?」
えらく明るく、そして涙ぐんだ声が聞こえてきた。同僚は驚いて何も言えなくなる。
「無能って言われたからです」
「は?」
あまりの予想外の言葉に耳を疑う。
「ある女生徒が、長年の私の悩みに答えを出してくれたからです。そしてはっきりと、とてつもない大声で私を無能呼ばわりしてくれました」
同僚は先生が笑っているのを声色から感じた。なぜだ、意味が分からなかった。この状況で笑っている先生が恐ろしいとも思った。生まれて初めて、はるか昔、かつては機能していたらしい目が、今すぐに復活してほしいと同僚は願う。
「私は、無能だ。優秀ではない。それを否定して否定して、私は今まで苦しかった。無能な自分が恥ずかしくて、どうにかしようとして、そんな自分の姿に幻滅して、私は辛かった。その女生徒は、そんな私を指摘して、諭してくれた。分からなかったら訊けばいい。黙っている元、一〇三七に、話して欲しいと言えばよかったんだ」
これじゃあ、どっちが先生だかわかりませんねと言って、先生は朝食の冷めてしまったスープを口に運ぼうとして鼻に運んだ。
同僚は笑う。笑う。感謝した。よくは知らないその女生徒に。こんなに明るい先生を同僚は初めて見たのだ。いつも重苦しい雰囲気でなにか重石を背負っているような動きをしていた先生が。
そうか――――
「感動の涙だったのか――――――」
同僚はしばらく先生の気配を楽しんでから、ゆっくりと注意深くスープを口に運んだ。
冷めたはずのスープは、どこか温もりがこもったように温かく感じられた。
***
子供は一四歳まで普通の街で生活できるように学校で訓練する必要がある。家族は子供に合わせてアリストタウンという場所に集まって生活していた。少年は恐る恐る進む。今日、少女に教えてもらったことを復唱しながら帰ると、いつもは三十分はかかる道が一五分で家に着いてしまった。あっけにとられていると自身の中で警報が鳴り響く。補習で既に三十分遅れているので父親にどやされるかもしれない。少年はビクビクしながら部屋へ潜り込んだ。
「おう、遅かったな」
突然後ろから聞こえた声に驚いて少年は尻もちをついた。
「また補習か」
声が一段と低くなって諌めるような声になった。
「そうだ! 悪いかよ!」
「………いや」
父親はそう呟くと、何事もなかったかのように自室へ戻って行った。
少年は鼻をひくつかせて、何の匂いもしないことを確認してから唇を噛みしめた。
「…朝ごはん、どーすんだよ」
少年は思い出す。いや、初めから分かっていた。意図的に忘れようとしていただけだ。父親は絶対に怒らない。かといって褒めたりなんかもしない。愛情の対義語は何だと思う。少年は答えを知っていた。それも自分の身をもって。愛情の対義語は―――――憎悪、ではなく。
――――無関心
自分が愛されていないことは、初めから分かっていたのだ。その理由は分からなかった。知ろうともしなかった。刹那、少女の声が木霊した。
―――ここで、叫べばいいのか? …なぁ、悲鳴を上げれば父さんはおれのことを見てくれるようになるのか? 言葉で伝えれば――――――
少年は深く息を吸った。言葉は、見つからなかった。何て言えばいい、分からなかった。
息を一気に―――――吐きだす。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ「どうしたぁあああああ!?」
壊れんばかりの勢いで扉が開く音がした。物凄い轟音がする。父親が、今までで聞いたこともないような慌てようでこちらへ駆け寄ってきた。少年はあっけに取られて父親の足音を聞いていた。あぁ、すごい。少年は思った。少女を思い出す。なぁ、すげえぞ! おれもしかしたら…
「ど、どうした?」
こちらまで緊張が移ってきそうなほどの脂汗を掻きながら父親は少年に詰め寄る。
―――――もしかしたら
「おれさ」
とんでもない勘違いをしていたのかもしれない。
「…うん?」
父親が生唾をゴクリと飲み込んだ。
「お腹すいた!」
―――――わたしはこっちだけど。
―――――良い加減、背を向けながら話しかけるのをやめて欲しい。
見えてなかったのは、おれのほうか。感じられなかったのはおれの方か。背を向けていたのは、おれか。
少年は拳を握りしめた。嬉しくても涙が出るように、拳を握りしめたくなるし、唇を噛みしめたくもなるのだ。知らなかったなぁ。少年は幸福でいっぱいになりながら己の感情を噛みしめた。
それにしても父さん――――おれに似て不器用だなぁ。そんなんじゃ全然伝わらねえよ? だっておれも不器用なんだから。一緒なんだから。
「バカ! 普通に言え」
父親が脱力したように地面にくずおれる音がした。今、笑ったら怒られるかな、どうかな、どうだろう。
「あはははははははははははは! 父さん騙されてやんのー!」
少年は感謝した。あの少女の名前、おれが考えといてやろう。おれの名前よりとびっきりかっこいい名前。そんでもって、ちょっとばかし可愛い名前。
少年が笑いながらそんなことを考えていると、父親が立ちあがって少年の脇に手を入れた。そして、ぐいっと持ち上げる。
「お前、俺を騙すたぁ良い男になったなぁー!」
やっぱり父親は怒らなかったけれど、少なくとも、〝無関心〟ではないこの態度。少年は思う。
――――お前は幸せか?
おれを助けてくれたお前はちゃんと、笑ってんのか? おれは、おれはなぁ―――――
「お前のおかげで幸せだあ――――――――――っ!」
少年は言う。
幸福であるということは、不幸を知っているということだ。世の中は比較することで対照的な感情が生まれる。あの時より今は楽しい、そうやって比べて、自分は今幸福だと感じる。汚い、を知っているから綺麗と感じる。不味い、を知っているから美味しいと思う、そのように。不幸を知らずに、幸福が続いたとしたら、それはもはや幸福ではない。だって気づけないのだから。自分が今恵まれているなんて思いもしないだろうから。それが当たり前となる。
不幸を捨ててはいけない。幸福になりたいのなら。辛い過去を忘れるな、幸せになりたいのなら。辛ければ辛いほど、苦しければ苦しいほど、未来が明るく照らされた時、その輝きは眩しいほどに、眩いほどに光り輝くのだから。
「何が食べたい?」
「ハンバーグ!」
「…………無理だ」
少年は先ほど思ったことを今度は声に出してもう一度言った。
「父さんはおれに似て不器用だなぁ」
「お前が、俺に似て不器用なんだろ」
何故か、泣きそうな声で父さんがそう言ったような気がした。
***
「なぁ、聞いてくれ! 今日息子が―――」
嬉々として話し出す青年にこの店のマスターである青年の親友は口からコーヒーをぶっ掛けた。
「はァ? …息子? お前確か十八だよな? 何、俺の聞き間違い?」
青年は顔面のコーヒーを親友のビラビラした服の袖で拭きながら言う。
「まぁ、そんな細けえことはどうだっていいじゃねえか! それよりアイツ俺に似て出来悪ぃ! 今日も補修で遅れてきやがった! 俺も子供の頃はそうだったなぁ」
ってお前は子供じゃねえのかよ! と思った親友だがこんなに浮かれている青年を見たのは久しぶりだったために口をつぐんでしまう。
「何でも友達に色々教えてもらったんだと、補習まで付き合ってくれたそうだ。何もかもその子のお陰だそうだ。全部だ! 全部だぞ!? 感謝しねえとなぁ」
一向に理解できない青年の言葉は、留まるところを知らない。
「俺はな、どう接していいか分からなかったんだ」
親友は大人しく耳を傾ける。
「まさか、向こうから歩み寄ってくれるとは思ってなかった」
親友は青年が非常に小さな声でポツリと零す言葉を、行動では他のことに集中しているように見せかけて、聞きこぼしがないように耳に全神経を集中させた。
青年は、怖かったのだ。バレることはほとんどありえないとは分かってはいたが、それでも恐ろしかった。とりあえず、話さなければ大丈夫だろうと。逃げていたのは自分の方だ、―――それなのに。
青年は感謝した。
「伝えたかったら言葉にしろ! そう友達が一喝したそうだ」
まぁ、言葉と言うより雄叫びだったが、などと青年がクツクツと笑う。
「なんだ、男前じゃないか」
親友はさっぱり訳が分からなかったが付き合った。それが親友ってもんだと思った。
「それが女の子なんだと。本当に、感謝しなきゃなぁ」
青年がしみじみ頷いてから、思い出したようにバン! と唐突に身を乗り出してきた。
「そういやハンバーグの作り方教えてくれ!」
「はい? またえらい唐突な」
親友は青年の身体を押し戻しながらこれまた混乱する。
「なぁ、息子はハンバーグが好きなんだ。俺な、今までそんなことも知らなかったんだ。そんなことさえ知らなかったんだよ! バカだよなぁ本当に。俺アイツに似てるなぁ、やっぱり息子だよなぁ」
――――――――血、繋がってないのになぁ
何かを噛みしめるように、青年は唇を噛みしめた。その瞳には涙が。
「おま…もしかして泣いてんのか?」
親友は目を見開いて立ちつくした。な、何があったんだ、本当に。
親友は後で詰問することを心に決めてから今は自分の袖を青年の目に乱雑に押し当てた。
「くせえ!」
「何だと!?」
そして、先ほどこいつが顔を拭っていたことを思い出す。それにしても―――
「俺が淹れたコーヒーをそんなふうに言うとはこの野郎!」
親友は憤慨したというように殴りかかる真似をする。しかし、親友の顔には笑顔が。ここに少女がいたのなら、きっとこう言うのだろう。見えないということは、言葉以外の感情が、気持ちが見えないということで。問いかける。少女はいつだって問いかける。…ミエナイノ? カンジナイノ?
親友は感謝した。誰とも知れないその少女に。
自分の息子とやらと仲良くできてこんなに喜んでいるコイツの姿、こんな無邪気な姿、見せてくれてありがとう。伝わることのないこの気持ちを、直接、伝えられる時を願って。親友は口開く。
「ところでお前の嫁はべっぴんさんか?」
青年はニタリと笑って、答えなかった。
***
ある学者は言う。今や顔のつくりや身だしなみは関係ない。人の魅力は声や、性格のような中身に集約された。
先生は相変わらず薬品のにおいがプンプン漂う実験室に来て所在なさげに辺りをうろちょろしていた。
「学者さん、学者さんどこですか?」
「はいー? ボクを呼んだですかー?」
異質な煙とともに現れた奇人変人の代名詞、先生曰く、学者さんから、俊敏な動作で先生は数メートルほど後ずさった。
「失礼デスネー先生、ボクを呼んでおいてその態度!」
「いえ、何となく野生の本能と言いますか」
先生がしどろもどろそう言うと、それふぉろーになってないでーす! と学者さんが叫んだ。それから瞬時に表情を切りかえる。
「誰です? 先生の横にいる人は」
「私の師匠です」
「そうですか」
学者さんはどこからともなく飴を取り出して口に放り込む。
「あげんです」
「いりませんよ」
先生はなるたけ冷酷な声で返した。
「同僚さんじゃありませんねー? 師匠とはいったい誰ですー? 教えてくれたら特別にこの飴貸してあげてもいいです、三十秒ほど」
くれるわけではないらしい。それもこの飴と言ったということは、今学者さんの口の中にある奴ということだ。先生は吐き気を堪えるように口元に手を持っていく。
「あぁ、優等生の一〇三六さんですか!」
突然学者さんがポン! と手を打った。
少女はビクリと肩を震わせた。思わず少女は学者さんの顔を見た。
学者さんも驚いたとように目を見開く。
「それで今日、こんな不気味な研究室に来たのはですね、私の表情筋が衰え始めているという指摘がありまして、この師匠から」
「……あぁ、確かに恐い顔してますねー!」
「…?」
「どうせ分からないという理由で表情を作るのをやめてしまった人がたまにいるのデス! そういう人は顔の筋肉が固まってしまって恐ろしい形相のままになってしまったりするんですよー。まぁ、どうせ見えないのですけれど」
学者さんはぐいっと顔を先生に寄せながら言う。
「しかしながら口の周りの筋肉まで衰えてしまってはねえ、喋れなくなりますよーフフフ…。これはダメですねぇー先生は綺麗な顔をしているのですからそんな勿体無い顔をしていては勿体無いフフ…まったく、怖いですねぇ…ねぇ?」
学者さんは少女の方を向いた。
少女は気持ちの悪い汗を掻きながら頭の中の脳はフル回転していた。
「何をどうしたらそんな目つきになるんですかーまったく、とりあえず日頃から顔を動かす努力をして下サイーそれでダメならボクが薬を作ってきますから…フフ」
ボクが作る、というところに先生は反応したようだが、同僚が腰痛の薬を貰ったときに絶賛していたことを思い出して口をつぐむ。
「それにしても優等生ですか、そりゃあそうですよねー」
少女は―――――
「見えるんだから」
学者さんを、異質なものを見るような眼で見た。
「アナタにそんな目で見られるとは心外ですー」
「学者さん、先ほどから何を言っているんですか?」
「いいえ、なんでもありませーん! そうです。そうでした」
この世界は、〝見える〟ということをけして認めない。そんなことはあり得ない、と頭の中で決定づけられている。だから、今までバレることは無かったのだ。その証拠にこんなに決定的な発言を学者さんがしているにもかかわらず先生は、少女が見える人、だということを考えもしない。
「あなたは、ここへ何しに来たですか? 失明の薬でも欲しかったですか?」
少女は学者さんをまっすぐに見据える。そうだ。一人は、寂しかった。一人で寂しかった。
「失明すれば、幸せになれると思いますか?」
学者さんは白い薄っぺらい何かと、もう一方の手に細長い棒らしきものを持つ。そして何やら、棒を握った手を動かすと白い方を少女へ向けて掲げた。
―――――――――きっと、変わらないですよ
少女はそこに書かれた文字を読んで、己の身体が深い穴へ引きずり込まれるような感覚に襲われた。
不思議だったのは、その時一瞬脳裏に浮かんだのがあの少年の笑顔だったということ。
ここに、一人の異常者がいたとして。その異常者が、正常者との違いに苦しんで、辛くて、同じようになりたいと願ったとする。
学者は同情して願いを叶えてあげた。
異常者は無理矢理その輪の中に入って、無理矢理笑って、一人じゃなくなった。自分を周りと同じ色に染める。必死だった。
学者はしばらくして聞いた。
あなたは幸せですか?
異常者は悲しそうに首を横に振った。
わたしは、結局正常者になることができませんでした。
学者が言う。
認識がすべてだ、と。結局、その異常者は自分が異常者だと思い続けたために、正常者になれなかったのだ。まわりと同じ色になっても、同じように笑っても、自分が異常者だと思ってしまえばそれで終わりなのだ。
***
あるところにアメ工場に生まれた少女がいた。
続きはいつか。………………というかその前におかしい部分に訂正入れる必要があるか。