第34話:飢餓という名の攻城兵器
王都アステリアの空は、鉛を溶かしたような灰色に沈んでいた。
かつて栄華を極めた中央大通りには、今や寒風が吹き荒れ、路肩にはゴミと、力尽きた乞食のようにうずくまる市民たちの姿があった。
彼らの瞳には、もはや怒りすらない。あるのは、今日を生き延びるためのパンが手に入るかどうかという、動物的な切迫感だけだ。
王城、饗応の間。
そこもまた、以前のきらびやかな空気は失われていた。
「……なんだ、これは」
カイル・アステリア王子が、銀のフォークをテーブルに投げ捨てた。
カチャン、という音が、誰もいない広い部屋に虚しく響く。
皿の上に乗っているのは、干からびた黒パンと、具のない薄いスープ、そして少しばかりの塩漬け肉だけだ。
「おい、料理長! 料理長はどこだ! 私は『仔羊のロースト』を持ってこいと言ったはずだぞ!」
カイルの怒号に、初老の執事が震えながら歩み出る。
「も、申し訳ございません、殿下……。市場には、もう仔羊どころか、鶏肉すら出回っておりません。……北方の流通が完全にストップしており、新鮮な肉や小麦は、すべて『北』へ流れてしまっているのです」
「北だと……? あの、魔女の城にか!」
カイルはワイングラスを掴み、壁に投げつけた。
赤い液体が壁紙を汚すが、それは高級ヴィンテージではなく、酢になりかけた安ワインだ。
「おのれ、エリーゼ……! 聖女を奪い、兵を退け、今度は私の食卓まで奪う気か!」
彼は爪を噛んだ。
ギリギリと歯が鳴る。
王都の貯蓄は底をつきかけている。帝国との交易路が断たれ、国内の農村部も「聖女の呪い」を恐れて作物を納品しなくなっているのだ。
「……父上はどうされた?」
「はっ。国王陛下は……自室に籠もられたまま、『薬』の量が増えておられます。……時折、壁に向かって『虫がいる』と叫んでおられるとか……」
「クソッ! どいつもこいつも役に立たん!」
カイルは頭を抱えた。
彼の胃袋は空虚を訴え、頭の中では常に、あの夜会で見た銀髪の妹の冷笑がフラッシュバックしていた。
***
同時刻。エリュシオン、執務室。
こちらのテーブルには、湯気を立てる焼きたての白パン、黄金色のバター、そして厚切りのベーコンエッグが並んでいた。
ヴィクトールが設計した温室プラントで栽培された野菜のサラダは、瑞々しい緑色を輝かせている。
「……王都の様子はどうかしら、ゲパルト」
私は優雅にナイフを動かしながら、魔導通信機の向こう側にいる商人に問いかけた。
『ヒヒッ、最高ですよエリーゼ様。……現在、王都の小麦価格は平時の10倍。市民は雑草を煮て食っております』
ゲパルトの卑しい、しかし弾むような声が響く。
『私が裏で手を回して、主要な穀物問屋を買収しましたからね。「北へ運べば倍で買う」と囁けば、商人は皆、王都を見捨ててこちらへ馬車を向けます』
「結構よ。……でも、完全に餓死させては駄目。生かさず殺さず、じわじわと『不満』という毒を溜め込ませなさい」
私はベーコンを口に運んだ。
脂の甘みが広がる。
かつて第700回目のループで、私が地下牢で腐った水を啜っていた時、カイル兄上たちはこうして美食を貪っていたのだろうか。
「……エリーゼ様。そんな回りくどいことをせずとも、私が一晩で王城の人間を全員斬り殺してきましょうか?」
私の背後で、給仕をしていたリリアナが不満げに口を尖らせる。
彼女は私の食べ残し――パンの耳の部分を、まるで聖遺物でも扱うかのようにそっと自分の口に入れ、咀嚼した。
「駄目よ、リリアナ。……人はね、剣で殺されると『被害者』になるけれど、飢えで苦しむと『暴徒』になるの」
私はフォークを置いた。
「私が欲しいのは、アステリア王国の滅亡ではないわ。……彼らが自らの手で王を引きずり下ろし、私に『統治してください』と泣きついてくる未来よ」
「……性格がお悪い。ですが、そこが堪らなく愛おしいです」
リリアナは私の首筋に顔を寄せ、猫のように喉を鳴らした。
彼女にとって、私の冷酷さはスパイスのようなものらしい。
そこへ、通信機からゲパルトがさらに報告を続ける。
『あ、そうそう。……例の「ビラ」の効果も絶大ですぜ。「北の楽園エリュシオンでは、毎日肉が食べられる」「聖女様が病を治してくれる」……この噂を流した途端、夜逃げする市民が後を絶ちません』
「でしょうね。……ヴィクトールに命じて、国境付近に『受け入れキャンプ』を作らせてあるわ。そこで温かいスープを一杯振る舞いなさい」
『へいへい。……たった一杯のスープで、彼らは一生、エリーゼ様の奴隷になりますねぇ』
私は窓の外を見下ろした。
城門の前には、今日も長蛇の列ができている。
王都から逃れてきた難民たちだ。彼らはボロボロの服を纏いながらも、その目には希望の光――というよりは、宗教的な陶酔の色を浮かべている。
彼らは知らない。
この楽園が、王都から搾取した資源と、ヴィクトールの非人道的な実験、そして私の1,000回の死体の上に成り立っていることを。
「……エリーゼ様、お客様です」
ヴォルフが入室し、恭しく告げた。
「誰かしら? ……帝国の使いなら、もうお茶請けはないわよ」
「いえ。……王都からです。アステリア教会の司祭が、極秘裏に面会を求めております」
私は眉を上げた。
教会。
かつて私を「魔女」と断定し、ルミアを道具として扱った神の代行者たち。
船が沈む前に、ネズミがいち早く逃げ出してきたようだ。
「……通しなさい。ただし、身体検査は念入りにね。服の中に爆弾を隠しているかもしれないから」
「御意」
ヴォルフが下がると、リリアナが嬉しそうにアイリスの柄を撫でた。
「司祭ですか。……神の教えを説く舌が、どれほど赤いのか興味があります」
「殺しては駄目よ、リリアナ。……まだ、ね」
私は椅子に深く座り直し、新しい紅茶をリクエストした。
王家は孤立した。
民は離れた。
そして今、最後の砦である宗教権威までもが、私に膝を屈しようとしている。
チェックメイトは近い。
だが、まだキングを倒すには早い。
もっと、もっと熟成させなければ。
絶望という果実が、地面に落ちて腐るその瞬間まで。
「……さて。どんな命乞いを聞かせてくれるのかしら」
私は冷めた目で、扉が開くのを待った。
心臓の鼓動は平坦だ。
これは復讐劇のクライマックスではない。
ただの、事務的な「買収交渉」に過ぎないのだから。




