第40話:脚本にない夜明け
深夜の執務室は、墓石のように冷え切っていた。
暖炉の薪はとっくに燃え尽き、赤い熾火が時折、最期の呼吸のように明滅するだけだ。
窓の外では、雪が音もなく降り続いている。
世界から色彩を奪い、すべての汚泥を覆い隠そうとする白い暴力。
その冷気は石造りの壁を透過し、私の指先から体温を容赦なく奪っていく。
カタリ。
ペンを置く音が、予想以上に大きく響いた。
羊皮紙の山はようやく半分まで減った。
私は強張った首を回し、椅子の背もたれに深く沈み込む。
足元では、リリアナが私の膝に頭を預けたまま、浅い眠りに落ちていた。
彼女の銀髪が、微かな月明かりを吸って鈍く光る。
規則正しい寝息。
無防備に晒された細い首筋。
その血管の下で脈打つ生命の鼓動が、私の膝を通して伝わってくる。
この世界で唯一、私が信じられる温もり。
だが、その温もりさえも、いつか凍りついて消える日が来ることを私は知っている。1000回の記憶が、その喪失の予感を幻痛として突きつけてくるからだ。
「……ボス、起きてるか?」
扉が僅かに開き、腐敗臭とともにツンとする刺激臭が流れ込んできた。
ヴィクトールだ。
彼は強力な消毒用アルコールの壺を抱え、疲れ切った足取りで入ってきた。
包帯の下の瞳は充血し、目の下には濃い隈が刻まれている。
「起きてるわよ。……ノックくらいしなさい」
「したさ。あんたが書類と睨めっこしてて気づかなかっただけだ」
彼はソファにドサリと腰を下ろし、天井を仰いだ。
衣服には泥と煤、そして得体の知れない体液が付着して乾いている。
「報告だ。広場の選別は終わった。死体は地下水路へ流して、生きてる肉袋どもはそれぞれの持ち場へ叩き込んだ。……だが、計算が合わねえ」
「何が?」
「食い扶持だ。穀物庫の底を浚ってみたが、あと3日も持たねえぞ。近隣の村から徴収しようにも、この大雪だ。馬車が出せねえ」
ヴィクトールは懐から、クシャクシャになった紙片を取り出し、テーブルに放り投げた。
そこには、絶望的な数字が走り書きされていた。
備蓄残量、0。
それは、この「国」の寿命があと72時間であることを示している。
「魔術で麦を生やすことは?」
「俺は死霊術師だぞ? 死体を動かすのは得意だが、作物を育てるのは専門外だ。……それに、もう魔力が空っ欠だ。これ以上絞り出したら、俺自身が干物になっちまう」
彼は乾いた唇を舐め、恨めしそうに私を見た。
当然の帰結だ。
2000人の人間を養うというのは、それだけで巨大な事業なのだ。ましてや、ここは略奪された後の廃墟。
復讐は成功した。
だが、その後に残ったのは、勝利の美酒ではなく、飢餓という現実だった。
「……分かったわ。明日の朝、第2倉庫を開放する」
「第2? あそこは空っぽのはずだろ」
「床下の隠し部屋に、軍用の保存食があるはずよ。父が私腹を肥やすために隠匿していた、塩漬け肉と乾燥豆がね」
「マジかよ。……さすがは元王女様、城の隠し財産まで把握済みってか」
ヴィクトールは呆れたように笑い、やれやれと膝を叩いて立ち上がった。
「助かるぜ。これで暴動は防げる。……だが、それも一時しのぎだ。雪が止んだら、帝国軍のお出ましだろ? どうするつもりだ?」
帝国軍。
西の大国、ヴォルガ帝国。
アステリア王国の混乱に乗じ、国境に軍を集結させているという情報は、私の「記憶」にある。
第400回目のループでは、彼らに捕らえられ、見世物として市中引き回しにされた。
第890回目では、外交交渉を試みて失敗し、リリアナの生首を送りつけられた。
「算段はあるわ。……彼らが欲しがっているのは『土地』ではなく『技術』よ。この国独自の魔導精錬技術。それを餌にする」
「国を売る気か?」
「いいえ。……毒を盛った餌を食わせるだけよ」
私が薄く笑うと、ヴィクトールは「こえーこえー」と肩をすくめ、足早に出て行った。
扉が閉まると、再び静寂が戻る。
私はリリアナの頭をそっと撫でた。
彼女は身じろぎもせず、私の体温を貪るように眠り続けている。
ふと、窓の外に目を向ける。
空の色が変わり始めていた。
漆黒の闇が薄まり、群青色の空気に白んでいく。
夜明けだ。
私は立ち上がり、窓辺へと歩み寄る。
ガラスに指を触れると、氷のような冷たさが皮膚を刺した。
眼下には、雪に覆われた王都が広がっている。
崩れ落ちた尖塔。黒く焦げた城壁。そして、広場にうずくまる無数の黒い影。
美しい廃墟だ。
これが、私が手に入れた王国。
瓦礫と、汚物と、飢えた民で構成された、私の鳥籠。
……見ているか、エリュシオン。
私は空の彼方、雲の向こうにいるであろう「観測者」に向けて思考を飛ばす。
お前が書いた脚本では、ここで私は死ぬはずだった。
あるいは、リリアナを失い、発狂して世界を呪うはずだった。
だが、私は生きている。
リリアナも、私の足元で眠っている。
お前の期待した「悲劇」は、ここにはない。
あるのは、泥臭く、薄汚く、退屈な事務処理の日々だけだ。
第1章は終わった。
カイルという道化は退場し、父という舞台装置も壊れた。
ここから先は、お前の知らない物語だ。
私の1000回の死が無駄ではなかったことを、骨の髄まで思い知らせてやる。
「……ん……エリーゼ様……?」
背後で、衣擦れの音がした。
振り返ると、リリアナが目をこすりながら身を起こしていた。
寝癖のついた銀髪が、あどけなく跳ねている。
彼女は私の姿を見つけると、花が咲くように破顔した。
その笑顔には、一点の曇りもない。
私という存在への、全幅の信頼と依存。
それがどれほど重く、どれほど歪なものであっても、今の私には必要だった。
「おはよう、リリアナ」
「おはようございます、私の神様。……いい朝ですね」
彼女は窓の外を見ることなく、私だけを見てそう言った。
たとえ外が吹雪でも、私がそこにいれば、彼女にとっては快晴なのだろう。
東の空から、朝日が差し込んだ。
雪原に反射した光が、執務室を白く染め上げる。
眩しさに目を細める。
新しい一日が始まる。
また、2000人の命を選別し、カイルを虐め、インクと数字と格闘する一日が。
私はデスクに戻り、新しい羊皮紙を広げた。
インク壺にペンを浸す。
その黒い一滴が、真っ白な紙の上に落ちた。
さあ、始めよう。
私たちの、退屈で残酷な国作りを。




