第26話:北の氷帝
アステリア王国の北境に隣接する軍事大国、ヴォルガ帝国。
その帝都は、一年中溶けない氷雪に閉ざされている。王都アステリアのような華美な装飾は一切なく、あるのは機能美を突き詰めた鉄と石の建築群、そして吐く息すら凍るような規律だけだ。
帝城「黒鉄の城」、玉座の間。
極寒の空気が支配するその広間に、一人の男の声が重く響いた。
「――ほう。アステリアの豚どもが、自分たちの脂で足を滑らせたか」
玉座に頬杖をつき、報告書に目を通している男。
ヴォルガ帝国皇帝、ヴァレリウス・ヴォルガ。
三十代半ばの壮年でありながら、その髪は雪のように白く、瞳は氷河の底のような蒼色を湛えている。彼こそが、この大陸で最も恐れられる覇王であり、かつてのアステリア戦争を引き起こした張本人だ。
「はっ。現在、王都アステリアは機能不全に陥っております。……原因は、追放された第一王女エリーゼによる、大規模な情報工作かと」
跪く諜報員が、震える声で報告する。
ヴァレリウスは「エリーゼ」という名を聞いても、眉一つ動かさなかった。彼にとって、隣国の姫など外交カードの一枚に過ぎない。
「王女一匹に国を傾けられるとは、グスタフも老いたな。……だが、報告書にある『城砦の要塞化』と『聖女の強奪』。これは看過できん」
ヴァレリウスが指先で玉座の肘掛けを叩く。
カン、カン、という乾いた音が、処刑のカウントダウンのように響く。
「捨てられた王女が、荒野で『国』を名乗ったか。……面白い。ただのヒステリーか、それとも我等の喉元を狙う刃となるか」
彼は立ち上がり、腰に帯びた大剣に手を置いた。
その剣気だけで、広間の温度が数度下がったように錯覚させる。
「『影狼』を放て。……その魔女の首が、我が帝国の礎石にふさわしいか、値踏みしてまいれ」
***
同時刻。新生国家エリュシオン、執務室。
私は窓の外に広がる、鉛色の空を見上げていた。
王都の方角とは逆、北の空だ。そこには、常に不穏な雪雲が垂れ込めている。
「……動き出したわね」
私の呟きに、紅茶を淹れていたリリアナが顔を上げた。
「誰が、ですか? エリーゼ様」
「北の皇帝よ。……王都の騒乱を聞きつけて、ハイエナが餌の匂いを嗅ぎつけたの」
私はデスクに戻り、書きかけの外交資料を指で弾いた。
ヴァレリウス皇帝。
彼はカイル兄上のような無能ではない。冷徹で、合理的で、そして圧倒的な武力を持つ「本物の支配者」だ。
(第900回目のループ。私は彼を暗殺するために、3年かけて帝国の後宮に潜入した。……あと一歩、毒入りのワインを飲ませる瞬間に、雷が落ちて失敗したけれど)
あの時の彼の眼光を覚えている。
死の直前まで、彼は私を「女」としてではなく、「敵」として対等に見ていた。アステリア王国の豚たちとは、生物としての格が違う。
「……帝国の皇帝。あの、目つきの悪い氷男ですか」
リリアナが極めて不愉快そうに、淹れたての紅茶を置いた。
カップからは、彼女の殺気とは対照的な、甘い湯気が立ち上っている [cite: 181]。
「前回の世界で、彼が貴女に『側室になれ』と言ったこと……私は忘れていません。あの舌を引き抜いて、犬の餌にすべきでした」
リリアナの手が、私の肩に置かれる。
その指先は氷のように冷たいが、触れている一点だけが火傷しそうなほど熱い [cite: 133]。
「心配しないで、リリアナ。……今回は側室になんてならないわ。彼には『貢ぎ物』になってもらう」
私は彼女の手の上に、自分の手を重ねた。
冷たさと熱さが混ざり合い、二人の境界線が曖昧になる感覚。
これが、私たちが生きている証拠だ。
「アステリア王国は、所詮チュートリアル(練習台)よ。……ここからが本当の『ハードモード』。帝国軍は、父上の騎士団とは比べ物にならないわ」
「構いません。……敵が強ければ強いほど、私の刃は貴女のために冴え渡ります」
リリアナが私の耳元で囁く。
その声は、甘い蜜のように粘着質で、そして背筋が凍るほど純粋な狂気に満ちていた [cite: 5, 29]。
「貴女を守るためなら、私は帝国の白銀の軍勢を、一人残らず紅く染めてみせましょう。……誰にも、貴女の髪一本触れさせはしない」
私は彼女の言葉を、酸素のように吸い込んだ。
重すぎる愛。だが、1,000回の死を経験した私の魂を繋ぎ止めるには、これくらいの重力が必要なのだ。
「期待しているわ、私の騎士。……まずは小手調べよ。数日中に、帝国の『影』が挨拶に来るはず」
私は窓ガラスに映る、自分の冷え切った瞳を見つめた。
そこにはもう、怯える少女の姿はない。
1,001回目の盤面を支配する、プレイヤーの目だけがあった。
(さあ、いらっしゃいヴァレリウス。……貴方が送ってくる刺客が、私の箱庭の肥料になる準備はできているかしら?)




