第30話:氷狼とのティータイム
城砦の中庭にある、薔薇のテラス。
普段は私とリリアナ、そしてたまにルミアがお茶を楽しむための私的な空間に、異質な重力が鎮座していた。
ミシミシ、とラタン製の椅子が悲鳴を上げている。
座っているのは、身の丈2メートル近い巨躯を持つ男。ヴォルガ帝国皇帝、ヴァレリウスだ。
彼は軍服の襟を寛げ、まるで自分の城であるかのようにふんぞり返り、私の淹れた紅茶の香りを無遠慮に嗅いでいる。
「……毒は入っていないぞ、陛下」
私が対面の席につき、自分のカップに砂糖を落としながら言う。
「ほう。それは残念だ。貴様が盛る毒なら、さぞ甘美な味がしただろうに」
ヴァレリウスは口角を歪め、琥珀色の液体を一息に煽った。
熱さを感じていないのか、あるいは喉の皮膚さえも鋼鉄でできているのか。
空になったカップを乱暴に置く音が、静寂を切り裂く。
「おかわりだ」
「……リリアナ」
私が目配せをすると、私の背後に控えていたリリアナが、彫像のように動かないまま低い唸り声を上げた。
彼女の手は腰の剣に置かれたままだ。
彼女にとって、ヴァレリウスの首を飛ばすこと以外のアクションは、全て時間の無駄であり屈辱なのだ。
「淹れて差し上げなさい。……お客様の喉が渇いているようだから」
「……御意」
リリアナは能面のような無表情でポットを手に取り、ヴァレリウスのカップへ注いだ。
その角度、速度、湯気の立ち昇り方。全てが完璧な執事の所作だが、そこから発せられる殺気だけで小鳥ならショック死するレベルだ。
「いい番犬だ。……だが、飼い主の躾が甘いのではないか? 今にも喉笛に噛みつきたそうだが」
ヴァレリウスがリリアナを一瞥し、嘲笑う。
「犬ではありません。……私の『騎士』です」
私は静かに訂正した。
「それに、彼女が噛みつかないのは躾のせいではありません。……貴方の血で、このテラスの薔薇を汚したくないという、私の美意識の問題です」
「クク……言うようになった」
ヴァレリウスは頬杖をつき、蒼い瞳で私を品定めするように見つめた。
その視線は、衣服を通り越し、肉体も通り越し、私の魂の形――1,000回の傷跡で継ぎ接ぎだらけになった精神構造を暴こうとしているようだ。
「単刀直入に言おう、エリーゼ。……余の女になれ」
彼は懐から、一枚の羊皮紙を取り出し、テーブルに放った。
それは帝国の公印が押された婚姻届……ではなく、領土譲渡の契約書だった。
「貴様がこの城で遊んでいる『おままごと』は認めてやる。……だが、エリュシオンとか言ったか? その国を帝国の一部(属州)とし、貴様が余の管理下に入るなら、アステリア王国を滅ぼす手伝いをしてやってもいい」
傲慢。
彼は私に対等な同盟ではなく、あくまで「所有物」としての服従を求めている。
第900回目のループと同じだ。彼は美しいものを愛するが、それは籠の中の鳥として愛でるという意味でしかない。
「お断りします」
私は即答し、クッキーを齧った。
サクサクという乾いた音が、拒絶の響きとなる。
「私は誰の下にもつきません。……アステリアは自分の手で壊しましたし、この国は私のもの。貴方にくれてやる土地は、植木鉢一つ分もありませんわ」
「強情だな。……余の軍勢5,000が見えないのか? この城壁など、半日あれば瓦礫の山だぞ」
「やってご覧なさい。……その代わり、貴方の国には『冬』しか来なくなりますよ」
私が微笑むと、ヴァレリウスの目がわずかに細められた。
「……どういう意味だ?」
「貴方の国の食料自給率は20%以下。残りは周辺国からの輸入と略奪で賄っている。……もし私が、物流ギルドを裏で操り、帝国への穀物輸出を完全にストップさせたら? さらに、帝都の地下水脈に、エルフの毒魔法で永続的な汚染を広げたら?」
私は指を一本ずつ折りながら、帝国の急所(アキレス腱)を列挙していく。
第600回、720回、850回……。
何度も帝国と戦い、何度も負けたからこそ、私はこの国の血管の位置を全て把握している。
「貴方は強い。……でも、貴方の国は脆い。戦争で勝っても、飢えで自滅する」
ヴァレリウスの表情から、笑みが消えた。
代わりに浮かんだのは、猛獣が同格の敵を認識した時の、冷徹な計算の色だ。
「……貴様、なぜ帝国の台所事情を知っている? それは最重要機密のはずだが」
「さあ? ……夢の中で見たのかしら」
私はとぼけて紅茶を飲む。
沈黙が落ちる。
リリアナが剣の鯉口を切る音が、微かに響く。
一触即発。皇帝が手を動かせば、次の瞬間には血の雨が降る。
だが、ヴァレリウスは動かなかった。
数秒の睨み合いの後、彼は再び楽しそうに喉を鳴らしたのだ。
「ハハハハハッ! 気に入った! 実に気に入ったぞ、毒婦め!」
彼はテーブルを叩き、身を乗り出した。
「余の国を人質に取るか。……いいだろう。ただの愛玩動物かと思っていたが、どうやら貴様は、余と同じ『捕食者』の側のようだな」
彼は契約書を掴み、握りつぶした。
「属州の話は無しだ。……同盟を結ぼう、エリュシオン女王」
「同盟、ですか?」
「ああ。対等なパートナーとしてだ。……その代わり、条件がある」
ヴァレリウスは立ち上がり、私の顔を覗き込んだ。
その顔は、獲物を追い詰める狼そのものだった。
「共に大陸を獲る。……そして全てが終わった時、余と一騎打ちをして、勝った方が負けた方を好きにする。……どうだ?」
世界を賭けた決闘の約束。
それはプロポーズよりも重く、そして私たちのような壊れた人間には、どんな愛の言葉よりも魅力的に響く提案だった。
「……いいでしょう。受けて立ちます」
私は立ち上がり、彼が差し出した分厚い掌を握り返した。
万力のような握力。
骨が軋む音がするが、私は眉一つ動かさずに微笑み返す。
「商談成立ね。……それでは、お帰りください。貴方の軍勢が邪魔で、日当たりが悪いのよ」
「フン。……精々、余が喰らうまで肥えておけよ」
ヴァレリウスはマントを翻し、一度も振り返ることなく城門へと歩き去っていった。
嵐が去った後のような、奇妙な虚脱感がテラスに残る。
「……殺すべきでした」
リリアナが、抜いていない剣の柄を握りしめたまま、憎々しげに呟く。
「あの男、貴女を見る目が……まるで自分の肉を眺めるような……。ああ、思い出すだけで吐き気がします」
「我慢してくれてありがとう、リリアナ」
私は椅子に座り直し、新しい紅茶をカップに注いだ。
手は震えていない。
恐怖はあった。だが、それ以上に「計算通り」に進んだ安堵が勝っている。
「これで、帝国軍は私たちの盾になった。……アステリアの残党も、教会も、うかつには手出しできなくなるわ」
「盾、ですか。……いつか背中から刺してきそうですが」
「その時は、貴女が斬ればいいわ。……私の背中は、貴女に預けているのだから」
私がそう言うと、リリアナはようやく表情を緩め、私の足元に跪いた。
そして、私の膝に顔を埋め、深呼吸をする。
私の匂いを上書きして、皇帝の気配を消そうとしているのだ。
「……さて。お茶菓子がなくなってしまったわね」
私は空になった皿を見て、小さく肩をすくめた。
世界を動かす同盟を結んだというのに、私の頭の中にあるのは、夕食のメニューと、これからの面倒な書類仕事のことだけ。
所詮、歴史の転換点なんて、こんなものなのだろう。
私は温くなった紅茶を飲み干し、午後の業務へと頭を切り替えた。




