第38話:塵と灰の選別
窓ガラス1枚を隔てた向こう側に、地獄の釜の蓋が開いていた。
城門広場を埋め尽くすのは、およそ2000の「肉袋」たちだ。
彼らの頭上には、煮込まれた獣肉の脂ぎった匂いと、何日も湯あみを許されていない人間の酸っぱい体臭、そして泥と排泄物が混ざり合った、強烈な腐臭が淀んでいる。
風は死んでいた。
冬の張り詰めた冷気さえも、2000人分の熱気と吐息によって湿り気を帯び、生温かい不快な膜となって私の肌にまとわりつく。
クチャ、クチャ、ズルルッ。
咀嚼音だ。
理性を捨てた人間が、ただ胃袋の痙攣を鎮めるためだけに顎を動かす、動物的なリズム。
木製の椀がぶつかり合う乾いた音。スープを啜る下品な音。
私は王城の2階、かつて父が愛用していた執務室の革張り椅子に深く腰掛け、その地獄絵図を眼下に収めていた。
手元には、羊皮紙の束と、乾きかけたインク壺。
羽ペンをインクに浸す。
ポチャン、という微かな水音が、部屋の静寂に落ちる。黒い液体がペン先に吸い上げられる様は、まるで誰かの生き血を啜っているかのようだ。
ペン先が紙の上を滑る。カリカリ、カリカリ。
その一定のリズムだけが、この混沌とした世界の中で、私が「管理者」であることを証明する唯一の秩序だった。
「……ひどい有様だな。まるでイナゴの大群だ」
部屋の隅、影の濃い場所で、腐敗の魔導師ヴィクトールが頭を抱えていた。
包帯の隙間から覗く皮膚は、疲労でドス黒く変色している。広場の「防疫結界」維持で、彼の魔力は限界まで削られていた。
「食料庫の備蓄が、ザルの底が抜けたみたいに消えていくぞ。……俺たちが冬を越すための備蓄だったんだぞ? このままじゃ、助けた連中に食い尽くされて共倒れだ。どうするつもりだ、ボス?」
「選別するのよ」
私は顔を上げず、ペンを走らせたまま答えた。
インクの匂いが鼻孔をくすぐる。鉄分を含んだ、鋭い匂い。それは、かつて私の首を刎ねた斧の匂いによく似ていた。
「ただ飯ぐらいは置かない。……食べた分は、その肉体と魂を削って返してもらうわ」
書き上げたばかりのリストに、インク吸い取り紙を押し当てる。
じわり、と黒い染みが広がる。その一つ一つが、広場で餌を貪る人間たちの運命だ。
彼らはもう、アステリア王国の国民ではない。私の手駒だ。
「農民は温室へ。自分の排泄物を肥料にして作物を育てさせなさい。兵士は土木工事へ。崩れた城壁の修復と地下水路の拡張。彼らの筋肉は、石を運ぶためだけに存在すると教え込むのよ」
「商人は?」
「ゲパルトの下につけて、他国との交渉術を叩き込ませる。……口先だけで生きてきた連中だもの、これから始まる泥沼の外交戦には役に立つでしょう」
淡々と指示を飛ばす。
感情はない。これはパズルだ。不揃いな駒を、あるべき場所に嵌め込んでいく作業。そこに慈悲もなければ、悪意もない。ただ、算段という名の神がいるだけだ。
「へいへい。……で、あの『一番使い道のない粗大ゴミ』はどうするんで?」
ヴィクトールが、あからさまに嫌そうな顔で顎をしゃくった。
執務室の床、最高級のペルシャ絨毯の上に、後ろ手に縛られ、転がされている物体があった。
泥と嘔吐物、そして失禁の跡にまみれた、かつての王族用喪服。
アステリア新国王、カイル・アステリア。
かつて私を「無能」と嘲笑い、1000回の人生のうち、実に400回ほど私の処刑命令書にサインをした男。
いや、今はただの動く塵芥だ。
「う……うぅ……」
カイルが、喉の奥から軋むような呻き声を上げた。
濁った瞳が焦点を結び、私を認識した瞬間、彼の喉がヒュッと鳴り、体がビクリと跳ねた。
「ひっ……! エ、エリーゼ……!?」
彼は床を這いずり、後ずさりしようとした。だが、縛り上げられた手足は自由が利かず、ただ無様に体をくねらせるだけだ。
絨毯が擦れるシュルシュルという音が、彼の恐怖を雄弁に物語っている。
「おはよう、兄上。……泥の味はいかがでしたか? 王城の専属シェフが作る仔羊のローストより、味わい深かったかしら?」
私が椅子に座ったまま、氷のような視線を投げかけると、カイルは顔を茹で上がった蛸のように真っ赤にして叫んだ。
虚栄心という燃料だけで生きてきた男が、最も見下していた「無能な妹」に、最も無様な姿を見られた屈辱。
「き、貴様……! よくも私に恥をかかせたな! 私は王だぞ! 神に選ばれた、正統なるアステリアの王だぞ!」
唾を飛ばしながら喚く。その唾液が、自身の削げた顎を伝って首筋へ落ちていく。
ああ、汚い。第720回目のループで、冷酷に私を処刑した男の面影はどこにもない。今はただ、玩具を取り上げられ癇癪を起こしている赤ん坊だ。
「王なら、自分の足でお立ちなさい。……床に這いつくばって、蛆虫のように喚くのは、王の仕事ではありませんわ」
「……殺せ。私を殺して、晒し首にすればいいだろう! それが貴様の望みなんだろう! さっさとやれ!」
カイルが裏返った声で叫ぶ。
典型的な敗者のセリフだ。死によって自尊心を守ろうとしている。「簒奪者に殺された悲劇の王」として歴史に残る名誉など、私が与えるはずもない。
「殺す? ……いいえ、もったいない」
私はペンを置き、立ち上がった。
絹のドレスの裾を翻し、彼の前までゆっくりと歩み寄る。コツ、コツ。ヒールの音が死刑執行の足音のように響く。
私はしゃがみ込み、扇子の先端で、彼の脂ぎったアゴをクイと持ち上げた。
「貴方には、働いてもらいます」
「は……? は、働く……?」
カイルの思考が停止した。その単語は、彼の辞書には存在しない異国の言語だったのだろう。
「ええ。エリュシオンは人手不足なの。……貴方には『汚物処理班』の責任者を任せるわ」
カイルの目が点になった。瞳孔が限界まで開き、理解を拒絶している。
「お、汚物……? 私が……便所掃除だと……!?」
「重要な責務よ。2000人の難民が出す排泄物の処理は、都市の衛生環境を守る生命線だもの。彼らは食べて、出す。その量は1日で山になるわ。誰かがそれを汲み取り、運び、処理しなければ、疫病が蔓延して全員が死ぬ」
私は扇子を閉じ、パチリと音を立てた。
「かつて国を腐らせ、政治という名の汚物を垂れ流していた貴方なら、その扱いに長けているでしょう? 適材適所だわ」
沈黙。そして、爆発。
それは死刑宣告よりも残酷な、尊厳の完全なる破壊だった。元国王が、かつての臣下たちの糞尿にまみれ、民衆から石を投げられながら生き延びる。それは地獄の業火よりも永い拷問だ。
「ふ、ふざけるなッ! 私は王だ! 選ばれし人間だ! そんな真似ができるか! 殺せ! いっそ殺せぇぇぇッ!」
カイルが獣のように咆哮し、私に噛みつこうと身を乗り出した。
泡を飛ばし、血走った目で私を食い殺そうとする殺意。だが、その牙が私に届くことはない。
「……五月蝿い」
ドゴッ。
重く、鈍い音が執務室に響いた。
背後に控えていたリリアナが、鞘に収めたままの愛剣アイリスで、カイルの鳩尾を無造作に突き上げたのだ。
手加減のない、けれど殺しはしない、正確無比な一撃。
「が、はっ……!?」
カイルの口から空気が強制的に排出され、白目を剥いて痙攣する。
糸が切れた操り人形のように、彼は再び絨毯の上へ崩れ落ちた。
「……エリーゼ様。この塵芥、窓から捨ててもいいですか? お部屋の空気が汚れます」
リリアナが、道端の汚物を見るよりも冷徹な目でカイルを見下ろす。
彼女の手は鯉口を切っており、許可さえあれば瞬きする間にその首を刎ねるだろう。放たれる純粋な殺気が、部屋の温度を数度下げた。
「駄目よ。……貴重な労働力だもの」
私は気絶した兄を跨いで席に戻った。ドレスの裾が彼の顔を掠める。
「ヴォルフを呼びなさい。彼を地下の清掃用具室へ。……ああ、それと食事は1日2回、固くなったパンの耳と水だけでいいわ。働かざる者食うべからず、よ」
「……御意。逃げ出そうとしたら足を1本ずつ折って、這ってでも作業させるように伝えておきます」
リリアナは不満げながらも、カイルの襟首を掴んだ。
まるで屠殺場へ運ばれる豚のように、彼女は華奢な腕1本で成人男性を引きずっていく。
ズルズル、ズルズル。高価な喪服が床を擦る音が遠ざかり、重い扉が閉まる音と共に消えた。
「さて……」
部屋に静寂が戻る。ヴィクトールも肩をすくめ、消毒作業へ戻っていった。
私は再びペンを手に取った。
カイルの処遇は決まった。次は、難民の住民登録、衛生検査、食料配給の再計算。羊皮紙の上には、感情の入る余地のない数字の羅列が増えていく。
復讐は終わった。
派手な断末魔も、劇的な処刑もない。
アステリア王国は地図から消え、私の事務処理だけが残った。
「……インクが切れそうね」
私はインク壺を軽く振った。黒い液体が、底の方でチャプンと寂しい音を立てる。
一国の興亡も、私にとってはインク1瓶分の事務処理に過ぎない。
リリアナが戻ってきたら、新しいインクを持ってこさせよう。
ついでに、渋めの紅茶も。
窓の外では、まだ鉛色の雲が低く垂れ込めている。今日の残業は、まだまだ長くなりそうだ。




