第35話:神を売る男
謁見の間には、場違いな匂いが漂っていた。
それは、ヴィクトールの魔導炉から香る機械油の臭いでも、民衆が焚く安っぽい香辛料の甘い香りでもない。
もっと古臭く、カビと埃、そして長年染み付いた高級な香油が酸化したような、退廃的な「権威」の悪臭だ。
私の目の前の絨毯に、一人の男が額を擦り付けている。
アステリア教会、大司教メルヴィン。
かつては金の刺繍が施された純白の法衣を纏い、王ですら頭を垂れるほどの聖職者だった男。だが今の彼は、薄汚れた灰色の外套を被り、その頬はげっそりと削げ落ちている。
「……お顔を上げてください、大司教猊下」
私は玉座の肘掛けに頬杖をつき、退屈そうに告げた。
指先で遊んでいるのは、彼が「手土産」として持参した、教会の聖遺物――『聖女の涙』と呼ばれる巨大なダイヤモンドだ。
「は、はい……。恐悦至極に存じます、エリーゼ様……」
メルヴィンが顔を上げる。
その瞳は泳ぎ、焦点が定まらない。
彼の視線は、私ではなく、テーブルの上に置かれた焼きたてのパンと、琥珀色のスープに釘付けになっていた。
「お腹が空いているようですね。……どうぞ、召し上がって」
「あ、ありがたき幸せ……!」
大司教は、神への祈りも捧げず、獣のようにパンに飛びついた。
ボロボロと食べカスをこぼし、スープを音を立てて啜る。
その姿に、かつての威厳はない。あるのは、ただの「飢えた老人」としての醜態だけだ。
「……汚らわしい」
私の背後で、リリアナが心底軽蔑したように吐き捨てる。
彼女の手は私の肩に置かれ、その冷たい指先が、汚れたものを見たストレスを中和するように、私の鎖骨をなぞっている。
カチリ、と彼女の腰の剣が鞘の中で鳴った。
「エリーゼ様。この男の首を刎ねて、豚の餌にしてもよろしいでしょうか? ……豚の方が、まだ上品な食事作法を知っています」
「駄目よ、リリアナ。……彼は大事なお客様だもの」
私はダイヤを光にかざし、その輝きの中に、第350回目のループの記憶を見た。
あの時、この男は私を「魔女」として告発し、広場での火あぶりを先導した。私が燃え盛る炎の中で悲鳴を上げている間、彼は最前列で、このダイヤを撫でながら「神の裁きだ」と恍惚とした表情で説教をしていたのだ。
(あの時の炎の熱さ。……皮膚が炭化して剥がれ落ちる音。焦げた自分の肉の臭い)
幻覚の痛みが全身を走る。
私は無意識に自分の二の腕を強く掴んだ。リリアナがそれに気づき、即座に私の手を自分の手で包み込み、痛みを遮断する。
「……さて、猊下。お腹は満たされましたか?」
メルヴィンが皿を舐めるようにして完食したのを見計らい、私は問いかけた。
「は、はい……! まさか、これほど豊かな食事が北の地にあるとは……! まるで天上の楽園です!」
「お世辞はいりません。……それで? わざわざ王都からネズミのように下水道を通ってまで、私に何を売りに来たのですか?」
私が核心を突くと、メルヴィンは口元の汚れを袖で拭い、卑屈な笑みを浮かべた。
「はっ……。単刀直入に申し上げます。……教会は、エリーゼ様を『真の聖女』として認定する用意がございます」
「ほう?」
「現在の王家は腐敗し、神の怒り(飢饉)を招きました。……ですが、エリーゼ様はこの不毛の荒野に緑をもたらし、民を救済しておられる。これぞまさに、神に選ばれし証! ……教会は公式に声明を出し、アステリア王家の廃嫡と、貴女様の新王朝樹立を支持いたします!」
彼は熱弁を振るう。
その言葉は、一見すれば私にとって最大の援護射撃だ。
教会の権威さえあれば、私は「逆賊」から「革命の英雄」へとジョブチェンジできる。
「……なるほど。魅力的な提案ですね」
「でしょう!? その代わり、と言ってはなんですが……教会への食糧援助と、これまでの特権の維持を……」
「――却下します」
私が冷たく遮ると、メルヴィンの笑顔が凍りついた。
「え……?」
「勘違いしないでください。私は『認定』なんて欲しくないの」
私は立ち上がり、玉座の階段をゆっくりと降りた。
コツ、コツ、というヒールの音が、死刑判決のカウントダウンのように響く。
「貴方がたが私を聖女と呼ぼうが、魔女と呼ぼうが、どうでもいい。……民衆はもう、貴方がたの『神』よりも、私の『パン』を信じているもの」
「な、なんてことを……! 神への冒涜だぞ!」
「冒涜? ……いいえ、これは『買収』の話よ」
私は懐から、一枚の羊皮紙を取り出し、彼の目の前に落とした。
それは、第820回目のループで手に入れた、教会の「裏帳簿」の写しだ。
人身売買、免罪符の詐欺販売、そして王家との癒着の証拠が、詳細な日付と共に記されている。
「貴方がたが神の名の下に行ってきた悪事。……これを全て、明日の朝刊として民衆にバラ撒かれたくなければ、私の条件を飲みなさい」
「ひっ……!?」
メルヴィンが紙を拾い上げ、震える手でそれを読む。
顔色が青から白へ、そして土色へと変わっていく。
「じょ、条件とは……」
「教会を解体し、エリュシオンの『広報部』になりなさい」
私は彼を見下ろし、宣告した。
「神の言葉ではなく、私の言葉を伝えなさい。……日曜の礼拝では、聖書の代わりに私の施策の素晴らしさを説き、寄付金は全てエリュシオンの国庫へ納めること」
「そ、そんな……! それでは教会がただの……!」
「ただの集金装置? ……ええ、最初からそうでしょう?」
私が微笑むと、メルヴィンは崩れ落ちた。
彼は理解したのだ。
目の前の少女は、教会の権威など最初から歯牙にもかけていない。神という概念すらも、効率的な統治システムの一部として利用しようとしている悪魔なのだと。
「……承知、いたしました……。我々は、今日より……貴女様の忠実な下僕となります……」
彼は床に額を打ち付け、嗚咽を漏らした。
信仰が死に、ビジネスが生まれた瞬間だった。
「交渉成立ね。……リリアナ、彼にお土産を持たせてあげなさい」
「はい。……腐りかけの野菜と、カビたパンの耳でよろしいですか?」
「十分よ。……彼らにとっては、それすらも神の恵みだもの」
リリアナは無表情で、メルヴィンの背中を蹴り飛ばすようにして退出を促した。
重い扉が閉まる。
再び静寂が戻った謁見の間には、聖遺物のダイヤだけが、虚しく輝きを残していた。
「……つまらないわね」
私はダイヤを指で弾いた。
カキン、と硬質な音が響く。
「もっと足掻くかと思ったのに。……お腹が空くと、人はプライドも信仰も、こんなにあっさりと売り渡すのね」
私は窓の外、鉛色の空の下で沈黙する王都の方角を見つめた。
王家は孤立し、教会は堕ちた。
外堀はすべて埋まった。
あとは、本丸に火を放つだけだ。
「……エリーゼ様。お疲れのようですね」
リリアナが背後から抱きついてくる。
彼女の手が、強張った私の肩を優しく揉みほぐす。
「少し、休憩なさいませ。……このダイヤを砕いて、砂時計でも作りましょうか? 貴女の退屈な時間を計るために」
「そうね。……そうしましょうか」
私は目を閉じた。
復讐の味がしない。
かつてあれほど憎かった相手が、勝手に自滅していく様を見るのは、拍子抜けするほど淡白な作業だった。
書類仕事に戻ろう。
明日の配給計画と、新しい広報部の運用マニュアルを作らなければならない。
神を殺した手で、今日も私は事務処理を続けるのだ。




