第27話:影を喰らう銀
新国家エリュシオンの夜は、深い静寂に包まれていた。
城壁に刻まれたルーン文字が、呼吸をするように青白く明滅し、荒野の闇を淡く照らしている。
だが、その光が届かない城の裏手――かつて私が秘密の脱出路として使おうとしていた岩場の陰に、四つの影が音もなく滑り込んでいた。
ヴォルガ帝国諜報部隊、『影狼』。
彼らは魔力を完全に遮断する漆黒の外套を纏い、視覚だけでなく、魔導センサーすらも欺く隠密のスペシャリストたちだ。
「……ここが、侵入ポイントだ。情報通り、結界の死角になっている」
リーダーの男が、ハンドサインだけで部下たちに指示を送る。
彼らの足音はしない。風に乗って流れる雪の粒子よりも静かに、城壁のわずかな亀裂を登っていく。
彼らの任務は「偵察」ではない。「暗殺」だ。
皇帝ヴァレリウスは、脅威の芽を摘むことに躊躇いを持たない。
この城の主である「魔女」の首を、夜明けまでに帝都へ持ち帰る。それが彼らに与えられた絶対命令だった。
***
同時刻。城内の回廊。
月明かりだけが差し込む石畳の上を、リリアナは亡霊のように歩いていた。
彼女は眠らない。
エリーゼが眠りについた瞬間から、彼女の神経は城全体へと拡張され、どんな微細な異物も見逃さないセンサーと化すからだ。
「……臭う」
リリアナが足を止め、美しい鼻梁に皺を寄せた。
獣人ヴォルフでさえ気づかないであろう、極薄の殺気。
そして何より、北の国特有の、鉄と油と凍てついた血の臭い。
「私の主が眠る清浄な空気に、ドブネズミの臭いを混ぜるとは……」
彼女の菫色の瞳孔が、爬虫類のように縦に収縮する。
その手には、既に愛剣アイリスが握られていた。鞘から抜く音すら立てずに。
「死んで詫びるだけでは足りない。……その魂ごと、すり潰してあげましょう」
***
影狼たちは、驚くほど容易に城内に侵入した。
警備の獣人たちは鼻を鳴らして眠りこけ、エルフの巡回もザルだ。
やはり、所詮は素人の寄せ集めか。
リーダーは嘲笑を含んだ息を吐き、最上階の主寝室へと続く螺旋階段を指差した。
その時だ。
「――靴を、脱ぎなさい」
頭上から、氷鈴を鳴らすような声が降ってきた。
影狼たちが一斉に見上げる。
螺旋階段の手すりの上に、一人の少女が立っていた。
夜闇を吸い込んだような銀髪。月光を弾く白銀の剣。
重力に逆らうように、つま先だけで手すりの上に立ち、無表情で侵入者たちを見下ろしている。
「……貴方たちの汚れた靴底で、この絨毯を踏むことは許しません」
「チッ、見つかったか! やれ!」
リーダーの判断は速い。
即座に懐から暗器――毒を塗った投げナイフを投擲し、同時に左右の部下が壁を蹴って少女に肉薄する。
完璧な連携。帝国の訓練された殺人術。
だが、リリアナの世界において、彼らの動きは泥沼でもがく亀のように遅かった。
「遅い」
銀光が一閃。
空中のナイフが全て弾き落とされる音が響くよりも早く、左右から襲いかかった二人の部下の首が、物理的にありえない角度へ折れ曲がっていた。
「が、は……ッ!?」
部下たちは悲鳴を上げる暇もなく、糸が切れた人形のように階段を転がり落ちていく。
リリアナは既に、彼らの背後に着地していた。
「な、なんだ今の動きは……!? 魔力強化の予備動作もなしに……!」
リーダーが戦慄する。
魔法による身体強化ではない。これは純粋な筋力と、異常なまでの反射神経による暴力だ。
「貴方たちは、一つ勘違いをしています」
リリアナが、血濡れの剣を振るうことなく、ゆっくりと歩み寄ってくる。
その背後には、まるで幻影のような紅いオーラが揺らめいていた。
「この城の警備がザルなのではありません。……私がいるから、誰も警備をする必要がないのです」
「く、来るな化け物ッ!」
リーダーは腰の大剣を引き抜き、魔力を込めて叩きつけた。
帝国の剛剣術。岩をも砕く一撃。
だが、リリアナはそれを、あろうことか左手の指先だけで受け止めた。
「嘘、だろ……?」
剣の腹を親指と人差し指で摘み、完全に静止させている。
金属がミシミシと悲鳴を上げ、次の瞬間、パキンという音と共に鋼鉄の大剣が砕け散った。
「私の主を殺しに来たのですね? その汚い手で、あの方の寝顔に触れるつもりだったのですね?」
リリアナの顔が近づく。
整いすぎた美貌が、今は地獄の悪鬼よりも恐ろしい形相に歪んでいる。
「許さない。許さない許さない許さない……! 指の一本、髪の一筋、細胞の一つに至るまで、貴方たちの存在すべてが不愉快です!」
「ひ、あ、あぁ……ッ!!」
リーダーは恐怖で腰を抜かし、後ずさる。
帝国の訓練で感情を殺したはずの彼が、生まれて初めて「捕食される恐怖」に支配されていた。
リリアナがアイリスを振り上げる。
それは剣術ではない。ただの処刑だ。
「――そこまでよ、リリアナ」
凛とした声が、殺戮の空気を切り裂いた。
階段の上。
寝間着の上にガウンを羽織り、カンテラを手にした私が立っていた。
「エリーゼ様……!」
リリアナの動きが瞬時に止まる。
鬼の形相は霧散し、叱られた子犬のような表情で私を見上げた。
「も、申し訳ありません! 騒がしくしてしまい、貴女の安眠を妨げてしまいました……! すぐにこのゴミを掃除しますので!」
「いいえ。掃除は後でいいわ。……彼には聞きたいことがあるの」
私は階段を降り、震える影狼のリーダーの前に立った。
私の顔を見た瞬間、彼は驚愕に目を見開いた。
「ま、まさか……起きていたのか? 俺たちの気配を消す魔導具は完璧だったはず……」
「ええ、完璧だったわ。気配はね」
私は彼の顔を覗き込み、冷たく告げた。
「でも、貴方の顔は知っているの。……コードネーム『疾風のガイル』。第404回目のループで、私を毒殺した男」
「な……なぜ、俺の名を……?」
「知っているわよ。貴方が帝国のどの門から入り、どのルートでここへ来るか。そして、失敗した時に奥歯の毒で自害する癖があることもね」
私が指摘した瞬間、ガイルがハッとして口元を動かそうとした。
だが、それより早くリリアナの拳が彼の顎を砕いた。
ゴシャッ。
砕けた歯と毒薬のカプセルが、血と共に床に吐き出される。
「自害の許可など出していませんよ。……主様の質問に答えるまで、貴方には死ぬ権利すらありません」
リリアナが冷酷に告げ、ガイルの髪を掴んで無理やり上向かせた。
「さて、ガイル。……ヴァレリウス皇帝への伝言を頼みたいのだけれど、聞いてくれるかしら?」
私は砕けた顎で呻く彼に、慈悲深く、そして残酷な微笑みを向けた。
「『私は貴方の側室にはならない。……この城が欲しければ、貴方自身が首を差し出しに来なさい』とね」
恐怖と屈辱に塗れたガイルの瞳。
これでいい。
生かして帰すことで、彼は「得体の知れない恐怖」というウイルスを帝国軍に撒き散らすことになる。
「リリアナ、彼を城の外へ放り出して。……他の3つの死体は、ヴォルフたちの朝食にしなさい」
「承知いたしました。……このゴミも朝食にすればよろしいのに」
リリアナは不満げに呟きながらも、ガイルの襟首を掴んで引きずっていく。
静寂が戻った回廊。
私は窓の外、北の空を見上げた。
雪雲の向こうで、氷の皇帝が眉をひそめる顔が目に浮かぶようだ。
(さあ、挨拶は済んだわ。……次は、本格的な戦争の時間よ、ヴァレリウス)
私の1,001回目の復讐劇は、国境を越え、大陸全土を巻き込む大火となろうとしていた。




