31.夜会2
二人の男女が抱き合っている。
背の高いヒューバートが女性をしっかりと抱きしめていた。
ああ、という気持ちがよぎった。
オーランドの申し訳なさそうな顔、そしてヒューバートの渋い顔。
シェリーが強く言い含めてきたこと。
王女の捜索の先にあったのが、この状況だ。
ここから見ていてもヒューバートの怒気が伝わってくる。何か言いあっているようだが言葉は伝わってこない。ただ、逢引きのような甘い空気はそこにはなかった。
エレオノーラは初めてヒューバートに恋慕する令嬢を見た。庭の灯りで浮かび上がった顔は熱に浮かれていた。ギラギラとした目はまるで捕食者のよう。自分の気持ちを熱心に伝えている。ヒューバートは彼女が何かを言うたびに、どんどんと怒気を膨らませている。
二人の温度差に、見ているのが辛い。勝手に熱を上げる様子は気持ち悪いと言い捨てていたヒューバートの気持ちがほんの少しだけわかった。
「婚約破棄した方が幸せになれると思わない?」
くすくすと笑うコンスタンスがエレオノーラの不安を煽るように言う。コンスタンスはエレオノーラに勘違いさせて、仲違いさせたいようだ。
だが、エレオノーラはコンスタンスが思うような不安など、少しも持っていない。困っているのは、ここでの対応方法。
相手は王女。
エレオノーラはどう対応するのが正しいのか、必死に考えた。エレオノーラの沈黙を都合よく解釈したコンスタンスはさらに続ける。
「すぐに決断しろとは言わないわ。だけど、愛されてもいないのに縋るなんて惨めでしょう?」
バカにしたような語り口に、結婚してしまっていてよかったと心底思った。この王女に二人の婚約を覆すだけの力があるとは思わない。それでも、自分の力を過信しているところが嫌だ。オーランド達が排除を選んだのは理解できた。オーランドの持つ権力を自分の権力と勘違いするなんて、あり得ない。
どうしたらよいのか、正解を思いつかないまま、辺りをこっそりと見回す。見えるところに護衛はいない。もしかしたら、二人になるように誘導されているのかもしれない。
期待するのはアマンダだ。アマンダならばきっとこの状況を見て、誰かを呼んできてくれるに違いない。それを信じて、時間稼ぎをすることにした。
不敬罪を問われたら、マシューとオーランドの権力に頼ろうと心に決める。
「……ヒューバート様は抱きしめているときは耳元に唇を寄せて囁くのです」
「何を言って」
「それに、愛を伝える時はすごく表情が柔らかくなります。ちょっと困った時には眉間にしわが寄りますが、笑うと意外と可愛らしい雰囲気なの」
毎日の夫婦の様子を言葉にして伝えた。恥ずかしい気持ちもあるけれども、事実だ。とにかく、毎日の触れ合いを淡々と話す。
唖然としていたコンスタンスだったが、次第に怒りを露にした。
忌々しそうに睨んでくるが、エレオノーラは止めなかった。ただ二人の様子を見ながら、垂れ流す。
「つべこべ言わずにわたくしの言うとおりにしたらいいのよ」
「では、王女殿下からその内容をヒューバート様とお相手の方に言ってくださいませ」
怯む気持ちを隠して、ぐっと顔を上げた。王族らしい傲慢な空気に飲まれまいと、意識して背筋を伸ばしお腹に力を入れた。
そして、しっかりと彼女の目を見返す。王女の目は怒りを含んでいたが、不思議と怖いとは感じなかった。
「ですが、必要なのは婚約破棄ではありません。婚姻解消、もしくは離縁です」
「離縁?」
知らなかったのか、コンスタンスが呆けた顔になる。
「ええ。先日、オーランド殿下と王弟殿下の立ち合いの元、婚姻いたしました。今は二人で暮らしております」
「何ですって?」
「ご存じありませんでしたか?」
「今日の夜会は婚約のお祝いだと」
「違います。王太子殿下と妃殿下は結婚の祝福をくださったのです」
コンスタンスの言葉を否定して、苦笑した。確かに王太子ははっきりと婚約を祝うとは言っていなかった。二人のことを知らない人にしたら、婚約だと勘違いする言い回し。
コンスタンスは苛立たしさを隠すことなく、がりがりと爪を齧り始める。
「なんてことなの。じゃあ、バイオレットの恋はどうしたらいいの?」
エレオノーラに聞かせるための言葉ではないだろう。激高してしまうかもしれないが、どうしても聞きたいことがある。
「……なぜ、そこまでヒューバート様に拘るのです? 他の方ではいけませんか」
「何故か、ですって? バイオレットはわたくしにとって姉のような人なの。幸せになってもらいたいと思うのは当然でしょう?」
姉のような人という割には、現実的な縁結びではない。エレオノーラは理解できずに瞬いた。コンスタンスはさらに続ける。
「それに、あれだけの美貌の騎士ですもの。バイオレットと結婚したら、わたくしに忠誠を誓ってくれるに違いないわ」
ヒューバートに執着しているのは、バイオレットだけではなかったのかとエレオノーラは苦く思った。
「そうよ、あなたがいるから上手くいかないんじゃない」
爪を齧るのをやめ、ぱっとコンスタンスは顔を輝かせた。
何かを思いついたようだが、エレオノーラにしたらきっと最悪な話。
「あなたがいなくなればいいのよ」
「何を……」
理解する前に、力いっぱい手すりに向かって押された。
慌ててコンスタンスを押し返すように力を入れる。だが、反応が遅れた分、エレオノーラは手すりまで追いやられていた。
ここは二階。下は木々が植えてあり、地面は見えない。
落ちて死ぬことはなさそうだが、無事でいられるとも思えなかった。履きなれない踵の高い靴を履いているためか、上手く体を支えられない。上半身を押され気味であと一歩下がったら、バランスを崩して落ちてしまいそうだ。
「誰か!」
護衛のことを思い出し、大声を上げた。
「ここは警備から外れているの。誰も来ないわ」
コンスタンスは早く落としてしまおうと、エレオノーラをさらに強い力で押す。本気で突き落とそうとしているのがわかる。
反りすぎて背中が痛くなってきた。もう一度声を上げたいところだが、声を上げたら力が抜けてしまいそうだ。
「そこまでです、コンスタンス王女」
「離しなさい!」
限界だと思って目を閉じた時に、ふっと圧迫感がなくなった。力の限り押し返していた反動で前のめりになる。誰かの胸に抱え込まれた。
固い制服の生地が頬に当たる。でもヒューバートではない。慌てて抱擁を解こうと手を突っ張った。
「エレオノーラ、私だ。大丈夫だから寄りかかって。今、一人で立てないだろう?」
顔を上げてみれば、エレオノーラを抱きかかえていたのはローサだった。
「ローサ、さま」
「アマンダが呼びに来たんだ。間に合ってよかった」
そう言われて、テラス窓へ目を向ければ心配そうなアマンダがいる。こちらに飛んできそうな雰囲気だが、テラス窓には護衛達がいて躊躇っているようだ。
「本当はヒューバートが間に合えばよかったんだけどね」
期待した相手ではなくてごめんね、と囁かれて力が抜ける。恐ろしさが実感され、涙が込み上げてきた。エレオノーラは慌てて瞬きをして涙を散らす。
「よく頑張った」
小さく労われて、思い出したようにコンスタンスの声のする方に視線を彷徨わせた。彼女は騎士に取り押さえられており、バルコニーに王太子ライアンとマシューがやってきた。二人とも驚いた様子はなく、何となく面白そうだ。
二人の態度から、これを狙っていたのかと理解した。だからこそ、オーランドは申し訳なさそうな顔をしていたのだ。
「どこか痛い?」
「いえ、大丈夫です」
「……聞きたいこと、今なら少しだけ答えるよ」
声を潜めて囁かれた。エレオノーラはローサを見上げた。
「王女が貴女を突き落とそうとすることを考慮していなかったのは、こちらの落ち度だから」
聞いてもいいだろうか。
ヒューバートはどこまで知っていたのかを。
だが、知っていたところで問題はない。指示をしているのはオーランドで、ヒューバートは近衛騎士だ。よほどのことがない限り王族の命令に反することはできない。
きっとオーランドからの命令を受けた時、ヒューバートは何が起こるのか、推測できただろう。だから、あれほどエレオノーラの側から離れるのを渋っていたのだ。冷静に考え、仕事の内容は聞かないことにした。
だが、一つだけ、気にしていることはある。
不安な気持ちで、エレオノーラはローサにそっと聞いてみた。
「わたし、もしかしたら王女殿下に言ってはいけないことを言ったかもしれません。後で不敬罪だと騒がれるかも……」
「不敬罪? 穏やかじゃないね。どんなことを言ったの?」
「ヒューバート様に愛されていないとか縋るなんて惨めだと色々言われたので……夫婦の朝の時間の様子などを。そういえば、結婚していることも告げてしまいました」
エレオノーラとしては結婚を隠していたわけではなかったが、周囲は隠していた節がある。もしかしたら、言っては駄目だったかもしれない。
今更のように、自分の行動の不味さに冷や汗が出る。ローサは何度か瞬いた後、笑いだした。
「惚気るなんて、すごいな! まったく問題ないと思うよ」
「本当ですか?」
適当に言っているのではないかと、エレオノーラは疑わしい目を向けた。ローサは大丈夫大丈夫と繰り返す。
「エレオノーラ!」
やや切羽詰まった声に顔を巡らせれば、二人の王族の脇をすり抜けて飛び込んでくるヒューバートがいた。ローサから離れ、彼の方へと手を伸ばす。ぎゅっと抱きしめられて、ようやく安心する。
「すまない、すぐに来られなくて」
「大丈夫。ローサ様が助けてくれたから」
ヒューバートはちらりとローサに目を向ける。ローサは気楽に手を振った。
少しだけエレオノーラを離すと、頭の上から足の方まで念入りに確認する。
「ローサ先輩に何もされていないだろうな?」
「わたしを支えてくれただけよ?」
不思議な心配をする彼に首を捻れば、ヒューバートはそうか、と安心したように大きく息を吐いた。
「失礼な奴だな。私も恋愛対象は男だ」
「そんなはずはない。どれだけの侍女がローサ先輩に……いえ、何でもありません」
ローサがヒューバートにわかりやすく怒気を向けたので、彼はすぐさま言葉を濁した。
「では、彼女のことを任せる。私はこれから後始末だ」
肩をすくめて、彼女は色々と喚いているコンスタンスのいる場所へと向かった。
去っていく人たちを言葉なく見送っていれば、ライアンがこちらにやってきた。彼の口元に笑みが浮かぶ。
「明日からお披露目まで、ヒューバートは休みだ。十分奥方を労わってやれ」
「承知しました」
ヒューバートと共に臣下の礼を取れば、今度こそ去っていく。彼らの姿が見えなくなって、ようやくヒューバートがエレオノーラの顔を真っすぐに見た。彼も思うことがあったのだろう、どことなく不安げな様子だ。
「……すまなかった、不安にさせた」
「二人が一緒にいるのを見て、すごく驚いたわ」
「抱きつかれる予定ではなかったんだ」
「本当に? 殿下たちの指示で気のあるふりをしたのではなく?」
あの状況になってしまったのは仕方がないことだとわかっているのに、どうしてもチクリと言いたい。気持ちなどないとわかっていても、他の女性を抱きしめる彼がとても嫌だった。
できれば何もなかったように振舞いたかった。できると思っていた。
だけど、彼の服から知らない匂いが香ったことで、そんな大人ぶった考えはすぐにどこかに行ってしまった。
きっと抱き着いていたあの女性の残り香だ。爽やかな花の香りだが、鼻について仕方がない。その匂いが、エレオノーラを嫌な気分にする。それ以上、余計なことを言わないように、唇を噛みしめた。
「嫉妬している?」
「……嬉しそうにしないで」
むすっとして言い返せば、ヒューバートはふわりとエレオノーラを抱き上げた。
「きゃあ!」
「足、痛むだろ?」
「でも、まだここは……!」
夫とはいえ、抱き上げられて移動するなんて恥ずかしい!
顔が火照るのを止められず下ろしてもらえるように暴れたが、エレオノーラの動きを抑え込み歩き出した。
「帰ろう」
「……ええ、帰りましょう」
上機嫌で歩き出すヒューバートにもういいか、という気分になった。誰もいない回廊をヒューバートは迷うことなく歩く。
彼に体を預け、空を見上げた。綺麗な月が弱い輝きを放ち、柔らかく包み込んでいた。