第10話:二人だけの王国
死の森を抜けた先に広がっていたのは、世界の果てのような荒野だった。
乾いた風が吹き抜け、赤茶色の岩肌が露出した断崖絶壁の上に、その城は墓標のように鎮座していた。
――『忘れられた城砦』。
かつて帝国との戦争における最前線基地であり、300年前に放棄されて以来、魔物すら近づかない廃墟。崩れかけた外壁は蔦に覆われ、塔の先端は折れ、かつての威容は見る影もない。
「……エリーゼ様。本当に、ここが……?」
リリアナが不安げに眉を寄せ、崩落寸前の正門を見上げている。
彼女の懸念はもっともだ。普通の人間なら、ここを住処にするくらいなら森で野宿を選ぶだろう。
「ええ、そうよ。酷い有様でしょう?」
私は満足げに頷く。
「でも、今の私たちには『完璧』な物件よ。見て、あの城壁の配置。あそこの死角には、帝国軍が残した『自動迎撃術式』が眠っている。……魔力さえ供給すれば、ドラゴンすら撃ち落とす対空砲になるわ」
私は指先で、瓦礫の山を愛おしそうになぞる。
560回目のループ。私たちはこの城の地下で半年間、ネズミのように隠れ住んだ。あの時は寒さと飢えに震え、最後には結界が作動せずに押し寄せた魔物の群れに食い殺された。
だが、今の私は「鍵」と「電池」を持っている。
「行きましょう。まずは、この城の心臓を叩き起こしてあげないと」
私たちは崩れた回廊を抜け、城の中枢――玉座の間へと足を踏み入れた。
分厚い埃が積もり、天井からは蜘蛛の巣がカーテンのように垂れ下がっている。その奥にある石造りの玉座は、主を失って久しい孤独を漂わせていた。
「……汚いです。空気が、埃っぽい」
リリアナが不快そうに鼻を鳴らし、即座にハンカチを取り出して私の口元を覆った。
そして、アイリスを抜き放つと、殺気立った目で部屋の四隅を睨みつける。
「エリーゼ様、少しお待ちを。まずはこの部屋の埃と、潜んでいる蟲どもを『浄化』します。……貴女の肺に、こんな穢れた空気を吸わせるわけにはいきません」
「ふふ、頼もしいわね。でも、掃除は後でいいわ。先に『家主』の挨拶を済ませましょう」
私は玉座の後ろにある、巨大な石版の前で立ち止まった。
表面には複雑怪奇な幾何学模様――古代魔法文明の制御回路が刻まれている。今は魔力が枯渇し、ただの石の塊でしかない。
私は懐から『赤竜の心臓』を取り出した。
薄暗い廃墟の中で、深紅の宝石だけが異質な輝きを放ち、周囲の闇を威圧する。
「リリアナ、剣を貸して。……この石版のくぼみに、切っ先を突き立てるの」
「はい。……こう、ですか?」
リリアナが迷いなく、国宝級の魔剣を石版の溝に差し込む。
カチリ、と硬質な音が響いた。
「私が合図をしたら、貴女の魔力をすべてこの宝石に注ぎ込みなさい。……加減はいらないわ。貴女が持てる『殺意』と『愛』のすべてを、叩き込んで」
「承知いたしました。……私の全ては、貴女のために」
リリアナが目を閉じ、深く息を吸い込む。
次の瞬間、彼女の全身から青白い燐光が立ち上った。
それは魔力というよりは、彼女の魂そのものが燃焼する光。1,000回分の死の記憶と、私への歪んだ執着が、純粋なエネルギーへと変換されていく。
「――今よ!」
私の号令と共に、リリアナが叫ぶような気合いで魔力を流し込んだ。
ドクンッ!!
城全体が、巨大な心臓の鼓動のように大きく震えた。
『赤竜の心臓』が増幅した魔力が、石版の回路を一気に駆け巡る。
床に、壁に、天井に刻まれていた古代文字が次々と青白く発光し、死んでいた城に血液が通い始める。
ゴゴゴゴゴ……!
重厚な地響きと共に、城壁の外で何かが起動する音がした。
眠っていた防衛結界が展開され、外界とこの城を隔絶する不可視のドームが形成されたのだ。
さらに、城内の至る所に設置されていた魔導ランプが一斉に灯り、廃墟を真昼のように照らし出す。
「……あ、はぁ、はぁ……ッ」
魔力を放出しきったリリアナが、膝から崩れ落ちる。
私は彼女を抱き止め、その汗ばんだ額を撫でた。
「よくやったわ、リリアナ。……聞こえる? 城が息を吹き返した音よ」
「は、い……。不思議です……。あんなに冷たかった石の床が、今は……温かい……」
彼女は私の腕の中で、うっとりと目を細める。
結界内部の環境制御システムが作動し、気温が最適化され始めたのだ。
「これでもう、凍える夜に怯える必要はないわ。外敵も入ってこれない。……ここは今日から、私たちだけの『箱庭』よ」
私はリリアナを支えながら、埃を払った玉座に彼女と一緒に腰を下ろした。
本来は王一人が座るための椅子だが、痩せた二人が寄り添って座るには丁度いい。
「リリアナ。貴女は今日から、この国の騎士団長であり、宰相であり、そして唯一の国民よ」
「……ふふ。国民が私一人だなんて、なんと贅沢な国でしょう。……王様は、貴女お一人だけですか?」
「ええ。この国には、私と貴女以外はいらない。法律は私の言葉で、正義は貴女の剣。……それだけで十分でしょう?」
私たちは顔を見合わせ、共犯者の笑みを浮かべた。
窓の外には、結界に弾かれた森の魔物たちが、無力に爪を立てているのが見える。
かつて私たちを殺した脅威は、もはやガラスケースの外の景色でしかない。
1,001回目の逃避行は、ここで一つの終わりを迎えた。
そして同時に、世界に対する本当の「反逆」が始まる。
「さて、リリアナ。まずはこの城の掃除から始めましょうか。……その後は、お風呂にお湯を張りましょう。1,000回分のアカを落とさないとね」
「はい、エリーゼ様! ……背中は、私が流してもよろしいですか? いえ、流させてください。全身くまなく、指先まで丁寧に……」
リリアナの瞳に、再び粘着質な熱が戻る。
平和な建国宣言の裏で、彼女の愛は留まるところを知らない。
こうして、忘れられた城砦に灯りがともった。
それは、アステリア王国にとっての悪夢の始まりであり、私たちにとっての幸福な日常の幕開けだった。




