第45話:泥土の晩餐と遠雷
地下の空気は、腐敗と豊穣が混ざり合った独特の重みを持っている。
肺に吸い込むたび、喉の奥に湿った膜が張り付くような感覚。
私は温室の畝の間に立ち、足元の黒い土を見下ろしていた。
かつて王族が愛でた薔薇の園は、今や生存のための泥臭い生産工場へと変貌を遂げている。
私の視線の先には、土中から頭をもたげた青々とした葉があった。
大根の葉だ。
本来ならば、この凍てつく季節に芽吹くはずのない命。
それが今、不自然なほどの生命力で、地下の澱んだ空気を呼吸している。
私は膝を折り、その葉に触れた。
指先に伝わる、産毛の硬い感触。
微かに温かい。
それは地熱のせいではない。
この土壌に含まれる「肥料」――2000人の排泄物と、砕かれた10人の骨――が発酵し、熱を生み出しているのだ。
そして何より、部屋の中央で唸りを上げるボイラーから供給される、兄の命の熱。
それらが凝縮され、この緑色の葉脈を流れている。
「……育ちましたね、エリーゼ様」
背後で、リリアナが囁いた。
彼女の声には、植物への慈しみなど微塵もない。
あるのは、私の計画が滞りなく進行していることへの、盲目的な肯定だけだ。
彼女は腰の剣に手を添え、油断なく周囲を警戒している。
この温室には、私と彼女、そしてボイラーに繋がれた兄以外に誰もいないというのに。
「ええ。……予想よりも早かったわ」
私は根元を掴み、一気に引き抜いた。
ブチリ、という繊維が断裂する音。
土屑と共に現れたのは、私の小指ほどの太さしかない、白くひ弱な根だった。
まだ成長しきっていない。
だが、贅沢を言える状況ではなかった。
上の世界では、備蓄庫の底が見え始めている。
民衆の目は飢えで血走り、理性の堤防が決壊する寸前だ。
この細い根の1本が、彼らを繋ぎ止める楔となる。
私は懐からハンカチを取り出し、根についた泥を拭った。
完全には落ちない。
黒い土が、白い肌に染みのように残っている。
私はそれを口元へと運んだ。
「エリーゼ様!?」
リリアナが制止しようと手を伸ばす。
毒見をしていないものを、主人の口に入れさせるわけにはいかないという、忠犬の反射。
だが、私は構わずに齧りついた。
カリッ。
硬い音と共に、口の中に強烈な刺激が広がる。
辛味。
そして、土の香り。
その奥底に、微かな鉄錆の風味が混じっているように感じたのは、私の記憶が作り出した幻覚だろうか。
第650回目のループで、飢餓に耐えかねて靴の革を煮込んで食べた時の、あの絶望的な味に比べれば、これはご馳走だった。
生きている味がする。
誰かの死を吸い上げて育った、罪深い生の味が。
「……食べられるわ」
私は飲み込み、残りをリリアナに差し出した。
彼女は迷わずそれを受け取り、私が口をつけた部分に自分の唇を重ねるようにして齧った。
咀嚼する彼女の喉が動く。
彼女にとって、味などどうでもいいのだ。
私が毒を食めば、彼女も毒を食む。
私が人を殺せば、彼女も剣を振るう。
その共犯関係だけが、彼女の栄養源なのだから。
「……泥の味がします。けれど、貴女の味がします」
リリアナは恍惚とした表情で、指に残った土まで舐め取った。
その姿は、聖女のようであり、同時に食人鬼のようでもあった。
その時だ。
ズゥン……。
腹の底に響くような、重く鈍い振動が地下室を揺らした。
天井からパラパラと土埃が落ちてくる。
地震ではない。
もっと鋭角的で、破壊的な衝撃の余波。
私は顔を上げ、天井の彼方――地上の方角を睨んだ。
この振動の正体を、私は知っている。
「……始まったわね」
私は立ち上がり、ドレスの埃を払った。
リリアナも瞬時に「騎士」の顔に戻り、私の前に立って守りの体勢をとる。
「敵襲でしょうか?」
「いいえ。……自滅よ」
私たちは早足で温室を出た。
ボイラー室の前を通り過ぎる際、中を覗く。
カイルは、先ほどの振動にも反応せず、ただ虚ろな目で宙を仰いでいた。
彼の指にはめられた指輪が、狂ったように明滅し、ボイラーの圧力計が危険域を示している。
外で起きた「現象」と共鳴しているのだ。
彼から吸い上げられた魔力が、遠く離れた場所で、殺戮の引き金を引いている。
私たちは長い螺旋階段を駆け上がった。
肺が冷たい空気で満たされ、心臓が早鐘を打つ。
1階の広間を抜け、城壁の上の見張り台へ。
扉を開けた瞬間、猛烈な吹雪が襲いかかってきた。
視界が白く染まる。
風の音が鼓膜を叩く。
だが、その轟音の向こう側から、確かに聞こえてくるのだ。
ドォン……ババリィン……!
断続的な爆発音。
私は手すりに身を乗り出し、西の平原を見下ろした。
雪のカーテンの向こう、数キロメートル先。
そこには、赤い蓮華の花が咲いていた。
一つ、また一つ。
黒煙を上げて燃え上がる炎の塊。
帝国軍の野営地だ。
彼らが誇る最新鋭の魔導戦車部隊が、次々と内側から破裂しているのだ。
第400回目のループで、私を轢き潰した鉄の塊。
その圧倒的な質量の前に、私はなす術もなく肉片に変えられた。
だが今、それらは自らの動力を制御できず、搭乗員ごと吹き飛んでいる。
私がヴォルコフ大佐に渡した「星の錬金術」の設計図。
あれは、魔力変換効率を極限まで高める代わりに、冷却機能を完全に無視した欠陥理論だ。
欲に目が眩んだ彼らは、検証もせずに自軍の兵器に組み込んだのだろう。
そして、最初の斉射の瞬間、魔力回路が融解し、弾薬庫に引火した。
「……綺麗ですね」
隣で、リリアナが呟いた。
彼女の銀髪が風に乱れ、炎の照り返しを受けて赤く染まっている。
人の死を「綺麗」と言ってのけるその感性。
けれど、私も同感だった。
あれは花火だ。
私たちの生存を祝う、祝砲だ。
私は手すりを握りしめた。
凍りついた鉄の冷たさが、掌の皮膚を焼く。
その痛みだけが、これが夢ではないことを教えてくれる。
「これで、しばらくは静かになるわ」
帝国軍は大混乱に陥っているはずだ。
原因不明の自爆。
疑心暗鬼。
指揮系統の崩壊。
彼らが態勢を立て直すには、数週間はかかるだろう。
その間に、私たちは地下の作物を育て、城壁を直し、生き延びるための算段を整えることができる。
ふと、喉の奥から乾いた笑いが漏れた。
ざまあみろ、とは言わない。
ただ、胸の奥につかえていた黒い塊が、少しだけ溶け落ちた気がした。
これは勝利ではない。
ただの遅延工作だ。
けれど、この数日間の猶予が、1000回の死の淵を歩いてきた私にとっては、黄金よりも価値のあるものだった。
「戻りましょう、リリアナ。……寒いわ」
私が背を向けると、リリアナは名残惜しそうに炎を一瞥し、すぐに私の後を追った。
彼女の手が、私の冷え切った手を包み込む。
指と指を絡ませ、痛いほどに食い込ませる。
その拘束感。
逃げ場のない密着。
それが今の私には、どんな防寒具よりも温かかった。
城内へ戻る廊下で、すれ違った兵士たちが、遠くの爆音に怯えたような顔をしていた。
彼らは知らない。
あの爆発が、自分たちの王女が仕掛けた毒の結果であることを。
知らなくていい。
彼らはただ、与えられた餌を食べ、与えられた仕事をし、私の手駒として生きていればいいのだ。
私は口の中に残る、大根の苦味を反芻した。
泥と、鉄と、血の味。
それは、私たちがこれから歩む道の味そのものだった。




