7.実家からの呼び出し
久しぶりに帰ってきた実家に、ヒューバートは気が重かった。もう何年も近寄らずに過ごしていたこの場所は、彼にとって懐かしさと同時に、苦々しい思い出しかない。家の外観は変わらず、庭に咲く色とりどりの花々が彼を迎え入れる。
父に呼び出されてしまえば、戻ってこないわけにはいかない。嫌な予感を覚えつつも、ヒューバートは実家の玄関をくぐった。
玄関では家令が待ち構えていた。彼は父親の若い時から仕えており、ヒューバートも幼いころから世話になっている。家令の顔には、年齢を重ねた分だけの深い皺が刻まれていたが、その目は今も変わらず温かさを湛えていた。
「お帰りなさいませ、ヒューバート様」
彼は丁寧に頭を下げた。その声には、どこか懐かしさと安堵感が混じっていた。ヒューバートは微笑みを返しながらも、心の中では不安が渦巻いていた。家令の優しい眼差しが、彼にとっての唯一の安らぎである一方で、父との再会がどのようなものになるのか、想像するだけでため息が出る。
「父上は?」
「執務室でお待ちです」
余計な言葉を交わさず、家令はエイル伯爵のいる執務室へと案内した。
執務室へ向かう途中、あまりにもひっそりとした屋敷の様子に不思議な気分だ。この屋敷は両親と兄妹三人の五人で暮らしていた。父であるエイル伯爵は王都で仕事をしているが、母と兄は領地だ。母は病気療養、兄は領地の差配だ。ヒューバートは騎士寮に入っていて、妹はすでに嫁いだ。一人でこの広い屋敷に暮らしているのかと、足が遠くなったことに申し訳ない気持ちだ。
執務室に入れば、どっしりとした机の上には大量の書類が積まれている。相変わらずの書類の量にヒューバートは顔をしかめた。顔を上げたエイル伯爵がヒューバートと目を合わせて口を開く。
「ようやく帰ってきたな。もう少し頻繁に顔を出せ。ここはお前の家なんだぞ」
「王宮の方が仕事に便利なので。父上は気にしないでください」
「そうはいってもな。お前はまだ許せないから、家に帰ってこないんだろうが」
「許すつもりはありませんが、妹は嫁いでこの家を出た。実家に戻らない理由はありません。ただ単に忙しいだけです」
「お前は頑固だな」
エイル伯爵は呆れたように首を左右に振る。
「それでご用件は?」
わざわざ連絡を寄越したのだ。重要な用事があるのだろうと話しを振る。エイル伯爵は苦い顔をした。
「一つ、頼みたいことがある」
「……碌なことではなさそうだ。断っていいですか」
「当主命令だ」
むっとして黙り込んでいると、扉をノックする音がした。エイル伯爵が入れと許可を出す。入ってきた人物を見て、ヒューバートは顔を歪めた。
そこにいたのは妹のシルビアだ。エイル伯爵の用事はどうやらシルビアとの仲を修復したいということだったようだ。悪態をつかないよう感情を殺し、ヒューバートは立ち上がる。
「では、俺は戻ります」
「おい、ヒューバート」
エイル伯爵が慌てて引き留める。その間、シルビアはいないものとして無視していた。表情を消して、シルビアの横を通り過ぎようとした。
「お兄さま、待ってください!」
一歩踏み出したのはシルビアの方だった。逃がさないと言わんばかりに腕を掴まれる。ヒューバートは無表情に彼女を見下ろした。
「なんだ?」
「ずっと謝りたかったの。本当にごめんなさい。でも、ナタリーは心からお兄さまのことを愛していて」
「……」
シルビアの再び繰り返される言い訳に、ヒューバードは苛立った。
そもそも謝罪などで済む話ではないのだ。四年前、シルビアの友人だという女は勝手に婚約者だと名乗り、そのように夜会でも振舞っていた。
その当時、ヒューバートはオーランドの護衛として、彼の公務中心に動き回っていた。十八歳のヒューバートは厳しい訓練を経て、オーランドの護衛に抜擢されたばかり。先輩騎士たちに王族の警護について学びながらの任務だった。元々、遠縁ということで、オーランドとは幼いころから交流はあった。だからこそ、彼の護衛になりたくて、手を抜くことなく励んできたのだ。ようやくつかんだ護衛騎士の席。当然生活すべてにおいて職務を優先していた。
ずっと家にも戻らず、エイル伯爵家に送られた夜会や晩餐会の招待も可能な限り断った。そのような時間的余裕は少しもなかったのだ。だから、社交界でどのような噂が広まっているのか、気づくのが遅れた。
恋人であり婚約すると社交界で囀る女の噂を聞いた母親がわざわざ騎士寮まで問い合わせてきたことで、発覚した。時間がないからといって相手の女性を待たせ、きちんと手順を踏まないのはどういう事かと。
シルビアの友人と顔を合わせたのは数回、それも一言二言挨拶した程度だ。気がつけば、かなりの噂が広まっていた。このままこの女の思い通りになるつもりはなく、シルビアの友人だろうが容赦なく偽りを暴き、賠償を求めた。
慌てたのは相手の家だ。恋人になったと聞いていたと言い訳していたが、ヒューバートは近衛騎士。騎士職は特殊で、結婚するためには王族の許可が必要になる。そのような許可もなく、家を通しての挨拶をしていないにも関わらず、娘から婚約したと聞いたから信じた、とか意味が分からない。
このような事態に落ちいった原因はシルビアの存在もある。妹である彼女が兄の恋人で婚約者だと紹介して回ったのだ。身内がそう紹介しているのだ、誰もが信じるだろう。
そのようなことを考えなしに引き起こすシルビア。身内であろうと、今後一切交流を持つつもりはない。
「俺がお前たちを許すことはない」
シルビアに掴まれている腕を引き抜き、そのまま出て行こうとした。だが、今度はエイル伯爵に引き留められる。
「ヒューバート、待つんだ」
「なんです?」
「今夜だけだ。シルビアを夜会に連れていけ」
「は?」
意味が分からず、思わずエイル伯爵を凝視した。エイル伯爵は面倒くさそうな表情を隠すことなく、説明してくる。
「シルビアは自業自得でどうでもいいのだが、嫁ぎ先のダーレン子爵家とお前の仲が悪いと噂になりつつある」
「俺には関係ない話だと思いますが」
「お前は第二王子の護衛だ。不仲説が広がると、離縁されるかもしれん」
それもまた面倒なことだと、顔をしかめた。しばらくエイル伯爵を無言で見返していたが、折れることにした。シルビアがつまらないことで出戻ってきた場合の面倒さの方が上回った。
「今回限りです。今後一切、顔を合わせるつもりはありません。それでいいですか?」
「ああ。すまないな」
仕方なくシルビアに目を向けた。彼女はエスコートを受けてもらったことに安心したのか、またもや失言をする。
「今日は騎士団の制服なのね。できれば近衛騎士の制服に着替えてほしいのだけど」
「着替えるつもりはない。俺はお前を会場までエスコートするだけだ」
「……そう」
実家に帰るときは目立つ近衛騎士の制服など着ない。騎士団の制服ならば大抵の夜会で許されるのだから、問題ないはずだ。それをわざわざ近衛騎士の制服など言い出しているところから、シルビアはやはり懲りていないようだった。
「シルビア」
エイル伯爵がシルビアの名を呼んだ。
「何でしょう?」
「余計な真似をするな。もう一度同じことをしたら、離縁とは関係なく、エイル伯爵家と縁を切ると思え」
「そんな」
シルビアは不服そうであったが、エイル伯爵には反発しなかった。シルビアが反論せず引き下がったことに内心驚いた。下手なことをしてヒューバートがエスコートしないと言われるとそれだけ困ると言う事か。
シルビアが嫁ぎ先であまりよい待遇でないことを理解した。