第5話:死の森の安息
一歩踏み込むごとに、月光が木々の隙間に吸い込まれていく。王都の城壁の外に広がる「死の森」は、夜の闇を煮詰めたような静寂に包まれていた。
背後からはまだ警鐘の音が微かに聞こえるが、この森の入り口を越える追っ手はまずいない。ここは、一度足を踏み入れれば二度と生きては戻れないと恐れられる、アステリア王国最大の禁足地だ。
「……ぁ、う……。エリーゼ、様……」
私の腕の中で、リリアナが苦しげに喘いだ。
『赤竜の心臓』の莫大な魔力を無理やり通した彼女の右腕は、熱を帯びて赤く腫れ上がっている。常人なら発狂していてもおかしくない負荷だが、彼女は痛みを訴える代わりに、私の衣類をちぎれんばかりの力で握りしめていた。
「大丈夫よ、リリアナ。もう少しで、安全な場所に辿り着くわ」
私は彼女を抱き抱えるようにして、迷いなく森の奥へと進む。
この森は、迷いの霧と吸魔の植物が蔓延る天然の迷宮だ。だが、私の脳内には完璧な地図がある。
(45回目のループ。私たちはこの森の入り口で、方向を見失って凍死した。122回目では、右側の茂みに潜んでいた巨大な毒蜘蛛に食い殺された)
私は過去の「死の記録」を一つずつ消し込みながら、最短ルートを辿る。
左手に現れた不気味な紫色の花を無視し、3歩進んでから右に曲がる。そこにあるのは一見すればただの岩壁だが、特定の蔦を引けば、隠された空洞が口を開く。
ズルリ、と岩の隙間に滑り込み、中から蔦を戻して入り口を塞ぐ。
そこは、かつて数回の死を経てようやく見つけ出した、この森で唯一「魔術的な干渉を受けない」天然のシェルターだった。
「……ふぅ。ここまで来れば、神の目も届かないわ」
私はリリアナを柔らかい苔の上に横たえ、懐から取り出した水筒を彼女の唇に当てた。
彼女は貪るように水を飲み、ようやく焦点の定まらない瞳を私に向けた。
「……ごめんなさい、エリーゼ様……。私が不甲斐ないばかりに、貴女に……こんな惨めな場所で……」
「惨め? 冗談じゃないわ」
私は彼女の隣に座り、その熱を持った右腕を優しく撫でた。
私の特異体質が、彼女の腕に残留している暴走した魔力を中和し、ゆっくりと鎮めていく。
「王宮のふかふかのベッドよりも、ここはずっと素晴らしいわ。だって、貴女を殺そうとする男たちは一人もいない。……私たちの邪魔をするものは、何一つないのだから」
「……あ……。はい……。仰る通りです……」
リリアナの頬が、熱のせいか、あるいは別の感情のせいか、赤く染まる。
彼女は震える手で、私の手を自らの胸元へと引き寄せた。
「お願いです、手を……離さないでください。……眠るのが、怖いのです。目を閉じれば、またあの断頭台の音が……冷たい刃の感触が、私の首を……!」
「寝ていいのよ、リリアナ。私がここにいる。1,000回、貴女の死を見届けてきた私が、貴女の生を保証してあげる」
私は彼女の耳元で囁き、その首筋に残る「1,001回目」の体温を確認するように顔を寄せた。
リリアナの脈動は、先ほどよりも落ち着きを取り戻している。彼女にとって、私の接触は何よりも効く鎮静剤なのだ。
「……エリーゼ様は、お疲れではないのですか? ずっと、私を支えて……」
「私は疲れないわ。感情を1,000回分捨ててきたもの。今の私を動かしているのは、貴女という最高の道具を、完璧な状態で維持したいという独占欲だけよ」
私の突き放すような言葉に、リリアナは陶酔したように吐息を漏らした。
普通なら怯えるような冷酷な響きが、依存しきった彼女にとっては、極上の愛の囁きとして響く。
「道具……。ああ、なんて素敵な響きでしょう。私は貴女に消費されるためだけに、1,000回分の痛みを耐えてきたのですね……」
彼女は私の指を一本ずつ愛おしそうに舐め、最後には自らの首に巻き付かせた。
「いつか、私が必要なくなったら……その時は、貴女の手で壊してください。他の誰の手にも触れさせず……貴女の記憶の中でだけ、私を永遠に飼い殺してくださいね」
「ええ、約束するわ」
私は彼女の首に力を込め、彼女が呼吸を乱すのを見つめながら微笑んだ。
死の森の奥深く、外の世界から切り離された二人だけの空間。
ここには、王国の法も、神の脚本も存在しない。
私はリリアナの隣に横たわり、彼女の銀髪に顔を埋めた。
明日には追っ手の魔導師たちが森を焼くかもしれない。あるいは、この森の主が私たちの命を狙いに来るかもしれない。
けれど、そんなことは些細な問題だ。
1,001回目の夜は、まだ始まったばかり。
私たちはこの暗闇の中で、誰にも邪魔されず、歪んだ愛の続きを貪るのだ。
(さあ、エリュシオン。貴方の書いたシナリオを、どこまで狂わせられるか楽しみだわ)
私は闇の向こうにいるはずの「観測者」に向け、音もなく嘲笑った。




