危険を迎え入れる
その夕暮れ、廊下はまだ静まり返っていた。
西へと傾く陽光が窓の格子を通り抜け、冷たく光る床に金色の線を描き出している。
レイジは木製の扉の前に立ち、片手には温かい朝食と水を載せた盆を持っていた。
扉には小さな差し入れ口があり、彼はいつもそこから食事を中の者へ渡していた。
――コン、コン、コン。
「イガ……食事だよ。」
彼は小さく声をかける。
短い沈黙ののち、木の向こうから聞き慣れた、しかしどこか重みを帯びた声が返ってきた。
「ああ、エジ……ありがとう。」
レイガの声は穏やかだったが、言葉の奥に得体の知れぬ影を含んでいた。
「……近いうちに、お前に何かが起こる気がするんだ。」
レイジは首を傾げ、扉に耳を寄せた。
「僕に? それは一体どういうことだ?」
「はっきりとは言えない。だが、胸騒ぎがするんだ。何か……暗いものが近づいている。」
レイジは深く息を吸い込む。
「やっぱり、学校での件と関係があるのか? 今日、生徒は予定より早く帰された。明日は休校だと聞いた。」
「休校だと?」
レイガは驚いたように声を上げる。
「お前が転校してきたばかりなのに? ……まさか、誰かが死んだのか。」
その言葉にレイジの背筋は強張った。
「なぜ分かる?」
「ここから見えるんだ。聞こえるんだ。そして……感じ取れるんだ。
説明はできない。だがいつか、お前にも分かるだろう。なぜ私が闇の中に籠もることを選んだのかを。」
レイジは俯き、自らの掌を見つめる。答えを探すかのように。
「……少しずつ理解してきたよ、イガ。」
「お前の知性や冷静さ……僕も近づけるようになった。だが、その一方で……失った気もする。お前を。」
扉の向こうから微かな笑い声が響いた。
「エジ……お前はいつまでも弟だ。たとえ、私たちの誕生の差がわずか八分であったとしてもな。」
レイジは薄く笑みを浮かべる。
「ああ、子供の頃はよく喧嘩した。けれど、いつも僕を守ってくれたのはお前だった。言葉にしなかったけど……分かってたんだ。お前は昔から、大人びすぎていた。」
しばしの沈黙の後、レイガは低く重い呼吸をもらした。
「……気をつけろ、エジ。
お前が何をしようとしているか、私は信じている。だが、愚かだけはするな。必ず、真実の時は来る。その時まで……自分を守れ。」
「はは……まるで老人だな、お前の物言いは。」
レイジは小さく笑った。
「もしかすると……心だけは老いているのかもな。」
扉越しに交わされたその会話の終わり、レイジは声を潜め、誓いのように呟いた。
「……何を思っていようと、何を感じていようと。僕はお前を信じている。いつまでも。」
返事はなかった。だが沈黙は、確かな絆のようにそこにあった。
窓の外では空が朱から灰色へと変わりつつあった。
世界を覆う闇は、音もなく広がっていく。
そして扉の向こうで、レイガはまだ、静かに闇を選び続けていた。
その日の夕刻、事件の余波は校舎全体を覆っていた。
普段なら笑い声や生徒たちの呼びかけが響く廊下に、今は重々しい靴音だけがこだましている。制服姿の警察官たちが次々と廊下を歩き、黄色いテープが教室の入口を封鎖していた。そこは――三年A組。エズラ・ウィラタマが最後に生きて目撃された場所である。
教師たちは皆、落ち着かぬ面持ちで立ち尽くしていた。助けになろうとする者もいれば、ただ遠くから見守るしかできない者もいた。学校という「学び舎」に、死と捜査という現実が入り込むことへの違和感は拭えなかった。だが、法の手続きは止められない。エズラの死は小さな傷ではなく、無視できぬ現実だった。
そして、スマートフォンの画面を通じて広がる「映像」がさらに事態を混乱させた。エズラの最後の瞬間を記録した動画は瞬く間に拡散し、コメント欄には「シンボク」の名が溢れた。古びた民間伝承と現代のデジタル社会が交差し、誰もその流れを制御できなかった。
学校側は慌てて専門家を招いた。デジタルセキュリティのチーム、そして独立したIT調査員たち。彼らは、噂を鎮めるため、少しでも合理的な説明を見つけ出そうとした。だが、世論の圧力は止まらなかった。保護者は真相を求め、メディアは校門の外に群がり、エズラの家族は怒りと悲しみに震えていた。
警察のサイバー捜査班は、生徒の端末データを丹念に追跡した。
そして、不可解な痕跡を発見する――一つの匿名ブログへのリンク。
タイトルはこう記されていた。
「シンボク――虐げられた者への裁き」
そのブログは通常の検索エンジンでは決して見つからない。Googleにも、どの公開ディレクトリにも姿を現さず、直リンクでしか辿り着けない暗い路地裏のような存在だった。まるで、選ばれた者だけに開かれる扉のように。
さらに調査を進めると、そのリンクは――シタ・バンサ高校の十名の生徒の端末に届いていた事実が判明した。
これは、もはや「学校内の問題」ではなかった。
一人の生徒の死を皮切りに、たった数時間で「デジタル呪詛事件」は世間を揺るがす国家的な注目案件へと変貌したのである。
警察は緊急に優先度を「第一級」に格上げした。
そしてその夜、捜査チームは休むことなく動き出す。十名の生徒の家を訪問し、一人ひとりの証言を集め、リンクを誰が最初に受け取ったのか、誰が最後まで読み切ったのか――そのパターンを探し出すために。
なぜなら――もしこの「呪い」が真実ならば。
彼らの中に、「目撃者」だけでなく、 「加害者」 が紛れている可能性があるからだ。




