第29話:鉄の波涛と銀の防波堤
ティーカップの底で、褐色の水面がさざ波を立て続けていた。
それは風のせいではない。
大地そのものが、巨大な生物の心臓のように、低く、重く、不快なリズムで脈動しているからだ。
ズズズ、ズズズ、と腹に響く振動。
城砦のテラスに座る私の肌を、北風に乗った微細な砂粒と、鉄錆の臭いが撫でていく。
「……五月蝿いですね。虫の羽音にしては、少し耳障りが過ぎます」
私の背後で、リリアナが心底不愉快そうに呟いた。
彼女は私の椅子に背後から覆いかぶさるようにして、その細い腕を私の首筋に回している。
彼女の体温は平熱よりも少し高い。だが、その指先だけは、これから屠るべき獲物を前にして冷え切っていた。
眼下を見下ろす。
荒野の地平線が、黒く塗り潰されていた。
ヴォルガ帝国軍、第一機甲師団。
総勢5,000名。
彼らはアステリア王国の騎士のように、個々の武勇を誇るために派手な羽根飾りをつけたりはしない。全員が規格統一された無骨な黒鉄の鎧を纏い、無言で、同じ歩幅で進軍してくる。
それは軍隊というより、一つの意思で動く黒い津波だった。
「あら。整列の美しさだけなら、父上の騎士団より上ね。……あそこまで個性を殺して並ぶのは、並大抵の訓練じゃないわ」
私はあえて呑気な感想を口にし、冷めかけた紅茶を一口含んだ。
舌の上に広がる渋み。
その味は、かつて第600回目のループで、帝国の捕虜収容所で飲まされた泥水の記憶を微かに呼び起こした。
(あの時は、爪を全部剥がされたんだったかしら。……尋問官の顔は忘れてしまったけれど、あの寒さだけは覚えているわ)
過去の痛みが、幻肢痛となって右手の小指を走る。
私は無意識にカップを持つ手に力を込めた。
「エリーゼ様? ……震えていらっしゃいますか?」
リリアナが敏感に反応し、私の耳元に唇を寄せた。
彼女の菫色の瞳が、爬虫類のように縦に収縮する。
「あいつらの足音が、貴女を不快にさせているのなら……私が今すぐ、あの全部の足首を切り落としてきましょうか。這って進む静かな芋虫に変えて差し上げます」
彼女は本気だ。
腰の愛剣アイリスが、鞘の中でカタカタと渇いた音を立てて鳴いている。
リリアナにとって、私の平穏を乱すものは全て「排除すべきノイズ」でしかない。例えそれが、大陸最強と謳われる帝国軍であっても。
「待ちなさい、狂犬さん。……まだ噛みつく時間じゃないわ」
私は彼女の頭を、背後へ手を回して撫でた。
硬直していた彼女の筋肉が、瞬時に弛緩する。
「見て。……あの中央にいる男を」
私の視線の先。
黒一色の軍勢の中で、一点だけ、雪原のように鮮烈な「白」があった。
巨大な黒馬に跨り、兜も被らず、銀髪を荒野の風に晒して悠然と進む男。
皇帝、ヴァレリウス・ヴォルガ。
距離にして500メートル。
普通なら表情など見えない距離だ。
だが、私の目は捉えていた。彼が、まるで獲物を見つけた肉食獣のように口角を上げ、真っ直ぐにこのテラスを見上げているのを。
「……目が合いましたね」
リリアナの声が、絶対零度まで下がる。
「不敬な眼差しだ。……あの眼球をくり抜いて、ホルマリン漬けにしてやりたい」
「相変わらず、自信過剰な男ね。……『王が動かねば、部下はついてこない』。それが彼の美学であり、最大の弱点」
私は立ち上がり、テラスの手すりへと歩み寄った。
風が強まる。ドレスの裾が激しく煽られ、バタバタと音を立てる。
軍勢が、城砦の射程圏内に入った。
本来なら、ここでエルフたちの魔法が一斉射撃されるはずだ。
だが、私は攻撃命令を出していない。
代わりに、塔の上に座らせていた「最終兵器」に合図を送る。
「ルミア。……お客様よ。玄関に『チェーン』をかけて」
塔の頂上。
足をぶらつかせ、退屈そうに空を眺めていた元・聖女が、私の声に反応して振り返った。
「はーい、お姉様。……壊しちゃだめなの?」
「ええ。まだお話があるの。……近づけないように、線を引くだけにして」
「うん、わかった」
ルミアが、手にした巨大な水晶杖を、指揮棒のように軽く振った。
詠唱はない。
魔方陣の展開もない。
ただ、世界の一部を書き換えるような、理不尽なまでの魔力の奔流。
ズドオオオオオオオオッ!!
城砦と帝国軍の中間地点。
荒野の大地が、悲鳴を上げて一直線に裂けた。
そこから噴出したのはマグマではない。黄金色の、極めて高密度な光の壁だ。
高さ20メートル、幅1キロメートルに及ぶ光の断絶。
聖魔法『天上の城壁』。
進軍していた帝国軍の先頭集団が、慌てて手綱を引き、馬を急停止させる。
いななき、怒号、そして動揺。
一歩間違えれば蒸発していたという恐怖が、鉄の規律を乱していく。
「……ほう」
だが、ヴァレリウスだけは止まらなかった。
彼は馬をゆっくりと歩かせ、光の壁のわずか数メートル手前で停止させた。
その熱量で前髪が焦げても、彼は瞬き一つしない。
「――ようこそ、北の皇帝陛下」
私は拡声魔法を使い、声を戦場全体に響かせた。
あえて、優雅に、社交界で挨拶をするようなトーンで。
「随分と大人数でのご訪問ですね。……生憎ですが、当城には5,000名様分の茶器の用意がございません」
静まり返る戦場に、私の声だけが反響する。
帝国の騎士たちが、侮辱されたと感じて色めき立つ。
だが、ヴァレリウスは馬上で肩を揺らし、愉快そうに喉を鳴らした。
「クク……。茶器がないなら、貴様の血を啜らせてもらうつもりだったが」
彼の低い声が、風魔法に乗って返ってくる。
「いい度胸だ、エリーゼ。……余の軍勢を前にして、城門を開けるどころか、結界で道を塞ぐとはな。……これが、余への求愛の返答か?」
「求愛? ……とんだ勘違いですね」
私は扇子を開き、口元を隠した。
「これは『検疫』です。……貴方たちは武器という病原菌を持っている。私の庭に入りたければ、その鉄屑を全て捨てて、裸で這ってきなさい」
挑発。
いや、これは事実上の「服従要求」だ。
皇帝に対して武装解除を迫るなど、宣戦布告以上の暴挙。
リリアナが「よく言った」とばかりに、私の腰に回した腕に力を込める。
「武装解除、か。……クハハハハッ! 面白い!」
ヴァレリウスが哄笑した。
そして、信じられない行動に出る。
彼は馬から飛び降りると、腰に帯びていた愛剣を外し、無造作に地面へ放り投げたのだ。
ガシャン、と重い金属音が響く。
「へ、陛下!? 正気ですか!」
側近が叫ぶのを無視し、彼はマントを脱ぎ捨て、漆黒の鎧の留め具を次々と外していく。
肩当てが落ち、胸当てが落ち、籠手が砂に埋もれる。
「武器も、防具も捨てたぞ。……これで満足か、魔女殿?」
身軽な軍服姿となった皇帝は、両手を広げて私に見せつけた。
無防備。
物理的にはそうだ。
だが、その身から放たれる圧倒的な「王気」は、鎧を着ていた時よりも濃密になっていた。
「余は一人で行く。……貴様らも、余の許可なく剣を抜くな」
彼は光の壁に向かって歩き出した。
そして、あろうことか、素手でその光の壁に触れたのだ。
ジジジッ、バチチチッ!!
肉が焼ける音。
だが、彼は顔色一つ変えず、魔力を一点に集中させて結界を**こじ開け**始めた。
ルミアの聖魔法と、ヴァレリウスの覇気が衝突し、火花が散る。
「待ち焦がれた女に会いに行くのに、邪魔立てする無粋な壁など……こうしてくれるわッ!」
パリィィィィンッ!!
轟音と共に、光の壁に亀裂が走り、ガラス細工のように砕け散った。
力技。
魔法の理屈など無視した、純粋な暴力による突破。
「……あらあら。ルミアちゃんが泣いちゃうわよ?」
私は呆れたように溜息をついた。
野蛮人だ。知ってはいたけれど、ここまで話が通じないとは。
ヴァレリウスは瓦礫と化した光の欠片を踏み砕き、城門の前まで歩いてきた。
そして、テラスにいる私を見上げ、獰猛な笑みを浮かべる。
「待たせたな、エリーゼ。……さあ、降りてこい。お茶の時間だ」
私は扇子をパチンと閉じた。
リリアナを見る。彼女はもう、殺意を隠そうともせず、アイリスを抜き放っていた。
「……やれやれ。玄関のマットを汚さないでくれるといいのだけれど」
私は小さく肩をすくめた。
心臓が早鐘を打っている? まさか。
これは、面倒なクレーム対応に向かう前の、憂鬱な溜息に過ぎない。
「行きましょう、リリアナ。……せっかく淹れた紅茶が、完全に冷え切ってしまう前に片付けるわよ」




