表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放された無能王女、実は「自分と手を繋いだ相手」と一緒に【セーブ&ロード】する権能を持っていました。  作者: タルタロス


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

38/45

第38話:塵と灰の選別

 窓ガラス1枚を隔てた向こう側に、地獄の釜の蓋が開いていた。

 城門広場を埋め尽くすのは、およそ2000の「肉袋」たちだ。

 彼らの頭上には、煮込まれた獣肉の脂ぎった匂いと、何日も湯あみを許されていない人間の酸っぱい体臭、そして泥と排泄物が混ざり合った、強烈な腐臭が淀んでいる。

 風は死んでいた。

 冬の張り詰めた冷気さえも、2000人分の熱気と吐息によって湿り気を帯び、生温かい不快な膜となって私の肌にまとわりつく。


 クチャ、クチャ、ズルルッ。

 咀嚼そしゃく音だ。

 理性を捨てた人間が、ただ胃袋の痙攣けいれんを鎮めるためだけに顎を動かす、動物的なリズム。

 木製の椀がぶつかり合う乾いた音。スープを啜る下品な音。

 私は王城の2階、かつて父が愛用していた執務室の革張り椅子に深く腰掛け、その地獄絵図を眼下に収めていた。


 手元には、羊皮紙の束と、乾きかけたインク壺。

 羽ペンをインクに浸す。

 ポチャン、という微かな水音が、部屋の静寂に落ちる。黒い液体がペン先に吸い上げられる様は、まるで誰かの生き血を啜っているかのようだ。

 ペン先が紙の上を滑る。カリカリ、カリカリ。

 その一定のリズムだけが、この混沌とした世界の中で、私が「管理者」であることを証明する唯一の秩序だった。


「……ひどい有様だな。まるでイナゴの大群だ」


 部屋の隅、影の濃い場所で、腐敗の魔導師ヴィクトールが頭を抱えていた。

 包帯の隙間から覗く皮膚は、疲労でドス黒く変色している。広場の「防疫結界」維持で、彼の魔力は限界まで削られていた。


「食料庫の備蓄が、ザルの底が抜けたみたいに消えていくぞ。……俺たちが冬を越すための備蓄だったんだぞ? このままじゃ、助けた連中に食い尽くされて共倒れだ。どうするつもりだ、ボス?」

「選別するのよ」


 私は顔を上げず、ペンを走らせたまま答えた。

 インクの匂いが鼻孔をくすぐる。鉄分を含んだ、鋭い匂い。それは、かつて私の首を刎ねた斧の匂いによく似ていた。


「ただ飯ぐらいは置かない。……食べた分は、その肉体と魂を削って返してもらうわ」


 書き上げたばかりのリストに、インク吸い取り紙を押し当てる。

 じわり、と黒い染みが広がる。その一つ一つが、広場で餌を貪る人間たちの運命だ。

 彼らはもう、アステリア王国の国民ではない。私の手駒だ。


「農民は温室へ。自分の排泄物を肥料にして作物を育てさせなさい。兵士は土木工事へ。崩れた城壁の修復と地下水路の拡張。彼らの筋肉は、石を運ぶためだけに存在すると教え込むのよ」

「商人は?」

「ゲパルトの下につけて、他国との交渉術を叩き込ませる。……口先だけで生きてきた連中だもの、これから始まる泥沼の外交戦には役に立つでしょう」


 淡々と指示を飛ばす。

 感情はない。これはパズルだ。不揃いな駒を、あるべき場所に嵌め込んでいく作業。そこに慈悲もなければ、悪意もない。ただ、算段という名の神がいるだけだ。


「へいへい。……で、あの『一番使い道のない粗大ゴミ』はどうするんで?」


 ヴィクトールが、あからさまに嫌そうな顔で顎をしゃくった。

 執務室の床、最高級のペルシャ絨毯の上に、後ろ手に縛られ、転がされている物体があった。

 泥と嘔吐物、そして失禁の跡にまみれた、かつての王族用喪服。

 アステリア新国王、カイル・アステリア。

 かつて私を「無能」と嘲笑い、1000回の人生のうち、実に400回ほど私の処刑命令書にサインをした男。

 いや、今はただの動く塵芥ちりあくただ。


「う……うぅ……」


 カイルが、喉の奥から軋むような呻き声を上げた。

 濁った瞳が焦点を結び、私を認識した瞬間、彼の喉がヒュッと鳴り、体がビクリと跳ねた。


「ひっ……! エ、エリーゼ……!?」


 彼は床を這いずり、後ずさりしようとした。だが、縛り上げられた手足は自由が利かず、ただ無様に体をくねらせるだけだ。

 絨毯が擦れるシュルシュルという音が、彼の恐怖を雄弁に物語っている。


「おはよう、兄上。……泥の味はいかがでしたか? 王城の専属シェフが作る仔羊のローストより、味わい深かったかしら?」


 私が椅子に座ったまま、氷のような視線を投げかけると、カイルは顔を茹で上がった蛸のように真っ赤にして叫んだ。

 虚栄心という燃料だけで生きてきた男が、最も見下していた「無能な妹」に、最も無様な姿を見られた屈辱。


「き、貴様……! よくも私に恥をかかせたな! 私は王だぞ! 神に選ばれた、正統なるアステリアの王だぞ!」


 唾を飛ばしながら喚く。その唾液が、自身の削げた顎を伝って首筋へ落ちていく。

 ああ、汚い。第720回目のループで、冷酷に私を処刑した男の面影はどこにもない。今はただ、玩具を取り上げられ癇癪かんしゃくを起こしている赤ん坊だ。


「王なら、自分の足でお立ちなさい。……床に這いつくばって、蛆虫うじむしのように喚くのは、王の仕事ではありませんわ」

「……殺せ。私を殺して、晒し首にすればいいだろう! それが貴様の望みなんだろう! さっさとやれ!」


 カイルが裏返った声で叫ぶ。

 典型的な敗者のセリフだ。死によって自尊心を守ろうとしている。「簒奪者に殺された悲劇の王」として歴史に残る名誉など、私が与えるはずもない。


「殺す? ……いいえ、もったいない」


 私はペンを置き、立ち上がった。

 絹のドレスの裾を翻し、彼の前までゆっくりと歩み寄る。コツ、コツ。ヒールの音が死刑執行の足音のように響く。

 私はしゃがみ込み、扇子の先端で、彼の脂ぎったアゴをクイと持ち上げた。


「貴方には、働いてもらいます」

「は……? は、働く……?」


 カイルの思考が停止した。その単語は、彼の辞書には存在しない異国の言語だったのだろう。


「ええ。エリュシオンは人手不足なの。……貴方には『汚物処理班』の責任者を任せるわ」


 カイルの目が点になった。瞳孔が限界まで開き、理解を拒絶している。


「お、汚物……? 私が……便所掃除だと……!?」

「重要な責務よ。2000人の難民が出す排泄物の処理は、都市の衛生環境を守る生命線だもの。彼らは食べて、出す。その量は1日で山になるわ。誰かがそれを汲み取り、運び、処理しなければ、疫病が蔓延して全員が死ぬ」


 私は扇子を閉じ、パチリと音を立てた。


「かつて国を腐らせ、政治という名の汚物を垂れ流していた貴方なら、その扱いに長けているでしょう? 適材適所だわ」


 沈黙。そして、爆発。

 それは死刑宣告よりも残酷な、尊厳の完全なる破壊だった。元国王が、かつての臣下たちの糞尿にまみれ、民衆から石を投げられながら生き延びる。それは地獄の業火よりも永い拷問だ。


「ふ、ふざけるなッ! 私は王だ! 選ばれし人間だ! そんな真似ができるか! 殺せ! いっそ殺せぇぇぇッ!」


 カイルが獣のように咆哮し、私に噛みつこうと身を乗り出した。

 泡を飛ばし、血走った目で私を食い殺そうとする殺意。だが、その牙が私に届くことはない。


「……五月蝿うるさい」


 ドゴッ。


 重く、鈍い音が執務室に響いた。

 背後に控えていたリリアナが、鞘に収めたままの愛剣アイリスで、カイルの鳩尾みぞおちを無造作に突き上げたのだ。

 手加減のない、けれど殺しはしない、正確無比な一撃。


「が、はっ……!?」


 カイルの口から空気が強制的に排出され、白目を剥いて痙攣する。

 糸が切れた操り人形のように、彼は再び絨毯の上へ崩れ落ちた。


「……エリーゼ様。この塵芥、窓から捨ててもいいですか? お部屋の空気が汚れます」


 リリアナが、道端の汚物を見るよりも冷徹な目でカイルを見下ろす。

 彼女の手は鯉口を切っており、許可さえあれば瞬きする間にその首を刎ねるだろう。放たれる純粋な殺気が、部屋の温度を数度下げた。


「駄目よ。……貴重な労働力だもの」


 私は気絶した兄を跨いで席に戻った。ドレスの裾が彼の顔を掠める。


「ヴォルフを呼びなさい。彼を地下の清掃用具室へ。……ああ、それと食事は1日2回、固くなったパンの耳と水だけでいいわ。働かざる者食うべからず、よ」

「……御意。逃げ出そうとしたら足を1本ずつ折って、這ってでも作業させるように伝えておきます」


 リリアナは不満げながらも、カイルの襟首を掴んだ。

 まるで屠殺場へ運ばれる豚のように、彼女は華奢な腕1本で成人男性を引きずっていく。

 ズルズル、ズルズル。高価な喪服が床を擦る音が遠ざかり、重い扉が閉まる音と共に消えた。


「さて……」


 部屋に静寂が戻る。ヴィクトールも肩をすくめ、消毒作業へ戻っていった。

 私は再びペンを手に取った。

 カイルの処遇は決まった。次は、難民の住民登録、衛生検査、食料配給の再計算。羊皮紙の上には、感情の入る余地のない数字の羅列が増えていく。


 復讐は終わった。

 派手な断末魔も、劇的な処刑もない。

 アステリア王国は地図から消え、私の事務処理だけが残った。


「……インクが切れそうね」


 私はインク壺を軽く振った。黒い液体が、底の方でチャプンと寂しい音を立てる。

 一国の興亡も、私にとってはインク1瓶分の事務処理に過ぎない。


 リリアナが戻ってきたら、新しいインクを持ってこさせよう。

 ついでに、渋めの紅茶も。

 窓の外では、まだ鉛色の雲が低く垂れ込めている。今日の残業は、まだまだ長くなりそうだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ