第6話:死の森の道標
夜明けの光は、死の森に希望をもたらさない。
木々の隙間から差し込むのは、不気味な青白さを帯びた燐光。霧は昨日よりも濃く、視界を5メートル先まで遮っていた。この森そのものが、侵入者の精神を蝕み、方向感覚を奪い去る巨大な臓器のように脈打っている。
「……ん、ぁ……エリーゼ、様……?」
苔の感触に目を覚ましたリリアナが、心許なげに周囲を見渡す。
彼女の指は、まだ私の服を固く握りしめたままだ。1,001回目の朝を迎えても、彼女を苛む「断頭台の幻聴」は消えていない。彼女の脳裏には、1,000回分の血の匂いがこびりついているのだから。
「おはよう、リリアナ。顔色は悪くないわね」
「はい……。貴女の隣で、貴女の体温を感じていられる。……それだけで、私は世界で一番幸せな『道具』でいられます」
リリアナは弱々しく微笑み、自らの右腕をさすった。昨夜、『赤竜の心臓』の出力を強引に引き受けた火傷の痕は、私のアンチ・マジックによる処置で既に鎮まっている。だが、内側に残る「魔力の焦げ付き」までは拭えない。
「リリアナ、座って。……これからは、呼吸するのと同じくらい自然に、私の指示に従いなさい」
私は彼女の正面に腰を下ろし、懐から取り出した『赤竜の心臓』を地面に置いた。
深紅の宝石は、朝の冷気の中でも規則正しく、どくどくと熱を放っている。
「この森を抜けるには、3日かかる。普通なら1ヶ月は迷い歩き、最後には餓死するか魔物に食われるルートよ。……でも、私たちは最短距離を行くわ。1秒の無駄も許さない」
私は指先で地面の土をなぞり、地図を描いていく。
この森に正しい地図など存在しない。地形すら神の気まぐれで変動するからだ。だが、私は「どこで踏み込めば死ぬか」という1,000個の死の標を持っている。
(212回目のループ。ここの沼地には幻覚を吐く大蛇がいた。450回目。この丘を越えた先には、音に反応する捕食植物が10,000株群生していた)
私の指先が、死の記録を一本の「生」の線へと繋ぎ直していく。
それは神エリュシオンが書いた『絶望の脚本』に対する、最低で最高の校閲作業だった。
「リリアナ、貴女の剣に、この石の力を馴染ませる練習をしましょう。……私には魔力がない。だから、貴女という回路が必要なの」
「はい……。何なりとお命じください。私の体も、心も、魔力の一滴に至るまで、すべて貴女が使い潰すためのものです」
リリアナは恍惚とした表情で、細剣『アイリス』を宝石に近付けた。
その瞬間、銀色の刀身が共鳴し、キン、と鼓膜を劈くような高音が響く。
「……っ、ぐ……ぅ!」
リリアナが苦痛に顔を歪める。
莫大なエネルギーが彼女の細い体へ流れ込み、神経を直接焼きに来る。常人なら一瞬でショック死する負荷。だが、リリアナは歯を食いしばり、必死に私の視線を追い求めた。
「見つめていて……ください……エリーゼ様……! 貴女の瞳に映っていなければ、私は……この熱に溶けて、消えてしまいそうです……!」
「ええ、見ているわよ。貴女の苦痛も、震えも、そのすべてを私が独占してあげる」
私は彼女の首筋に手を添え、あえて力を込めた。
痛みを与えることで、意識を現実に繋ぎ止める。彼女にとって、私の加虐は救済であり、支配は自由だった。
宝石の深紅と、リリアナの魔力が混じり合い、刀身が禍々しいほどに輝き出す。
1,000回のループを経て、私たちはようやく「戦う力」を手に入れたのだ。王宮の腐った権力でも、神の気まぐれな奇跡でもない、自分たちの地獄を燃料にした力を。
「準備はいい? 最初の関門は、この先100メートルにある『嘆きの沼』よ。……そこには、父上が密かに放った帝国の暗殺者たちが潜んでいるわ」
私は冷徹に予言する。
彼らがそこにいるのは、第389回のループで実証済みだ。
あの日、私は泥水を啜りながら彼らになぶり殺された。だが、1,001回目の今日、死ぬのは彼らの番だ。
「……暗殺者。……エリーゼ様に、指一本触れさせはしません」
リリアナが立ち上がる。
その瞳は既に、人間の温かみを失い、捕食者の冷たい硝子玉へと変わっていた。
彼女の全身から溢れる紅蓮の魔力が、周囲の霧を焼き払い、森の沈黙を物理的に引き裂いていく。
「行きましょう、リリアナ。私たちの『楽園』は、まだ遠いわ」
「はい。……地獄を抜けた先まで、貴女の手を離しません」
私は彼女の手を握りしめた。
指先から伝わるのは、もはや狂気と呼ぶしかないほどの熱。
1,001回目の逃避行。私たちは、運命という名の鎖を一つずつ引きちぎりながら、暗い森の奥へと突き進んでいく。




