第37話:泥と飢えの葬列
その行進に、軍靴の音はなかった。
聞こえてくるのは、ズルズルと大地を擦る布の音と、何千もの人間が荒い呼吸をする、ヒューヒューという病的な喘鳴だけだ。
エリュシオンの城壁の上。
私は純白の喪服を風になびかせ、眼下の光景を見下ろしていた。
南の地平線から近づいてくるのは、かつて帝国の軍勢が見せたような、黒鉄の津波ではない。
それは、灰色と茶色の斑点模様をした、巨大な「汚泥」の塊だった。
「……臭いますね」
私の隣で、リリアナが顔をしかめてハンカチを鼻に押し当てた。
「腐った野菜と、何日も洗っていない獣の臭い。……あれが、一国の国王が率いる軍隊だと言うのですか?」
彼女の指摘通りだった。
先頭を歩く数百名の兵士こそ、錆びついた鎧と槍を身につけているが、その後ろに続く二千名近くの群衆は悲惨を極めていた。
農具を持たされた農民。鍋の蓋を盾にした婦人。そして、なぜここにいるのかも理解できていないような、虚ろな目をした子供たち。
彼らは「兵士」ではない。カイル新王によって人間の盾として徴用された、動く肉壁だ。
「ええ。あれがアステリア王国の最期よ」
私は日傘を回し、淡々と言葉を紡ぐ。
胸に去来する感情は、怒りでも悲しみでもない。
強いて言えば、壊れかけの玩具が最後にゼンマイを巻き切って動いている様を見るような、冷ややかな憐憫だけだった。
「リリアナ。……私のドレスの裾を踏まないで。汚れるわ」
「申し訳ありません。……ですが、貴女が風に攫われてしまいそうで」
リリアナは私の腰を強く抱き寄せたまま、離そうとしない。
彼女の指先が、私の肋骨一本一本を確認するように食い込んでいる。その痛みだけが、眼下の非現実的な光景を「現実」として私に認識させていた。
***
王国の軍勢――というよりは難民の群れ――は、城砦の前で停止した。
その中央。
装飾過多な馬車の上に立ち、剣を振り上げている男がいる。
カイル・アステリア。
頭には大きすぎる王冠を戴き、頬はこけ、目は異常にギラギラと輝いている。
「聞けぇぇぇッ!! 反逆者エリーゼよ!!」
カイルの絶叫が、拡声の魔導具を通して響き渡る。
その声は裏返り、威厳のかけらもない。
「貴様は聖女を誘拐し、父王を呪い殺し、さらに我が国の食料を強奪した! ……これは聖戦だ! 正義の鉄槌を下し、貴様の首を城門に晒してやる!!」
パラパラ……と、力のない歓声が上がる。
兵士たちが槍で地面を叩き、無理やり士気を上げようとしているが、後ろの民衆は座り込み、地面の草をむしって口に入れている有様だ。
「……滑稽ですね。殺しますか?」
リリアナが、アイリスの柄に手をかけた。
彼女の瞳孔が縦に収縮し、カイルの喉元に照準を合わせている。
「いいえ。……まだ早い」
私は首を振った。
「彼らは『敵』としてここに来たんじゃないわ。……『お客様』として来たのよ」
私は指を鳴らした。
それを合図に、城壁の下に待機させていたヴォルフたち獣人部隊が動き出す。
彼らが城門を少しだけ開け、そこから運び出したのは、武器でも兵器でもない。
巨大な寸胴鍋だ。
いくつもの大鍋が、城門の前にズラリと並べられる。
そして、蓋が一斉に開けられた。
ボワァッ……と立ち上る白い湯気。
風に乗って運ばれるのは、ヴィクトールの温室で採れた野菜と、たっぷりの肉を煮込んだ、濃厚なスープの香り。
そして、焼きたてのパンの香ばしい匂い。
その「暴力的なまでの芳香」が、戦場を支配した。
「……あ」
「肉だ……肉の匂いだ……」
「パン……白いパンだ……」
座り込んでいた民衆が、屍人のようにゆらりと立ち上がった。
兵士たちの手が止まる。
彼らの視線は、城壁の上の私ではなく、湯気を立てる鍋に釘付けになっていた。
喉が鳴る音が、風の音よりも大きく聞こえる。
「さあ、アステリアの民よ!」
私は声を張り上げた。
優しく、慈愛に満ちた、聖母のようなトーンで。
「お腹が空いたでしょう? ……寒いでしょう? 武器を捨てなさい。そうすれば、このスープは貴方たちのものです」
その言葉は、どんな攻撃魔法よりも深く、彼らの戦意を貫いた。
「う、嘘だ! 騙されるな! 那は毒だ!」
カイルが叫ぶ。
だが、一人の農民が鍬を捨て、鍋に向かって走り出した。
「殺せ! 逃亡兵を殺せ!」
カイルが兵士に命じるが、兵士も動かない。
いや、兵士の一人が槍を投げ捨て、兜を脱ぎ捨てて走り出したのだ。
それが決壊の合図だった。
ワァァァァァッ!!
怒号ではない。歓喜の悲鳴。
二千人の群衆が、鍋に向かって殺到する。
カイルの馬車など無視され、むしろ邪魔だと突き飛ばされ、泥の中に横転した。
「な、なんだ!? 貴様ら、私は王だぞ! 王の命令が聞けないのかッ!?」
カイルが泥まみれになりながら叫ぶ。
だが、誰も彼を見ていない。
飢えた人間にとって、王冠の輝きなど、一片のパンの耳ほどの価値もないのだ。
「……終わりましたね」
リリアナがつまらなそうに呟く。
眼下の光景は、もはや戦争ではない。巨大な炊き出し会場だ。
獣人たちが「並べ! 押すな!」と怒鳴りながら、かつての敵にスープを配っている。
その中には、涙を流しながらパンを頬張る兵士たちの姿もあった。
「ええ。……これにて、アステリア王国軍は壊滅よ」
私は扇子を閉じた。
血を一滴も流さず、剣を一度も交えず。
ただ食欲という人間の根源的な欲求を掌握しただけの勝利。
一千回のループの中で、最もあっけなく、そして最も確実な決着だった。
「見て、リリアナ。……兄上が一人で泣いているわ」
群衆に踏み荒らされた馬車の残骸の横で、カイルが王冠を抱きしめてうずくまっている。
泥だらけの喪服。歪んだ冠。
彼は誰も従わない荒野で、一人ぼっちの王様ごっこを続けている。
「……殺しますか? 今度こそ」
「いいえ。……今の彼には、死という安らぎすら贅沢よ」
私は冷たく言い放ち、背を向けた。
「放っておきなさい。……どうせ、お腹が空けば彼も列に並ぶわ。プライドで腹は膨れないもの」
「……残酷な方。ですが、そんな貴女だからこそ、私は信仰を止められない」
リリアナが私の背中に額を押し付け、深い溜息を吐く。
彼女にとって、敵が惨めに生き恥を晒す様は、何よりの道化芝居なのだろう。
「さあ、戻りましょう。……葬式は終わったわ。これからは、新しい国民を迎えるための事務手続きが山積みよ」
私はカイルを一瞥もしないまま、執務室へと歩き出した。
背後からは、スープを啜る音と、「魔女様万歳!」という新しい詠唱が聞こえてくる。
空はまだ曇っている。
けれど、私の心は奇妙なほどに晴れやかで、そして事務的だった。
お腹が空いたわね。
今日の夕食は、仔羊のローストにしましょうか。兄上が食べたがっていた、あの肉を。




