第42話:凍てつく揺り籠の夢
世界が、白く塗り潰されていく。
執務室の窓ガラスは、外気との温度差で白く曇り、その向こう側では狂ったような吹雪が唸りを上げていた。
ヒュオオオ、ゴオオオ。
風の音ではない。それは、行き場を失った亡者たちの慟哭のように聞こえる。
石造りの城壁ですら、この暴風雪の前では頼りない墓標に過ぎない。
隙間風が忍び込み、蝋燭の炎を頼りなく揺らす。
私は肩に掛けた毛布を引き寄せた。
獣臭い、ゴワゴワとした安物の羊毛。
だが、今の私には、かつて纏っていた最高級の絹よりも、この薄汚れた毛布の方が価値がある。
「……気温が下がっています。明け方には、マイナス20度を下回るでしょう」
部屋の隅、暖炉の前で薪をくべていた男が言った。
元近衛騎士団長のヴォルフだ。
彼は無骨な手つきで、貴重な薪を1本、また1本と火にくべている。
パチリ、と乾燥した木が爆ぜる音。
焦げた木の香ばしい匂いが、部屋に充満する腐臭をわずかに和らげていた。
「地下の収容区画はどうなっている?」
「鮨詰め状態です。互いの体温で何とか凌いでいますが、すでに3名が凍死しました。……老人と、怪我人です」
ヴォルフの声には、抑揚がない。
彼もまた、私と共に修羅場を潜り抜けてきた男だ。死者の数を数えることは、備蓄食料の残数を数えることと同義であることを理解している。
「死体は?」
「地下水路へ流すには、水が凍りついています。……燃料にするしかありません」
「そう。……許可するわ」
私はペンを走らせながら、短く答えた。
残酷な判断ではない。合理的な熱量計算だ。
死体1つが燃え尽きるまでの熱量で、生きている子供2人が朝を迎えられるなら、迷う余地はない。
第650回目のループで、私は寒波に襲われた際、情に流されて死体を埋葬し、結果として燃料不足で全滅した。
あの時の、骨の髄まで凍りつくような寒さと、自分の指を噛みちぎって飢えを凌ごうとした味覚は、今でも舌の上に残っている。
「……承知いたしました。処理班に伝えます」
ヴォルフは一礼し、重い足取りで部屋を出て行った。
扉が開いた瞬間、廊下から冷気と共に、微かな異臭が流れ込んだ。
肉を焼く匂いだ。
食欲をそそる香ばしさと、鼻の奥を突く独特の脂の臭気。
それが何を意味するのか、私は考えないようにして、思考を遮断した。
「エリーゼ様」
足元から、甘えるような声がした。
リリアナだ。
彼女は私のドレスの中に潜り込んだまま、太腿に頬を擦り付けている。
彼女の体温は高い。
まるで熱病に冒されたように熱く、そして湿っている。
彼女は私の冷えた手を掴み、自分の唇に押し当てた。
ザラリとした舌の感触。
指先を愛撫するように舐め上げられると、背筋にゾクリとした戦慄が走る。
「……ヴォルフの報告、聞こえていたでしょう?」
「ええ。雑音ですね」
リリアナは興味なさそうに吐き捨てた。
彼女にとって、私以外の人間が何千人死のうが、道端の石ころが砕けるのと大差ない。
「それより、エリーゼ様の手が冷たいです。……温めて差し上げます」
彼女は私の指を1本ずつ口に含み、唾液と口腔の熱で解凍していく。
その行為は、献身的でありながら、どこか捕食的だった。
私の指の骨を噛み砕き、嚥下したいという衝動を、必死に理性で押さえ込んでいるのが伝わってくる。
「……ふふ。第99回目の貴女は、寒さに狂って、私の指を本当に噛みちぎったけれどね」
「! ……申し訳ありません、私の神様。あの時の私は、未熟でした」
リリアナはビクリと震え、瞳を潤ませて私を見上げた。
罪悪感と、過去の自分への嫉妬。
歪んだ感情が入り混じった瞳は、宝石のように美しく、そして底知れなく暗い。
「いいのよ。……あの時の痛みがあったから、今の私がいる」
私は空いた手で、彼女の銀髪を梳いた。
サラサラとした感触。
この髪が血で固まり、泥にまみれ、私の死体の上で泣き叫んでいた記憶が蘇る。
私たちは、1000回分の地獄を共有する共犯者だ。
この温もりだけが、嘘偽りのない真実。
不意に、窓ガラスがガタガタと激しく鳴った。
風が強まっている。
この吹雪は、帝国軍の進軍を阻む盾となるだろう。
ヴォルコフ大佐が持ち帰った「偽の技術」が爆発するまで、あと数日。
それまでの間、私たちはこの白い棺桶の中で、息を潜めて生き延びなければならない。
コン、コン。
再びノックの音がした。
今度は軽薄で、小気味良いリズム。
ゲパルトだ。
「失礼しますよ、へへっ」
入ってきた元商人は、顔中を煤で黒くしながらも、目の奥だけはギラギラと光らせていた。
彼の手には、薄汚れた帳簿が握られている。
「旦那、いや、エリーゼ様。ご命令通り、温室の準備が整いましたぜ」
「早かったわね。……肥料は?」
「たっぷりと。……いやぁ、人間ってのは食って出すだけの管ですな。2000人分の排泄物があれば、枯れた大地も肥沃な土壌に早変わりだ」
ゲパルトは鼻の下をこすり、下品に笑った。
彼の衣服からは、堆肥の発酵した酸っぱい匂いが漂っている。
「それに、温室の熱源ですがね……。地下のボイラー室に、あの『元国王陛下』を繋ぎましたよ」
「カイルを?」
「ええ。あの『星の錬金術』の指輪、あれは便利ですねぇ。あの男、泣き叫びながら石炭をくべ続けていますが、疲れを知らない。通常の3倍のペースで炉を回しております」
私は満足げに頷いた。
カイルの生命力を燃料に、温室を温め、作物を育てる。
その作物を、難民たちが食べる。
完璧なリサイクルだ。
かつて民の血税を啜っていた王が、今度は自らの命を削って民を養う。これほどの皮肉と正義があるだろうか。
「よくやったわ。……収穫はいつになる?」
「早くて2週間後には、大根の葉くらいは食えるようになるでしょう。それまでは、乾燥豆と、例の『肉』で凌ぐしかありませんが」
ゲパルトは言葉を濁し、視線を泳がせた。
彼も気づいているのだ。
地下で焼かれている肉の正体に。
だが、口には出さない。商人は、商品の中身よりも利益を優先する生き物だからだ。
「2週間……。長いわね」
私はインク壺にペンを浸した。
黒い液体が、死神の鎌のように鈍く光る。
「でも、待つしかないわ。……この冬を越えれば、私たちの時代が来る」
私は帳簿にサインをした。
その文字は、震えることなく、鋼のように鋭く刻まれた。
夜が更けていく。
吹雪は止む気配を見せない。
城の中は、死と生、排泄物と食料、絶望と希望が渾然一体となった、巨大な臓器のように脈打っている。
私はその心臓部で、ただ淡々と、血液を送るポンプの役割を果たし続ける。
「……眠らないのですか、エリーゼ様」
リリアナが心配そうに呟いた。
彼女の指が、私の目の下の隈をなぞる。
「眠れば、夢を見るもの。……1000回分の死の夢をね」
「私が食べて差し上げます。悪夢も、恐怖も、全て」
彼女は私の瞼に口づけを落とした。
優しい、麻薬のようなキス。
その重みに抗えず、私の意識はゆっくりと沈んでいく。
外は氷点下の地獄。
けれど、この歪んだ揺り籠の中だけは、狂おしいほどに温かかった。




