第一の事件――私が赴く。
翌日、学校は臨時休校となった。
それは単なる哀悼のためではなく、戦略的な決断だった。
数百人の生徒が校舎に集まれば、警察の捜査は妨げられ、真相は遠のいてしまう。
事件現場は静かに、そして清らかに保たれなければならなかった。
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朝の光が家の奥の大きな窓から忍び込み、磨かれたタイルの床に反射していた。
壁の時計は六時四十五分を指している。
レイジは自室の扉を開け、制服姿で廊下へと歩み出た。
整った服装に、洗い立ての香り――まるで何事もない一日の始まりのように。
だが昨日の夕方、自ら「今日は学校が休みだ」と祖母とレイガに告げたばかりだった。
台所では、炒め物と甘いお茶の香りが漂っている。
家政婦であり、もう家族同然のウミがテーブルに皿を並べていた。
レイジを見ると、彼女は明るく微笑む。
「まあ、レイジ坊や、もう制服なのね。レイガ様の分も用意してありますよ。」
その隣で祖母が調理器具を片づけていた。
顔は落ち着いているが、その瞳は孫を鋭く観察している。
祖母はふと動きを止め、布巾を持ったままレイジを見つめた。
「レイジ、今日は休みだと言ったじゃないか。なのに、なぜ制服を着ているの?」
声は穏やかだが、その奥に潜む不安を隠しきれない。
彼女は一歩近づき、孫の姿を頭の先から靴の先まで眺める。
まるで、その整いすぎた姿から真意を読み取ろうとするかのように。
レイジはかすかに笑い、目を伏せた。
「うん、休みだよ。でも……学校に行かないと落ち着かないんだ。何か、しなきゃならない気がして。」
祖母はすぐには答えなかった。
布巾を握る指が強ばり、気づかぬうちに力がこもる。
一瞬、顔が険しくなり、低い声で言った。
「エジ……お前は、毎日こうして私の目に映る、たった一人の孫なんだ。どうして危険に身を投じようとする?私はどうやってお前たちを守ればいい?」
彼女は深く息を吸い、視線をそらした。
「お兄さんだけでも、私は毎朝不安でいっぱいだというのに……。もう一人、心配の種を増やさないでおくれ。」
レイジはその皺だらけの顔を見つめる――温かいお茶と、誰にも聞こえぬ祈りで彼を支え続ける顔を。
彼はゆっくり歩み寄り、祖母の手をそっと握った。
「大丈夫だよ、ネネ。心配しないで。僕は自分で自分を守れる。約束する。」
祖母はレイジの瞳をじっと覗き込み、長い沈黙のあと、ようやく微笑んだ。
疲れを滲ませながらも、深い愛情に満ちた笑みだった。
「……神さま、この子をお守りください。」
そう呟き、彼女は孫の頭を優しく撫でた。
朝食を終えると、レイジは温かい食事とお茶をのせた盆を持ち、廊下の奥の扉へ向かった。
その扉は決して開かない。
取っ手さえ、壁の一部と化しているように思える。
彼は扉の前に立ち、いつものように三度ノックした。
コン、コン、コン。
「イガ……朝ご飯だよ。」
しばらくの沈黙のあと、レイガの声が返ってきた。
落ち着いていて、隙間越しにしか聞こえない声。
「今日、学校へ行くのか? お前自身が、休みだと言ったはずだろう。」
「分かってる。」レイジは小さく息を吐いた。
「でもじっとしていられないんだ。あの事件を解き明かす手助けをしなきゃ、落ち着かない。どうしても学校に行かないと。」
短い沈黙。やがてレイガの声が低く響いた。
「……エジ。本当にそれでいいのか。一度その渦に足を踏み入れれば、もう元の生活には戻れないかもしれないぞ。」
レイジは扉を見つめながら、兄の瞳を覗き込むかのように答えた。
「それでも、もし僕が何もしなかったせいで誰かが傷つくなら、その方がきっと後悔する。」
また沈黙。やがて、中から長い吐息が漏れた。
「分かった……。ただし、一つだけ約束してくれ。全てを一人で抱え込むな。世の中には理屈では説明できないものがある。勇気だけで解決できることじゃない。」
レイジは小さくうなずき、声を落として言った。
「気をつけるよ。」
その場にしばらく立ち尽くす。
閉ざされた扉の向こうから、最後に聞こえたのは――
「……気をつけろ、エジ。」
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その朝、校内の一室に重苦しい空気が満ちていた。
窓は閉ざされ、カーテンは引かれ、古びた扇風機の回転音だけが沈黙を裂いている。
学校側、警察、そして被害者家族が一堂に会していた。
机の右側には、地元警察署から派遣された調査班長、IPDA (警部補)アリフが座っていた。
制服は整っていたが、目の奥に刻まれた疲労と緊張が、長い夜を物語っていた。
向かいには、教頭のサティヤ・ナガラが腕を組み、不安を隠すように椅子に凭れかかっている。
その隣にはカウンセリング担当のユニ教師。顔色は蒼白で、手には黄色いファイルを抱きしめていた。
中には、12年生の心理記録が収められている。その中に「エズラ・ウィラタマ」の名があったが、学校は対応を怠っていた。彼女はその事実を口に出すことはできなかった。
テーブルの端には、生物教師のアディと、被害者遺族の代理人二名、そして一人の弁護士が並んでいた。
父親は四十代前半、鋭い目を持つ男。黒いスーツを着こなしながらも、赤く腫れた目と握り締められた拳が、抑え切れぬ怒りと悲しみを物語っていた。
母親は深いヴェールを被り、うつむいたまま小さく震えている。
その傍らに、一人の男が静かに座っていた。黒いスーツに整ったネクタイ。指先で黒いファイルの表紙を叩きながら、冷ややかな眼差しを向けている。
表紙の隅には小さく「R.J.」と記されていた。
IPDA(警部補)アリフはゆっくりと立ち上がり、透明な袋に収められた一枚の古びた紙を机の上に置いた。
「……これは、エズラのロッカーから発見されたものだ。死の前日、そこに仕込まれていた。」
彼は、紙に記された文字を低く読み上げた。
『もし業報汝に近づかずば、
闇より土底の使者を遣わさん。
老女ただ視るに非ず、秤を求めん。
その眼すでに汝を捕らえし時、
命は露のごとく草の穂に残り、落つるのみなり。』
部屋の空気が凍り付く。
「……古いジャワ文字で書かれていた。」
アリフの声は沈黙を切り裂くように続いた。
「意訳するとこうだ。『もしカルマが訪れぬなら、闇は大地の底から使者を遣わす。
その名はシンボク。彼女はただの目撃者ではなく、裁きを下す者だ。
彼女の目に捕らえられた者の命は、草葉に宿る露のように儚い。』」
場の誰もが言葉を失った。
その時、黒いスーツの男が口を開いた。
「……初めまして。ロベルト・フリオと申します。アルタ・ウィラタマ氏の代理人として、この場に同席しております。」
声は落ち着いていたが、その裏には圧力が潜んでいた。
彼は微笑みながらも、その視線には一切の温かみがなかった。
「この事件は、単なる個人的悲劇ではありません。組織的怠慢の結果である可能性が高い。
その場合、法的措置を取らざるを得ないでしょう。」
沈黙の中で、ロベルトの言葉が重く響いた。
「……ただ一つ確認したい。
我々は本気で、“呪い”を信じているのですか? ネットを操る老婆の亡霊などというものを?」
鋭い眼差しがアリフに突き刺さった。
アリフは一度目を閉じ、深く息を吐いた後、冷静に言葉を紡いだ。
「……法の論理としては、あなたに同意します、ロベルト氏。
しかし現場では、人々が信じる現実を無視することはできない。
超自然への畏怖は、時に動機となり、時に凶器ともなる。」
彼は机上の資料を指で押さえ、声を強めた。
「犯人は呪術を演じている。
森の奥での儀式ではなく、デジタルの海を舞台に。
匿名ブログを通じて“呪い”を広め、恐怖を操っている。」
アリフの隣に座るベニー警部補が、低く付け加えた。
「我々は多くの“奇妙な死”を目にしてきました。
金や権力を求めた者たちが儀式に手を染め、命を差し出す――そうした例は珍しくない。」
さらにバガス警部補が言葉を継ぐ。
「科学的調査も進めています。解剖も、データ解析も、映像検証も。
だが――もし全ての結果が“あり得ない”を示すならば、残る答えはひとつです。
呪いは、ただの物語ではない。」
その言葉に、部屋全体が静まり返った。
ただ古い扇風機の唸りだけが、空気を震わせ続けていた。
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