5.彼との意外なつながり
彼に気がついてもらえたことに嬉しさが八割、喜べない複雑な気持ちが二割。
心の中でその割合を繰り返しながら、私はため息をついた。彼の顔が脳裏に浮かび、胸が高鳴る一方で、心の奥底には不安が渦巻いている。
もう考えるのはやめよう、気にするのはやめようと自分に言い聞かせるが、気がつけば、彼のことを考えてため息を零している自分がいる。
彼の声、彼の仕草、そして彼と目が合った瞬間。
どれもがエレオノーラの心を掴んで離さない。
先月の夜会ではまだ知っていることが少なかった。一人では切り抜けられなかった事態を助けてもらって、月明かりに照らされた彼を思い出し、うっとりとするだけで済んでいた。
名前を知りたいとか、もう一度会ってお礼が言いたいとか色々な思いもあったが、具体的に何かをする伝手はなく、すべてがエレオノーラの想像どまりだ。それでもあれこれ思い描くのは楽しくて、ふわふわした居心地の良い時間を過ごしていた。
ところが意図せぬところで彼の身分がわかってしまった。オーランドとの親しい距離から、エレオノーラは現実を見ないわけにはいかなかった。
オーランドの護衛騎士である彼はエレオノーラよりもはるかに身分が高く美しい令嬢を沢山知っているだろう。顔も知らない美しい令嬢と彼が二人で立っているところを想像して胸がしくしく痛む。特別美しいわけでも、才能があるわけでもないエレオノーラが他の令嬢を押しのけて彼の隣に立てるはずがない。
夜会で助けてくれた時に、顔を上げてきちんと目を合わせて名乗っていたら何かが変わっただろうか。
こんな中途半端な気持ちを持たずに、すぐに釣り合いが取れないことに気がついて簡単に諦められただろうか。
今更過去など変えられない。でも、エレオノーラは一人ぐずぐずと思い悩んだ。
気晴らしにと刺繍を始めたものの、ほとんど針を刺す手は止まっている。
「エレオノーラ、ちょっといいかしら?」
軽いノックの音がして、アマンダが入ってきた。なんだかとても嬉しそうな、楽しそうな顔をしている。今は誰とも話したくないのだが、こうして自室にまで足を運んだということは何か用事があるのだろう。
できるならさっさと用事を済ませてほしいと思いながらも、ついアマンダに聞いてしまう。
「何かいいことでもあったの?」
それぐらい浮かれている感じだ。アマンダは部屋の隅に控えている侍女にお茶を用意するように指示してからエレオノーラの向かいの椅子に座る。エレオノーラは手にしていた刺繍道具を片付けて、テーブルの隅に置いた。
「貴女の気になる人が誰だか分かったわ」
アマンダは得意気な様子で教えてくれた。エレオノーラは驚きに息を飲んだ。
「どうやって?」
「リックに頼んだのよ。あの夜会に騎士服で参加した人を伯爵家に問い合わせたの」
案外あっさりと分かってしまったようだ。エレオノーラは脱力して長椅子の背に体を預ける。行儀が悪いが、今はそれを気にする気力もなかった。
「お義兄さまに無理をお願いしたのね」
「リックだって可愛い義妹の結婚相手になるかもしれない人ですもの。すぐに伯爵家に問い合わせてくださったわ」
「それでも」
知ったところで手の届かない人。
唇を噛みしめて、何とか言葉を飲み込んだ。自分の至らないところを言葉にしてしまったら、次から次へと言ってはいけないことを言ってしまいそうだ。エレオノーラは劣等感に苛まれた。
「エレオノーラを助けた方はね、第二王子の筆頭近衛騎士ですって。とても優秀らしいの」
知っている。近衛騎士の黒い制服がとてもよく似合っていた。
「お名前はヒューバート・エイル様。伯爵家の次男だそうよ」
エイル伯爵家は建国時から続くほど歴史が古く、どの伯爵家よりも格が高い。いつ侯爵位に陞爵してもおかしくないほど、王家にとって信頼の厚い家なのだ。
エレオノーラの沈む心に気がつかないのか、アマンダがお茶を一口飲んでからさらに続けた。
「面白いことにリックの従弟だそうよ。人の繋がりって狭いわね」
「従弟?」
思わぬ情報に固まった。リックとヒューバート、あまりにもタイプが違い過ぎて、二人に血のつながりを感じなかった。
「そうなの。リックも驚いていたわ。彼は独身で、恋人も婚約者もいないそうよ」
「でも、エスコートしている人がいたわけでしょう? 恋人がいないなんて、どうして言えるの?」
リックも知らない恋人や恋人未満の人がいても不思議はないくらい、素敵な人だ。そんな相手を隠しているだけかもしれない。
「うふふ。ちゃんと確認しているわよ。先日の夜会は都合が悪くて参加できなかった夫に代わって彼の妹をエスコートしたのだそうよ。だからね、心配はいらないわ。今度、リックに紹介してもらいましょう? 一度会って話すだけでもいいわ」
「お姉さま」
アマンダが心配して色々と世話を焼いているのはわかる。
でも、もういいのだ。
「何?」
「お姉さま、ごめんなさい。これ以上は本当にいいの」
「エレオノーラ?」
アマンダは笑顔を消して、じっとエレオノーラの心を読むように見つめる。居心地が悪くて自分の膝に置いた手へ目を伏せた。思わずぎゅっと手を握りしめてしまう。何かいい言い訳がないかと必死に頭を働かせた。
「どうしたの? どうして急にそんな風に思ったの?」
「よく考えたら、わたし、普段ない出来事に浮かれているだけで、名前も知らないあの方を思い出して喜んでいただけなの。これはきっと好きとかじゃなくて、状況にうっとりしていたところがあったというのか、彼自身を見ていたわけではないというのか」
うまく説明できなくてだんだん声が小さくなってしまう。そっと目を上げれば、アマンダは不思議そうに頬に手を当てていた。よく理解できないといった表情だ。
「でも、思い悩むぐらいもう一度会いたいと思ったのでしょう?」
「そうね。この間まではそう思っていたわ。でも困っていたから助けただけなのに、会いたいなんて言ったらきっと嫌な顔をするわ」
説明にならない説明を言いながら、とにかく勝手に場を設けないようにとの思いで必死に気持ちを伝えた。アマンダはある程度エレオノーラの言いたいことがわかったのか、徐々に表情が険しくなっていく。
「こういうのはね、当たって砕けろの気持ちでいくべきなのよ」
「え……」
まさかそんな風に言われるとは思わなくて、言葉が途切れる。エレオノーラの頭の中が真っ白になった。アマンダの言葉が理解できない。
「相手がどう思うかなんてわからないじゃない。聞いたわけではないのでしょう? 実際に顔を合わせて言葉を交わしてみれば、会う前は何とも思っていなくても別の感情が生まれるかもしれないじゃない」
「それはそうかもしれないけど」
彼と会っても、エレオノーラにとっていい結果が出るはずがない。顔を見て断られる勇気がないから、会いたくないと思ってしまう。
アマンダにどういえば気持ちが伝わるのか、エレオノーラは思考を放棄しそうな頭で必死に考えた。
「とにかく、ドレスを新調します。一度でいいからきちんと彼と会って、あの夜のことのお礼を言いなさい。そこからどうなるかは、その時に任せればいいわ」
「……お礼はちゃんと伝えたいわ」
やや厳しい表情をしていたアマンダは妹の返事を前向きに捉えたのか、少しだけ表情を和らげると立ち上がった。
「あれこれと余計なことを考え過ぎよ。憶病になる気持ちはわかるけれども、声を掛けなければ何も始まらないわ」
「臆病じゃないもの。ただ現実的なだけ」
「まったく、困った子ね。現実的なだけだというのなら、会ってから判断してもいいじゃない」
アマンダは屁理屈を言う妹の頭を優しく撫でた。エレオノーラは四女らしく、自分の道をマイペースに進む性格。個性的な三人の姉たちの陰に隠れて大人しそうに思えるが、自分の意志は基本的に貫く。それゆえ、恋愛においてこれほど臆病なタイプだとはアマンダは思っていなかった。
「新しいドレスを数枚、作りましょう」
にこりとほほ笑んで、仕立て屋に明日の予約を入れておくからと一言残して部屋を後にした。
残されたエレオノーラはため息をついた。