第9話:焦熱の残響
背後で揺らめく紅蓮の光は、夜明けの太陽ではない。
それは私たちを裏切り、売り渡そうとした「灰壁の村」が、歴史の彼方へと灰になって消えゆく弔いの灯火だった。
パチパチと、爆ぜる音が遠くから聞こえる。
悲鳴はもう聞こえない。リリアナの仕事は常に完璧で、慈悲がないからだ。
「……エリーゼ様。お召し物が、汚れてはいませんか?」
森の奥、焚き火の前でリリアナが私に問いかける。
彼女は先ほどから、既に誰もいない川で、何度も何度も自分の手を洗っていた。まるで、不可視の穢れを削ぎ落とそうとするかのように、白い肌が赤くなるまで。
「大丈夫よ。灰の一つも、私には届かなかったわ」
私は彼女の手を取り、自虐的な洗浄を止めさせた。
彼女の手は氷のように冷たいのに、指先だけが異常な熱を帯びている。『赤竜の心臓』を使用した代償だ。
「もういいの。貴女の手は綺麗よ。……私のために汚れたその手を、誰が責められるというの?」
「……ですが、血の匂いがします。貴女の高貴な香りを、私の殺戮の臭いで上書きしてしまうのが……怖くて」
リリアナは瞳を潤ませ、濡れた手を私の頬に近づけることを躊躇っている。
その怯え方は、数十分前に数十人の男たちを顔色一つ変えずに斬り伏せた修羅とは到底思えない。
「リリアナ」
私は彼女の濡れた手を強引に引き寄せ、自分の唇に押し当てた。
「……っ、あ……!」
「鉄の匂い。火薬の匂い。……ええ、とてもいい匂いだわ。これが私を守ってくれた証なら、どんな香水よりも愛おしい」
私が指先を舐めると、リリアナは電流が走ったように肩を震わせた。
彼女の瞳孔が開き、理性と狂気の境界が曖昧に溶けていく。
「エリーゼ、さま……。貴女は、どうして……。こんな汚れた私を、そうやって……」
「汚れてなんていないと言ったでしょう? 貴女は私の剣であり、盾であり、共犯者なの。……道具の手入れをするのは、持ち主の義務よ」
私は彼女を抱き寄せ、焚き火のそばに座らせた。
炎の揺らめきが、彼女の美しい銀髪をオレンジ色に染めている。
私たちは、バシュの家から奪った保存食(干し肉と堅焼きパン)を分け合った。
決して美味とは言えない食事だが、215回目のループで出された毒入りのスープに比べれば、王侯貴族の晩餐にも勝る。
「……この森を抜けたら、次はどこへ?」
少し落ち着きを取り戻したリリアナが、パンを小さくちぎりながら尋ねた。
「北西へ向かうわ。そこには『忘れられた城砦』がある。……300年前、帝国との戦争で放棄された廃墟よ」
「廃墟、ですか。……住める状態なのでしょうか?」
「普通ならね。でも、あそこには地下水脈が通っていて、何より『古代の防衛結界』がまだ生きているの」
私は記憶の引き出しを開ける。
560回目のループ。私たちはその城砦に隠れ住み、半年間生き延びた。最終的には結界の魔力切れで突破されたが、今回は違う。
「私たちが持っている『赤竜の心臓』を動力源にすれば、あの城砦は難攻不落の要塞に変わる。……そこを私たちの『国』にするのよ」
「二人だけの、国……」
リリアナが夢を見るように呟いた。
その言葉の響きだけで、彼女は生きていけるようだった。
「そうよ。誰も入らせない。誰も邪魔させない。……貴女が私のためだけに剣を振るい、私が貴女のためだけに策を練る、閉じた箱庭」
私は彼女の髪を梳きながら、甘い毒のような未来を語る。
それは健全な人間の生き方ではないかもしれない。だが、1,000回世界に拒絶された私たちには、世界を拒絶する権利がある。
「素敵です……。ああ、早く行きたい。そこで、貴女の髪を梳かし、貴女の服を選び、貴女が眠るまでおとぎ話を読み聞かせたい……」
リリアナの瞼が重くなっていく。
魔力の酷使と、感情の激流による疲労が限界に来ているのだ。
「おやすみ、リリアナ。……目が覚めたら、また地獄の続きを歩きましょう」
「……はい、主様。……貴女の夢が見られますように……」
彼女は私の膝に頭を乗せ、幼子のように深い眠りに落ちた。
その寝顔は安らかで、数時間前まで虐殺を行っていた殺人鬼の面影はない。
私は夜空を見上げた。
木々の隙間から見える星々は、1,000年前から変わらず冷たい光を放っている。
かつて私は、あの星に祈ったこともあった。「誰か助けて」と。
だが、今は違う。
(見ていなさい、神様。貴方の可愛い人形たちが、どこまで貴方の庭を荒らせるか)
私は膝の上の重みを感じながら、遠くで燃え続ける村の残火を、満足げに眺め続けた。




