第39話:共犯者のティータイム
重厚な樫の扉が、音もなく開いた。
蝶番の軋みさえ殺したその入室だけで、振り返らずとも相手が誰だか分かる。
私の背後で、衣擦れの音が止まった。
ふわりと、湯気とともに甘い香りが漂ってくる。ベルガモットの柑橘系の香り。最高級のアールグレイだ。
その優雅な香りは、窓の隙間から忍び込んでくる排泄物と腐臭の混じった空気を、一時的に上書きした。
「お待たせいたしました、エリーゼ様」
リリアナの声は弾んでいた。
コト、とマホガニーの執務机にティーカップが置かれる。
白磁のソーサーには一点の曇りもなく、注がれた琥珀色の液体は、シャンデリアの光を吸って揺らめいていた。
その横に、新しいインク瓶が置かれる。
「ありがとう」
私はペンを置き、カップの縁に指を這わせた。
陶器の温かさが、冷え切った指先から血管へと伝播していく。
一口、含む。
渋みと香りが舌の上で広がり、喉を落ちていく。それは砂漠に撒かれた水のように、乾いた内臓に染み渡った。
王城の備蓄品だ。かつて父や兄が、民から搾り取った税金で啜っていた液体。
それが今は、私の疲労を癒やすための燃料になっている。皮肉な味だ。
「兄上は?」
カップを置きながら問うと、リリアナは頬を上気させ、熱っぽい吐息を漏らした。
まるで、恋人との情事の余韻に浸る少女のような顔だ。
「地下の清掃用具室に押し込めてきました。最初は『ここは狭い』『臭い』と喚いていましたが、モップの柄で横腹を小突いて差し上げたら、大人しくなりましたよ」
「そう」
「ヴォルフに引き渡す際、少しだけ……ほんの少しだけ指が滑って、彼の綺麗な爪を2枚ほど剥いでしまいましたが、掃除には支障ないはずです」
リリアナは悪びれる様子もなく、むしろ褒めてほしそうに小首を傾げた。
生爪を剥ぐ感触と、兄の悲鳴。
それが彼女にとっては、極上の音楽だったのだろう。
私はため息を一つかみ殺し、再びペンを執った。
「掃除用具が持てるなら問題ないわ。……死なせない程度に加減しなさい。彼はこれから、向こう30年は働いてもらわなければならない貴重な労働力なのだから」
「はい。貴女の所有物を勝手に壊したりはしません。……今のところは」
リリアナは私の背後に回り込み、椅子の背もたれに手を置いた。
彼女の視線が、私の首筋に張り付いているのが分かる。
粘着質な、湿度の高い視線。
彼女は私が執務に戻るのを待っているのではない。対価を求めているのだ。
「……座りなさい、リリアナ」
私が顎で部屋の隅にあるソファを指すと、彼女は首を横に振った。
「いいえ。私はここで十分です」
カサリ、と音がする。
彼女は私の足元、執務机の下に潜り込み、膝をついた。
そして、私のドレスの裾をめくり上げ、あらわになった膝に頬を擦り寄せた。
ひやりとした彼女の頬の感触。
続いて、熱い吐息が太腿にかかる。
「……行儀が悪いわよ」
「私の特等席はここですから」
リリアナは私の膝に腕を回し、捨てられた子犬のように身を預けてきた。
彼女の心臓の音が聞こえるようだ。
ドクン、ドクンと早鐘を打っている。
最強の剣聖と謳われる彼女が、戦場ではなく、私の足元で最も安らぎを覚えているという事実。
その歪さが、今の私には心地よかった。
「エリーゼ様」
「なに」
「このまま、世界が終わればいいのに」
彼女は夢見心地で呟いた。
「貴女がペンを走らせる音と、時計の針の音。それ以外は何もいらない。あの窓の外にいる有象無象も、これから攻めてくるであろう帝国軍も、全部消えてしまえばいい」
純粋で、暴力的な願い。
彼女にとっての世界は、半径1メートル以内にしか存在していない。
もし私が「世界を燃やせ」と命じれば、彼女は躊躇なくこの城に油を撒き、マッチを擦るだろう。私と二人きりで灰になるためなら、彼女は喜んで地獄の業火に飛び込む。
私はペンを止めず、空いた左手で彼女の銀髪を梳いた。
指先に絡まる絹のような感触。
血と泥にまみれ、何千もの命を奪ってきた髪だとは思えないほど、それは柔らかく、清潔だった。
撫でるたびに、彼女の喉が猫のように鳴る。あるいは、処刑を待つ罪人のような震えが伝わってくる。
「世界は終わらないわ。……まだ、何も始まっていないもの」
私は視線を書類に戻す。
住民台帳の整理はまだ3割しか終わっていない。
食料の配給路の確保、井戸の水質検査、冬越えの毛布の算段。
現実は、彼女の甘い幻想を許さない。
私たちは地獄の底で、泥をすすりながら楽園を築くのだ。
「しばらく、そこでじっとしていなさい。……足が痺れたら蹴り飛ばすわよ」
「はい。……光栄です」
リリアナは私の掌に唇を押し当て、親指の腹を甘噛みした。
鋭い犬歯が皮膚に食い込む痛み。
それは契約の印だ。
言葉よりも深く、血よりも濃い、共犯者としての契り。
窓の外では、鉛色の空から白いものが落ち始めていた。
雪だ。
王都を覆う汚泥と死臭を、白く塗りつぶしていく無慈悲な帳。
この雪が積もれば、難民たちの命はさらに削られることになる。
私はインク壺にペンを浸した。
たっぷりと黒い血を吸ったペン先を、羊皮紙に走らせる。
暖炉の火がパチリと爆ぜた。
私の足元には、世界で一番危険で、忠実な猛獣が眠っている。
夜は、まだ始まったばかりだ。




