29.夜会の始まり
王太子夫妻が主催する夜会は、現実から切り離されたような美しさがあった。広いホールの天井にはシャンデリアがきらめき、壁には豪華な絵画が飾られている。静かに流れる音楽はとても心地よい雰囲気だ。貴族たちは華やかなドレスや正装に身を包み、互いに微笑みを交わしながら、社交の輪を広げている。
あまりにも華やかで、普段踏み入らない世界にエレオノーラの足が止まってしまった。王族主催の夜会にもエレオノーラは四女ということで社交界デビューの時にしか参加していなかった。あの時はとても緊張していて、周囲を見る余裕すらなかった。だが、今夜は違う。思わず周囲を意識してしまった。
彼女をエスコートしているヒューバートはそんな彼女に寄り添うように立ち止まる。
「……どうしよう。緊張してきたわ」
夜会に最小限しか参加しないエレオノーラの顔色は悪い。ヒューバートは励ますように彼女に優しく微笑んだ。
「大丈夫だ。俺たちは王太子夫妻から祝福を受けて、すぐに退出する」
「それで大丈夫なの?」
本当かしら、という気持ちも強い。ヒューバートは意外とエレオノーラを中心として動くため、最低限の事しかしない時がある。心から大切にされているが、妻としてそれでいいのかという不安もある。結婚したことで、自分の行動次第でヒューバートの評価にもつながってしまうことを強く感じていた。
「では一曲、踊ろう」
エレオノーラの心配を感じたのか、ヒューバートが突然提案してきた。ヒューバートと一度も踊ったことがないことに今さらのように気がつく。
「あまり得意ではないが、絶対に足は踏まない」
「もしかして、苦手なの?」
「変な気を持たせるのが嫌で、ダンスはほぼしたことがない」
愛想を振り撒くよりは、近づかないことを選びそうではある。ヒューバートの選択はよかったのか、わるかったのか。彼は伯爵家の令息、それでは逃げられない時もあったのではないだろうか。
「どうしても、という時はどうしていたの?」
「セロン侯爵夫人か、従兄弟の夫人たちに頼んでいた」
確かにセロン侯爵家の人たちなら、理解してくれる。徹底した避けっぷりに、エレオノーラは笑ってしまった。
「ふふ、今度セロン侯爵夫人にお話を聞いてみたいわ」
「つまらない話だから、聞かなくていい」
笑ったことで、緊張も程よくほぐれてくる。ヒューバートはゆっくりと歩き始めた。
「エレオノーラ」
艶やかな声がエレオノーラの名前を呼ぶ。振り返れば、そこにはシェリーがいた。シャンパンゴールドの体の線がはっきりとわかるマーメードラインのドレスを身に纏い、いつも以上に輝いている。首にはゴールドとダイアモンドをふんだんに使った首飾り、耳も手首も大ぶりの金の宝飾。
それにも負けない存在感に、目を丸くした。周囲も、ざわりとざわめいた。エレオノーラはすぐに笑みを浮かべると、優雅に見えるようにゆっくりとした動作で挨拶をする。
「ごきげんよう、シェリー様」
「ドレス、とてもよく似合っているわ」
「ありがとうございます」
エレオノーラはシェリーが勧めてくれた薄い青色と濃紺のドレスを身に纏っていた。ヒューバートは近衛騎士の盛装だ。二人の指にはお揃いの指輪が嵌められている。
「ねえ、周囲を見た? 嫉妬の視線が大変なことになっているわね。うふふ、とても面白いわ」
扇子を広げ、エレオノーラだけに聞こえるように囁く。
「そうですね。気が付かないように頑張っています」
「突撃しそうな雰囲気の人もちらほらいるわよ。ヒューバート様、絶対に彼女を一人にしないで」
「そうするつもりだ」
ヒューバートは重々しく頷いた。
「本当はわたくしが一緒にいてあげたいけれども。これ以上は逆効果になりそうだから」
逆効果とは、と首をかしげているうちに、マシューがやってきた。
「シェリー、こんなところにいたのか。探したぞ」
「あら、だって旦那様ったら、他の方とお話をしていたじゃない。わたくし、つまらなくて」
そう言ってシェリーはマシューに艶のある眼差しを向ける。エレオノーラは優雅にドレスを摘まみ、腰をほんの少しだけ落とした。
「お久しぶりでございます」
「ああ。そのドレスか? シェリーが見立てたというのは」
「はい」
「よく似合っている。シェリーは随分と君を気に入ったようだ。時々でいい、彼女と遊んでやってくれ」
親しげにこれからの事を話してから、二人は再び人ごみの中へと戻っていった。マシューの親し気な言葉に、エレオノーラに向ける眼差しには羨望がさらに強くなる。だが、先ほどのような侮っているものは鳴りを潜めた。
「すごい効果ね」
「あの方たちはわかっていてやっているんだ。さあ、そろそろ王太子殿下夫妻の所へ行こうか」
「はい」
エレオノーラはヒューバートの腕に手を預けると、ゆっくりと歩き始めた。
◇◇◇
二人そろって挨拶に向かえば、待っていたかのように王太子妃に歓迎された。淡い金髪に空色の瞳をした王太子妃はとても優しい笑みをエレオノーラに向ける。
ヒューバートがいつも以上に無表情に挨拶するのを見て、内心気が気ではなかった。こんなにもわかりやすい態度をしてもいいものだろうか。王太子妃のことをヒューバートは知っているからと思いたい。
「うふふふ。ヒューバートの仏頂面を夜会で見ることができるなんて」
わかりやすく、王太子妃が笑いをかみ殺す。
「もういいですか、いいですね。それでは失礼いたします」
「ヒューバート様!」
思わずエレオノーラは彼の腕を掴んでしまった。二人のやり取りを見ていた王太子妃は笑いをこらえきれずに、扇子で口元を隠しながら肩を震わせる。
「おかしいわ、ヒューバートってこんな顔ができるのね」
そんなやり取りをしているうちに、他の貴族と話していた王太子がこちらにやってきた。エレオノーラはライアンに頭を下げる。
「ああ、畏まらなくていい。二人ともおめでとう。お披露目はいつだったかな?」
「三か月後です。家族と親しい友人たちを招く予定です」
ライアンは気安い感じでヒューバートにお祝いを述べ、お披露目について言及する。ヒューバートは決められたセリフを読むように、感情を込めずに答えた。ライアンはニヤリと笑う。
「ヒューバート、もう少しちゃんと仮面を被れ。不敬すれすれだぞ」
「それは申し訳なく」
しれっと申し訳ないような雰囲気もなくヒューバートは頭を下げた。ライアンは砕けた様子で笑いながら、彼の肩を叩いた。
「弟に休暇をきちんと取らせるように言っておく。それで今までのことはチャラにしてくれ」
最後におめでとうと祝福され、挨拶が終わった。短い間だったがとても緊張して、王太子夫妻が次の貴族と会話を始めて、ようやく力が抜けた。
「これから知り合いに紹介するから、もう少し頑張ってほしい」
「ええ」
とにかくこの夜会の一番大切な仕事が終わった。エレオノーラはヒューバートの腕に手を置く。彼は顔見知りの貴族たちにエレオノーラを紹介して回る。王太子夫妻にも祝福されていたことを見ているので、大いに祝福をされた。想像以上に温かく受け入れられて、エレオノーラの顔にも自然と笑みが浮かぶ。
最後の人と挨拶をした後、ゆったりとした足取りでヒューバートはバルコニーへと移動する。そこにはオーランドがいた。
「エレオノーラ夫人、おめでとう」
にこにことほほ笑まれて、エレオノーラは膝を折り腰を落とした。挨拶を沢山したので疲れていたが、エレオノーラはヒューバートの妻として認めてくれたオーランドには最上位の敬意を示したかった。
「ありがとうございます」
「うん、よかった。これ以上ヒューバートが不機嫌になると、仕事がやりにくいからね」
本気だか冗談だかわからないことを言って、オーランドは声を立てて笑う。ヒューバートが面白くなさそうな顔をした。そんな彼を見て、オーランドはにやにや笑う。
「面白いね。女嫌いの騎士だと言われていたのに。虎視眈々と狙っていた令嬢達の阿鼻叫喚な顔は見ものだった。何人か、発狂するかと思ったけれども案外大人しかったね」
ここにも恐ろしい嫉妬の眼差しを楽しんでいる人がいた。王族というのは大した精神力だと感心する。
「殿下、笑えません」
「ははは、ごめん。揶揄うのはここまでにするよ。さて、エレオノーラ夫人、少しだけご主人を借りてもいいかな?」
「はい、大丈夫です」
申し訳なさそうに切り出したオーランドに頷いて見せる。ヒューバートは眉を寄せ、警戒の色を見せた。
「どういうことです? 今夜はエレオノーラと一緒にいるつもりでしたが」
「んー、理由は色々あるけれども、まあ、仕事だ」
仕事と言われてしまえば、ヒューバートには拒否することはできない。オーランドは肩を竦めた。
「面倒な人が問題行動をしていてね。上手く逃げているのか、なかなか見つからない」
「捜索なら、俺じゃなくてもいいはずです」
「警備をこれ以上動かすと、悪目立ちするし、ヒューバートを餌にしたらすぐに捕まえられると思って。騒動になる前に捕まえて離宮に戻したい」
ぼかした表現だったが、事情を知る人からすれば該当する人間は一人しかいない。ヒューバートはますます険しい顔になる。
「だが、エレオノーラを一人にするのは」
「ヒューバート様」
渋る彼の両手をぎゅっと握った。
「わたしは大丈夫です。見えるところにいますわ」
「エレオノーラ」
「何を言われても、笑顔で受け流します」
心配ないと、笑顔で言えばヒューバートは大きく息を吐いた。
「少し離れたところにローサ先輩がいる。ローサ先輩以外にも何人も警備にあたっている騎士がいるから。何かあったら声を上げてほしい。彼らがすぐに駆け付ける」
そう説明しながら、護衛のいる位置を視線で教えてくれる。エレオノーラもさりげなくそちらを見れば、近衛騎士の制服を着た護衛達が見えた。少し離れているがローサもいる。ローサはこちらに気が付くと、ウィンクして見せる。いつもと変わらないローサの様子に、エレオノーラは笑みを浮かべた。
「大丈夫そうです」
「すぐに戻る。ここで待っていてほしい」
ヒューバートはそう言いながらも気が進まないようで、なかなか動こうとしない。いつまでも彼女の手をぎゅっと握りこんでいた。切なげに目を細めて見つめらる。
「……早く戻ってきてね」
ちょっとだけ背伸びをして彼の頬にキスを贈った。エレオノーラからキスしたことに驚いたのか、ヒューバートが固まる。
「明日、休み貰ってくる」
「休み?」
「用事を済ませて、早く帰ろう」
どうやらいけない火をつけてしまったらしい。ヒューバートは苦笑しているオーランドと共に移動した。