第31話:腐敗の魔導師と潔癖の城
氷の狼が去った後の城砦には、再び荒野の乾いた静寂が戻っていた。
だが、それは以前の静けさとは質が異なる。
帝国軍という巨大な脅威を退けたことで、城内の空気は弛緩するどころか、むしろ「次はどう動くのか」という熱気を帯びた緊張感に包まれていた。
執務室。
私は山積みの書類――物資の在庫リストと、今後の防衛計画書――に目を通しながら、眉間を揉んだ。
「……足りないわね」
「何がです? エリーゼ様。……愛なら、私がこの身を焦がすほど捧げておりますが」
傍らで、私の髪を梳かしていたリリアナが、即座に反応する。
彼女の指先は、髪の一本一本を確認するように繊細に動き、時折、私の首筋に触れて脈拍を確かめている。
それは美容師の所作ではない。自分の所有物に傷がないかを点検する、管理者の手つきだ。
「愛は十分よ、胃もたれするほどに。……足りないのは『脳みそ』よ」
私はペンを置いた。
「ルミアは大量破壊兵器としては優秀だけど、繊細な魔道具の調整や、城のインフラ整備には向かない。……エルフのセリアたちは自然魔法が専門で、工業的な魔導工学はからっきし」
「ヴォルフたち獣人は、文字を読むと頭痛がすると言っています」
「でしょうね。……このままじゃ、私たちの国は『力持ちの原始人』の集まりになってしまうわ」
『赤竜の心臓』という無限の動力源があっても、それを変換・運用するシステムエンジニアがいなければ宝の持ち腐れだ。
私は記憶の糸を手繰り寄せる。
第215回目のループ。帝国の猛攻を、たった一人で作った結界で3日間食い止めた男がいた。
「迎えに行くわよ、リリアナ。……この近くの『腐肉の洞窟』に、最高の人材が捨てられているはずだわ」
「……また、拾い物ですか。私の主様は、ゴミ拾いが趣味になられたようで」
リリアナは不満げに鼻を鳴らしたが、私の命令に逆らうことはない。
彼女は私の髪に恭しく口づけを落とすと、愛剣アイリスを手に取った。
***
城砦から西へ数キロ。
硫黄と腐敗臭が漂う、岩場の洞窟。
そこは、魔獣の死骸捨て場であり、同時に王都を追放された「重罪人」が逃げ込む最果ての地でもあった。
「……臭いますね。鼻が曲がりそうです」
リリアナがハンカチで鼻を覆い、露骨に嫌悪感を露わにする。
洞窟の奥、暗闇の中に、ボロ布を纏った何かがうずくまっていた。
「誰だ……? 死神か、それとも借金取りか……?」
枯れ木のような声。
男が顔を上げる。その顔の半分は、病的な紫色に変色し、皮膚が爛れ落ちていた。
ヴィクトール。
かつて王立アカデミーで主席を取りながら、禁忌の「死霊魔術」に手を染め、自らの体に呪いを刻んで追放された天才魔導師。
「久しぶりね、ヴィクトール。……いえ、この世界では初めまして、かしら」
私は日傘を差し、汚泥に汚れないよう注意深く足場を選びながら近づいた。
「ひっ、ひひ……。美しいお嬢さんだ。……俺の肉でも食いに来たのか? 生憎だが、俺の体は呪いで腐ってる。食ったら腹を壊すぜ」
ヴィクトールは自虐的に笑い、崩れかけた指先で魔法陣を描こうとする。
だが、その魔力はあまりにも微弱で、蛍火のように儚い。
「貴方の肉なんていらないわ。……私が欲しいのは、その腐りかけた頭の中にある知識よ」
「知識……? ハッ、いまさら俺の研究が何の役に立つ。……王都の連中は、俺を『汚らわしい』と石を投げたぞ」
「王都の連中は馬鹿だから、使い方がわからなかっただけよ」
私は彼の目の前に立ち、懐から『赤竜の心臓』の欠片(エネルギー結晶)を取り出した。
洞窟の闇が、赤い光で照らされる。
ヴィクトールの濁った瞳が、強烈な魔力の光を受けて見開かれた。
「そ、それは……純度100%の竜魔石……!? 馬鹿な、そんな国宝級の代物がなぜ……」
「貴方の呪い――『魔力欠乏性壊死』。……常に外部から魔力を摂取し続けないと、自身の肉体が腐り落ちる病」
私が指摘すると、彼は息を呑んだ。
「なぜ、それを……」
「治すことはできないけれど、進行を止めることはできるわ。……私の城に来なさい。そうすれば、この魔石を『点滴』代わりに使い放題にしてあげる」
それは、餓死寸前の人間に、永遠に湧き出る泉を見せるようなものだ。
研究者としての渇望と、生存本能。
ヴィクトールの喉がゴクリと鳴る。
「……条件はなんだ。魂でも売れと言うのか?」
「いいえ。魂なんてあやふやなものはいらない」
私は冷徹に告げる。
「貴方の『技術』をエリュシオンのために使いなさい。……城の結界維持、魔導具の開発、そして敵を殺すためのトラップ作成。休む暇なんて与えないわ」
「こき使うってわけか。……クク、悪くない。どうせここで腐って死ぬだけの命だ」
ヴィクトールはよろめきながら立ち上がり、私の前に跪いた。
その体から放たれる腐敗臭に、リリアナが剣の柄に手をかける。
「近づくな、汚物。……その息が主様にかかったら、首を切り落として消毒するぞ」
「ひーッ、怖い怖い。……美人は気が強いねぇ」
ヴィクトールはおどけて見せたが、その目は笑っていなかった。
彼は理解したのだ。
目の前の銀髪の少女が、自分を「人間」としてではなく、有用な「部品」として評価していることを。そして、それが彼にとって、どんな同情よりも救いになることを。
「契約成立ね。……リリアナ、彼を運びなさい。歩かせたら日が暮れるわ」
「……私が、これを、ですか? 背負うのですか?」
リリアナが絶望的な表情で私を見る。
帝国の騎士団5,000人を前にしても眉一つ動かさなかった彼女が、たった一人の薄汚い男を前に、この世の終わりのような顔をしている。
「仕方ないでしょう。ヴォルフたちは鼻が利くから、ここには近づけないもの」
「……承知いたしました。帰ったら、私を全身洗浄してくださいね。……ブラシで、皮が剥けるくらいゴシゴシと」
リリアナは死んだ魚のような目で、嫌々ながらヴィクトールの襟首を掴んだ。
まるで汚れた雑巾をつまむように。
「お、おい! 引きずらないでくれ! 腕が取れる! 本当に取れるから!」
「うるさい。取れたらで縫っとけ」
***
こうして、エリュシオンに新たな頭脳が加わった。
城に戻った後、ヴィクトールはヴォルフたちによって強制的に風呂場へ放り込まれ、デッキブラシで洗われる悲鳴が城内に響き渡ることになった。
私は執務室の窓から、夕日に染まる荒野を眺める。
武力、労働力(獣人・エルフ)、物流、そして技術。
国としての骨格は整った。
「……さて。次は内政ね」
私は手元の書類――帝国の法律書と、アステリアの憲法書の写し――を重ねた。
どちらも不完全だ。
私が作るのは、恐怖で支配しつつも、誰もが依存せずにはいられない、完璧な管理社会。
お風呂上がりのリリアナが、濡れた髪のまま執務室に入ってくる気配がした。
石鹸の香りが、微かに残っていた腐敗臭を上書きしていく。
私の平穏な夜は、まだもう少しだけ続きそうだった。




