3.ため息
エレオノーラは何度目かのため息をついた。
日当たりの良いサロンはお気に入りの場所。今日はアマンダと二人、母へのプレゼントであるストールとロンググローブに華やかな薔薇の刺繍を刺していた。
アマンダが刺繍の手を止めた。彼女はエレオノーラの手元を見て、眉をひそめた。エレオノーラに集中力がなく、まったくと言っていいほど進んでいない。アマンダは心配そうに声をかける。
「エレオノーラ、どうしたの?何か気になることでもあるの?」
「え?」
突然の問いかけに、驚いて顔を上げた。アマンダが顔を曇らせてエレオノーラを見つめている。何を心配されているかわからず、戸惑った。
「気が付いていないの? ため息ばかりついているわ。それに刺繍、全く進んでいないじゃない」
そう指摘されて、思わず自分の持っている手袋に目を落とす。いつもなら薔薇の花なら幾つかすでに刺し終えている。それなのに、未だに花びら一枚しか刺していなかった。これではアマンダも心配するのも当然だった。
自分の状態が情けなくて、ため息をついた。
「ほら、またため息。ねえ、先月の夜会に行った後からずっとそんな感じだけど……もしかして誰か気になる人でもいるの?」
「それは……」
言葉を選びながらもずばりと聞かれて、エレオノーラは言葉に詰まった。アマンダは彼女のその態度で納得したのか、口元に笑みを浮かべた。今まで少しもそんなそぶりを見せたことがなかったせいか、アマンダは興味津々に体を乗り出す。彼女の瞳が期待で輝いているのを見て、エレオノーラは思わず身構えた。
「相手は誰? 独身者なの? わたしの知っている人?」
次々に問われたが、何一つ、答えることができない。あの高貴な男性と交わされた会話から、彼が独身のような気がするが、確かではない。
エレオノーラが知っているのは、月明かりに照らされた彼の横顔と微かに香る柑橘類の匂いだけ。やはり勇気を出して顔を上げればよかった。そうすれば、名前を尋ねることもできたはず。何度目かの後悔が押し寄せてくる。
「……何も知らないの」
「どういうことなの? きちんと説明しなさい」
エレオノーラは仕方がなく、夜会であったことをアマンダに話した。本当はずっとしまい込んでおきたかったけど、誰かに話してしまいたいという気持ちもあった。
「あの夜会で助けてもらったの」
恥ずかしいけど、あの夜にあったことを思い出しながら説明する。アマンダは無言で先を促した。
「考え事をしていたら、庭の方まで出てしまっていて。慌てて戻ろうとしたのだけど……」
言いにくそうに言葉を濁せば、アマンダが言葉を補った。
「庭で逢引きしていた方がいたのね」
「ええ。そっと引き返すつもりだったのだけど、音を立ててしまって。咎めるような声がして……どうしようと焦ったら動けなくなってしまって。その時に庇ってくださったの」
どんなふうに庇ったか、詳しくは話さなかった。アマンダはそれだけでエレオノーラの気持ちを察してくれたのか、それ以上の質問はしてこなかった。
「お礼を言おうとしたのだけど、知らない方がお互いにいいと言われてしまったわ」
そう締めくくれば、アマンダが困ったように首をかしげる。
「夜会の場所ならまだ誰かに聞くこともできたのに。それではエレオノーラは相手の男の人が誰だかわからないのね?」
「ええ。顔もほんの少し月明かりに照らされただけで。ただ話している内容から独身かなとは思ったわ。あと、逢引きをしていた方とも知り合いのようだから、それなりに身分のある方かもしれない」
「着ていた服装、覚えている?」
アマンダは考えるように指を唇に当てた。きっと彼女の頭の中では夜会会場に来ていた貴族を一人一人思い出しているのだろう。
「騎士団の黒い制服だったわ。帯剣をしていなかったから護衛できていたわけではないと思う」
「騎士団なのね。間違いないわね?」
「ええ。月明かりだったけど、夜会服ではなかったから」
騎士団と聞いてうーんと唸った。唸りだしたアマンダを不思議そうに見ていれば、アマンダは教えてくれた。
「騎士団の制服を着て何人か参加していたけど、どの方も既婚者だったのよ」
「え?」
「だからきっと参加予定ではない方だったかもしれないわね。誰かの代理でエスコートしていただけかもしれないし」
エスコート、と聞いて胸が痛んだ。たまたまあの場にいて助けてくれただけで、彼にも素敵な恋人がいるかもしれない。二人の会話で恋人もいないものだと思ってしまったが、恋人になる前の女性がいても不思議はなかった。
がっかりして肩を落とせば、アマンダが慰めるようにエレオノーラの手をそっと包み込む。
「そうね、代理としてエスコートしたのなら主催者である伯爵夫人に挨拶はしているだろうから……リックに頼めばもしかしたらわかるかもしれないわ」
「お義兄さまに?」
アマンダの夫のリックは侯爵家の三男だ。ある茶会で出会ったアマンダと恋に落ちて、コルトー家に婿入りした。とても穏やかな性格でエレオノーラにも優しい。やや激しい性格をしているアマンダとは釣り合いの取れた相手だ。
「リックは文官で騎士団とは関係ないけど、彼のお兄さまが確か騎士団に所属していたわ。お願いすれば騎士団の人から探してくれるかもしれない」
「待って、お姉さま! お義兄様にそこまでしてもらうわけにはいかないわ!」
慌ててアマンダの言葉を遮った。名前も分からず、顔もはっきりとわからないのに、リックだけでなく挨拶しかしたことのないリックの兄の手を煩わすなんて、申し訳ない。
それに恥ずかしすぎる。ちょっと助けてもらったから気になるなんて……。
エレオノーラはアマンダに話したことを後悔し始めた。何を聞かれてもやはり胸の中に隠しておくのだったと今更ながらに思う。
「でもね、そこまで気になる男性を逃すのはもったいないわよ。これを逃したら次は一体いつになるのか……」
「いいの! お姉さまは何もしないで」
強い口調で拒否するエレオノーラに、アマンダはくすくすと笑った。
「顔を真っ赤にして可愛い」
「可愛くないわ!」
むっとして睨みつけてもアマンダは平然としていた。再び刺繍を手にすると、針を刺し始める。エレオノーラも気持ちを落ち着けて、続きを始めた。気持ちが乱れているせいか、刺繍を刺す手がやや荒くなる。
アマンダがいつまでも楽しそうにくすくすと笑っているのも気に入らないけど、何を言ってもますます揶揄われそうで言い返せなかった。眉根を寄せて、きゅっと唇を噛み締める。
「そんなに恥ずかしがることはないわ。少ししか話していなくても、相手が気になるかどうかは重要よ」
「気になるのはお礼をきちんと言っていないからよ」
どうしてもアマンダはエレオノーラの気持ちを特別なものにしたいらしい。それに反発して、ぶっきらぼうに言い返した。アマンダは特に気にせず聞きたくない言葉を続ける。
「気になると言うことは、恋になるかもしれない」
「相手の名前も分からないのに、恋なんて……」
「あらあら。名前なんてどうでもいいのよ。出会った時にどう感じたかだけよ」
「そんな物語のような」
「何を言っているの。恋なんてするものじゃないわよ。落ちるものよ」
楽しそうに言われて口を閉ざした。アマンダにこれ以上揶揄われるのは嫌だ。なんだか大切にしていた気持ちに傷がついたように思えて仕方がない。
「恋じゃない。だからこの話はおしまい!」
「エレオノーラ」
アマンダがもう少し情報を聞こうと身を乗り出したが、すぐに中断された。サロンへ二人の母であるコルトー子爵夫人が顔をのぞかせた。
「どうしたの? エレオノーラがそんなにも声を荒げるなんて」
「なんでもない!」
「アマンダ。エレオノーラに余計なお節介をしたのね?」
アマンダは肩を竦めた。
「お節介しないと進まないじゃない」
「そういうことじゃないのよ。それよりも、エレオノーラにお願いがあるのだけども」
コルトー子爵夫人がエレオノーラに視線を向けた。
「何?」
「予定がなければ、孤児院へ届け物をしてくれないかしら? すでに今日伺うと連絡しているのに、少し足を痛めてしまって」
「え! 大丈夫なの?」
二人の娘が心配そうに母の顔を見る。
「動けないわけではないから、大げさだと思うのだけど。医師が数日安静にしておくようにと言うのよ」
「わかった。わたしが届けに行くわ」
「ありがとう。引き受けてもらえてホッとしたわ」
この国の貴族の義務として孤児院の訪問があり、コルトー子爵家では毎月一度は家の者が必ず足を運ぶことにしていた。主にコルトー子爵夫人が訪問するのだが、エレオノーラも時間の都合が付けば一緒に訪れている。
「たまにはわたしが行こうかしら?」
「アマンダは商会の方と面会をしてちょうだい」
どうやらコルトー子爵夫人が休むことで、滞る仕事は幾つもあるようだ。エレオノーラは姉の強引な理屈を言われる間に、立ち上がった。
「では、行ってきますね。お姉さま、この刺繍は後で仕上げておくわ」
「なんだか逃げられた気分」
「アマンダは余計なことをしない。エレオノーラ、気を付けていってらっしゃい」
コルトー子爵夫人はアマンダを窘め、笑顔でエレオノーラを送り出した。