第12話:救済という名の首輪
荒野の北に位置する「嘆きの谷」は、その名の通り、風が岩肌を削る音がまるで死者の慟哭のように響く場所だった。
谷底へ降りるにつれ、空気は重く、そして甘ったるい腐臭を帯びていく。
それは死体が腐る匂いではない。魔力を持つ生物が、内側から崩壊していく際に放つ特有の「魔力壊死」の臭いだ。
「……臭いますね。生きている気配よりも、死にかけている気配の方が濃厚です」
リリアナが不快そうに顔をしかめ、ハンカチで私の鼻を覆おうとする。
彼女の細剣『アイリス』は既に鞘から半分ほど抜かれ、いつでも視界に入る動くものを切断できる態勢にあった。
「警戒しなくていいわ、リリアナ。彼らに戦う力なんて残っていない」
私はハンカチを押し留め、岩陰に向かって声を張り上げた。
「隠れていないで出てきなさい。……それとも、その震える指で矢を放つ勇気があるのかしら?」
私の挑発に応えるように、岩の隙間から数人の影が姿を現した。
長い耳、痩せこけた体躯。かつては森の賢者と呼ばれたエルフたちだ。だが今の彼らは、肌に不気味な紫色の斑点が浮かび上がり、立っているのがやっとという有様だった。
「……人間……。ここはお前たちが……足を踏み入れていい場所では……」
先頭に立つ男が、枯れ木のような弓を構える。
だが、矢をつがえる前に、リリアナが一歩前に出た。
「――下がりなさい」
たった一言。
魔力と殺気を凝縮したその声は、物理的な衝撃波となってエルフたちを襲った。
彼らは悲鳴を上げることもできず、ガタガタと膝を震わせてその場に崩れ落ちる。獲物を前にした兎のように、生物としての格の違いを本能で理解させられたのだ。
「リリアナ、殺しては駄目よ。これから使う『家畜』なんだから」
「申し訳ありません。つい、汚いものが貴女に向けられるのが許せなくて」
リリアナは心底不思議そうに首を傾げ、剣を納めた。彼女にとって、エリーゼに弓を向ける者は、害虫以下の駆除対象でしかない。
私はエルフたちの中央、一際症状の重い老人――長老の元へと歩み寄った。
彼は息も絶え絶えに、濁った瞳で私を見上げている。
「『魔斑病』ね。……体内の魔力回路が暴走し、内臓を石に変えていく奇病。発症から1ヶ月で全身が石になって死ぬ」
私が淡々と症状を告げると、長老の目が驚愕に見開かれた。
「な、なぜ……人間が、その病の名を……」
「知っているわ。治療法もね」
私は懐から、来る途中で採取した青い花を取り出した。
谷の入り口の崖に咲く、一見するとただの雑草。『月光草』だ。
「この草の根を煎じ、ドラゴンの血――高純度の魔力媒体を一滴混ぜて飲む。……それが唯一の特効薬よ」
私は『赤竜の心臓』をちらりと見せる。
宝石から溢れる魔力の奔流を感じ取ったエルフたちが、息を呑んだ。魔力に敏感な彼らには、それが自分たちを救える唯一の希望の光に見えたはずだ。
「く、くれ……! その石を……その薬を、我らに……!」
一人の若者が這いずり、私の足に縋り付こうとする。
だが、その手は私のドレスに触れる直前で、リリアナの靴によって踏み砕かれた。
「ギ、アァッ!?」
「許可なく触れないでいただけますか? 貴方の薄汚い手脂が移ります」
リリアナは無表情で靴底をグリグリと押し付ける。
若者の悲鳴が響き渡るが、私は表情一つ変えずに長老を見下ろした。
「勘違いしないで。これは慈善事業じゃないわ」
私は冷たく言い放つ。
「この薬が欲しければ、契約しなさい。……今この瞬間から、貴方たちの命、魂、そして死後の骸に至るまで、すべて私に捧げると」
「ど、奴隷になれと……言うのか……誇り高きエルフに……」
「誇り? そんなもので腹が膨れるの?」
私は600回目のループの記憶を突きつける。
あの時、彼らは誇りを守って全滅を選び、その死体は魔物の餌になった。そして巻き込まれた私も、腐り落ちる腕を抱えて死んだ。
「選ばせてあげるわ。誇りを抱いてここで石像になって朽ち果てるか。……それとも、首輪をつけて生き延び、私のために働くか」
私は手の中で月光草を弄ぶ。
沈黙は3秒も続かなかった。
生きるか死ぬかの極限状態において、生物が選ぶ答えは常に一つだ。
「……従います……」
長老が、震える頭を垂れた。
それに続き、周囲のエルフたちも次々と額を地面に擦り付ける。
「我らの命……貴女様に捧げます……。どうか、どうか慈悲を……」
「賢明ね」
私は満足げに頷き、リリアナに目配せをした。
リリアナは懐からナイフを取り出し、月光草の根を器用に削り始める。
そして、『赤竜の心臓』から抽出した魔力の雫を垂らし、即席の薬を作り上げた。
「飲みなさい。……言っておくけれど、一度でも私を裏切ろうとすれば、その薬は猛毒に変わるよう呪いをかけてあるわ」
もちろん嘘だ。私にそんな魔法は使えない。
だが、圧倒的な魔力を持つ『赤竜の心臓』と、リリアナの殺気を見せつけられた彼らは、その嘘を疑うことすらできない。
恐怖こそが、最強の契約書なのだ。
薬を飲んだ長老の顔から、見る見るうちに紫色の斑点が引いていく。
奇跡を目の当たりにしたエルフたちは、今度こそ畏怖と崇拝の眼差しで私を見上げた。
彼らにとって私は、死の淵から救い出してくれた女神に見えているだろう。
それが、計算された演出だとも知らずに。
「さあ、立ちなさい私の『手足』たち。……働き場所は用意してあるわ」
私は踵を返し、城砦の方角を指差した。
「あの廃墟を、大陸で一番美しい城に作り変えるの。休みなんてないわよ。貴方たちの命は、もう私のものなんだから」
ぞろぞろと立ち上がり、私に従う異種族の群れ。
リリアナが私の背後で、彼らを監視しながら恍惚とした溜息を漏らす。
「……素敵です、エリーゼ様。命を掌握し、支配するそのお姿……。ああ、私ももっと、貴女に縛られたい……」
彼女の病的な独占欲は、他者が増えるほどに濃縮されていく。
こうして私は、最初の「国民」を手に入れた。
恐怖と依存で統治される、小さくて歪な王国の誕生だ。




