第33話:毒という名の甘露
夜明け前の城砦には、二つの相反する匂いが立ち込めていた。
一つは、ヴィクトールが調整した魔導炉から漏れ出る、重く粘り気のある機械油と焦げたオゾンの匂い。そしてもう一つは、城下の広場で寝食を共にする民衆たちが、夜通し焚き続けている安価な香料の、鼻を突くような甘い匂いだ。
その二つが混ざり合い、荒野の冷気に冷やされると、まるで腐りかけの果実のような、奇妙に官能的な芳香となって私の執務室まで這い上がってくる。
私は窓を開け、肺の奥までその空気を吸い込んだ。
肺胞がチリリと痛む。
1,000回分の死の記憶の中で、私はこれほどまでに「生」が密集した匂いを知らなかった。これまでのループにおける民衆は、常に恐怖に顔を歪め、略奪から逃げ惑うだけの、無機質な群れでしかなかったからだ。
「……エリーゼ様。窓を閉めてください。貴女の白い肌に、下賤な者たちの吐息が触れるのは耐え難い」
背後から、低く、湿り気を帯びた声が届く。
振り返るよりも早く、私の腰に細い、けれど鋼のように強靭な腕が回された。リリアナだ。彼女は私の背中に胸を押し当て、深い溜息を吐く。その熱い呼気が、私の薄い寝間着越しに肩甲骨のあたりを濡らした。
「リリアナ、少し離れなさい。……暑いわ」
「お断りします。……貴女の体温が、朝の冷気に奪われていく。私が補わなければ、貴女はまた、あの冷たい断頭台の感触を思い出してしまう」
リリアナは私の首筋に鼻先を埋め、深く、深く呼吸を繰り返した。
彼女の指が、私の右手の指の間に割り込んでくる。
恋人同士のように指を絡めるのではない。彼女は自分の指先を私の指の股に強く食い込ませ、互いの血流が一つに混ざり合うのを確かめるように、執拗に力を込めた。
痛み。
けれど、その鈍い痛みこそが、私の脳内にこびりついた「1,000回分の死」の冷たさを一時的に麻痺させてくれる唯一の麻酔だ。
「……貴女は相変わらず、重いのね」
「重力です。貴女をこの地上に繋ぎ止めるための」
私たちは数分間、互いの体温と鼓動を確認し合った後、ようやく離れた。
日常の儀式。これを行わなければ、リリアナの精神は不安定になり、城内の誰かを斬り殺しかねない。
***
身支度を整え、私は城の中庭――現在は「青空教室」として解放されている場所へ向かった。
そこには、数百人の子供たちが整列し、ヴィクトールの講義を受けていた。
「――いいか、クソガキども。この魔導式は『覚える』んじゃない。『体に刻め』。……エリーゼ様が下さったこの温かい水も、光も、全てはこの式によって成り立っている」
ヴィクトールが、自身の腐りかけた腕で黒板(ただの黒い岩)を叩く。
子供たちの目は真剣そのものだ。
王都ではスラムのゴミとして扱われていた彼らにとって、知識を得ることは、人間としての尊厳を取り戻すことに等しい。
「先生、質問です!」
一人の少女が手を挙げる。
「なぜ、王都の人たちは私たちを捨てたのですか?」
ヴィクトールが答える前に、私は背後から声をかけた。
「それはね、彼らが『見えない人たち』だからよ」
「あ……! エリーゼ様!」
「魔女様だ!」
子供たちが一斉に振り返り、歓声を上げて駆け寄ろうとする。
だが、私の両脇に控えるリリアナとルミアが放つ不可視の圧力によって、彼らは半径3メートル手前でピタリと足を止めた。
近寄りたい。でも、近寄れば死ぬ。その本能的な学習が、既に完了しているのだ。
「王都の貴族たちは、自分たち以外は人間だと思っていないの。……だから、貴方たちが寒さに震えていても、お腹を空かせていても、それは『風景』にしか見えなかった」
私は少女の目を見つめ、優しく微笑んだ。
「でも、私は違う。……貴方たちは私の大切な『資産』よ。磨けば光る、優秀な歯車だわ」
「は、はい……! 私、頑張ります! 貴女様のために、立派な歯車になります!」
少女が頬を紅潮させ、涙ぐみながら叫ぶ。
周囲の子供たちも、「僕も!」「私も!」と口々に忠誠を誓う。
洗脳。
そう呼ぶ者もいるだろう。
だが、彼らにとっては、誰かに必要とされることこそが最大の幸福なのだ。私が与えているのは、パンとスープ、そして「生きる意味」という名の猛毒だ。
「……エリーゼ様。侵入者です」
不意に、獣人ヴォルフが音もなく現れ、私の耳元で囁いた。
「難民に紛れて、ネズミが一匹。……『貴族の匂い』がします」
「あら。……丁度いいわ。子供たちの教材にしましょう」
***
広場の中央に引きずり出されたのは、ボロ布を纏った中年の女性だった。
泥と垢に塗れているが、その手だけは白く、労働の痕跡がない。
彼女は私を見るなり、顔を歪めて叫んだ。
「ひ、人違いです! 私はただの行商人で……!」
「嘘ね。……マダム・ルージュ」
私が名を呼ぶと、女の喉が引きつった。
彼女はかつて、王城で私の家庭教師をしていた貴族の未亡人だ。
第12回目のループ。彼女は「礼儀作法がなっていない」と言って、私の指を定規で叩き折り、第30回目のループでは、カイル兄上に私の逃走ルートを密告して金貨を得た。
「お、お前……エリーゼ王女……!?」
「久しぶりね、先生。……私の指の形は、綺麗になったかしら?」
私が右手を差し出すと、マダム・ルージュは恐怖で腰を抜かした。
彼女の記憶にはないはずだ。だが、私の瞳の奥にある「断罪」の色を見て、本能が危険を察知したのだろう。
「た、助けて……! 金ならある! 王都の情報をやる! だから……!」
彼女は地面に額を擦り付けた。
かつて私を見下し、嘲笑っていた女が、今は泥水を啜って命乞いをしている。
私は振り返り、子供たちに問いかけた。
「見てごらんなさい。……これが、王都の貴族よ。自分たちが危なくなると、平気で誇りを捨て、仲間を売る」
子供たちの目に、軽蔑と怒りの色が宿る。
彼らの多くは、貴族の気まぐれで親を殺され、家を焼かれた経験を持つ。
「殺せ! 裏切り者を殺せ!」
「魔女様を侮辱するな!」
誰かが石を投げた。
それを合図に、広場の民衆が一斉に石やゴミを投げつけ始めた。
「ぎゃあっ! やめ、やめてぇッ!」
マダム・ルージュの悲鳴が、熱狂的な罵声にかき消されていく。
私はそれを止めない。
これは「ガス抜き」であり、共同体の結束を高めるための儀式だ。
共通の敵を作り、それを全員で罰することで、彼らは「自分たちは正義の側にいる」という強烈な連帯感を得る。
「……リリアナ」
「はい」
「あまり汚さないでね。……ヴィクトールが『実験体が欲しい』と言っていたから」
「御意。……手足の骨を砕いて、梱包しておきます」
リリアナが剣の峰で、マダム・ルージュのうなじを軽く叩いた。
彼女は糸が切れたように気絶し、ヴォルフたちによって地下の研究室へと運ばれていった。
民衆から「おおっ!」と歓声が上がり、私への称賛の拍手が巻き起こる。
私は日傘を回し、その熱狂から背を向けた。
「……気味が悪いですか? エリーゼ様」
執務室への帰り道、リリアナが小声で尋ねてくる。
「いいえ。……効率的だと思っただけよ」
恐怖で縛れば反発を生む。
だが、愛と正義で縛れば、彼らは喜んで命を投げ出す。
アステリア王国の父上たちは、この簡単な人心掌握術を知らなかった。だから滅びたのだ。
「さあ、戻りましょう。……お昼のメニューを決める方が、あんな女の処遇よりも重要だわ」
私は空を見上げた。
今日もいい天気だ。
エリュシオンの空は、どこまでも高く、そして嘘のように澄み渡っていた。




