24.バイオレットの恋
コンスタンスの侍女として大国にやってきた。国からついてきた侍女はバイオレット一人だけ。やや心細いと思いながら、コンスタンスの後ろに控える。目の前にはコンスタンスを出迎えた王子と使用人たち。
その人数に圧倒される。この中でやっていけるだろうか、そんな不安な気持ちがもたげてきた。やはり祖国に残った方が良かっただろうか、そんな後悔をし始めた時に、見つけてしまった。バイオレットと同じように王子の後ろに静かに控えている彼を。
オーランドの後ろに立つ彼は硬質で、整った美貌がさらに人間らしさを感じさせない。だけど、バイオレットの心をぎゅっと鷲掴みにした。
無表情で冷めた目をした彼が表情を崩したらどんな感じになるのだろう。そんな妄想に囚われてしまうほど。
オーランドはコンスタンスに自分の護衛を紹介する。バイオレットもそれで彼の名前を知った。
「ヒューバート様」
声にもならない吐息で彼の名前を呟けば、心がときめいた。
オーランドがコンスタンスとお茶会をすると、バイオレットは彼が見える位置に控えた。あまり露骨にならないように気を付けながら、彼の表情が少しでもよく見える位置に立つ。
オーランドの護衛をしている間、一度も表情を崩さない彼であったが、バイオレットの心の中では様々な感情を見せている。想像上の彼はバイオレットにだけ気を許していた。
「バイオレット、ヒューバートに恋しているでしょう?」
ある日の午後、主であるコンスタンスは楽し気に質問してきた。不意打ちの質問に、お茶を淹れようと手に持っていたカップが滑り、ソーサーに当たる。かしゃんという音を立てたカップを気にしながら、座ってにこにことこちらを見ているコンスタンスに視線を向けた。突然何を言い出したかと、狼狽えながら否定する。
「そんなことは……」
「本当に? 見ていてわかるわよ」
「え?」
「だってバイオレットったら、わたしとオーランド様とのお茶会の時、ヒューバートのことをずっと見ているじゃない」
バレているとは思っていなかったバイオレットは息を呑んだ。あまり視線を向けないように気を付けていたつもりだったが、どうやらそれは本人ばかりで視線は彼に固定されていたらしい。バイオレットは驚きの事実に固まってしまった。くすくすとコンスタンスがおかしそうに笑った。
「とてもいいと思うわ。前は目を引いただけ、と言っていたけど。あんなにも熱心に見つめていれば本気だとわかるわ」
自分の気持ちを知られて、恥ずかしさに穴に入りたくなる。体を縮こませて、俯いた。
「別に咎めているわけじゃないのよ。わたしがオーランド様、あなたがヒューバートと結ばれたらこんなに幸せなことはないもの」
どこかうっとりとした顔つきで言われて、戸惑う。
「ヒューバート様はすでに婚約者がいらっしゃるとうかがっています」
躊躇いがちにこの国の侍女たちから聞いた情報を伝えれば、コンスタンスは不思議そうな顔をする。
「わたくしも聞いているわ」
「ですから」
「まだ婚約者でしょう? しかも爵位はない者同士だし、婚約して間もないわ。婚約破棄をしたところで問題はないと思うの。貴女と結婚した方がヒューバートも出世につながるでしょう。それに相手の女性は子爵家出身。貴女と同じじゃない」
そういうものなのだろうか。
バイオレットはコンスタンスの言葉を胸の中で繰り返した。すっきりしない気持ちがこみ上げてくるが、そのモヤモヤが何であるかわからない。
「貴女が婚約破棄された時のように、外堀から埋めてしまえば大丈夫よ」
婚約破棄された。
ぎゅっと手を握りしめた。今も彼との破局を思い出せば、苦しくなる。バイオレットの心に気がついたのか、コンスタンスは慌てて言葉を付け加える。
「きっとヒューバートと結ばれるためだったのよ。ね、前向きに考えましょう? わたくし、あなたの恋を応援したいわ」
にこりとほほ笑まれて、ぎこちない笑みを返した。
◇◇◇
バイオレットが祖国で婚約したのは十歳の時だった。相手は男爵家の嫡男で、バイオレットの実家はアルメスト子爵家。爵位はバイオレットの実家の方が高かったが、爵位を継げる相手に嫁げるということが重要だった。この縁を結んだ時のアルメスト子爵の嬉しそうな顔は今でも覚えている。
彼との仲は順調だった。二人とも同じ年で、何をするにも一緒。
同じ環境で同じものを見て、時には言い合ったり、笑いあったり。政略結婚であるにも関わらず、お互いに心が許し合える存在だった。
その二人の仲に陰りが出てきたのは、十六歳の時だ。丁度、行儀見習いとしてコンスタンスの侍女になった時だった。仕事も初めてで、覚えることも多く、失敗ばかりしていた。挽回しようと必死になって学んでいるうちに、彼とのことが疎かになった。
疎かになっても、きっと彼ならわかってくれる。そんな気持ちが強かった。彼の存在を軽く見ていたわけではないが、バイオレットも仕事に必死で余裕がなかった。
気がつけば、二年、連絡を取っていない状態だった。仕事に夢中になりすぎて、実家にすら顔を出していなかった。ようやく一息ついたので、今までのことを聞いてもらおうと意気揚々と実家へ戻った。
実家に戻れば、すぐに彼がやってきた。久しぶりに会った彼は少しよそよそしい。
「どうしたの? 何か変よ?」
彼の態度が不思議でそう尋ねれば、彼は大きく息を吐いた。
「君との婚約、破棄したい」
「え? 何を言っているの?」
理解できない。
何故、婚約破棄?
バイオレットの頭は彼の言葉を拒絶するようにずきずきと痛み始めた。
「アルメスト子爵にはすでに了承してもらっている」
「お父さまが? どういうこと?」
驚いて立ち上がれば、丁度アルメスト子爵が部屋にやってきた。どうやら彼が婚約破棄を申し出るのを待っていたようだ。
「どうしてだと? お前は仕事の方が大切なんだろう?」
「それは、やりがいのある仕事だとは思っているけど。結婚すればやめるつもりだし、婚約破棄するつもりなんてないわ」
彼はじっと娘の顔を見つめた。
「婚約を破棄されても仕方がないことをお前はしたんだ」
「何の話?」
話を聞けば、どうやらバイオレットが必死になっていた二年間、何度も何度も彼は手紙を送ってくれたらしい。婚約者も手紙が一度も送られてきていないと、アルメスト子爵に何度か相談したそうだ。ところが事情を聞きたくともバイオレットは実家にも帰ってこない。心配したアルメスト子爵がバイオレットに手紙を出しても、忙しくて帰れないとばかり。
「礼儀を欠いたのはお前の方だ」
「そんな! 会いに来てくれたらよかったのに! それにお父さまの手紙は貰っていたけど、彼からの手紙は受け取っていないわ!」
バイオレットがそう叫べば、アルメスト子爵はため息を付いた。不愉快そうに眉間にしわを寄せ、娘から視線を逸らす。
「王女付きの侍女のお前が、王族主催の夜会に参加できなかった彼が何と言われているのか、本当に気がつかないのか?」
王族主催の夜会、と聞いて思い出す。年に数回開催される王族主催の夜会は、十五歳で社交界にデビューしてからずっと彼のエスコートで参加してきた。王族主催の夜会は特別で、婚約者と同伴することが条件なのだ。バイオレットは体を震わせた。
「え、彼は参加しなかったの?」
そんな言葉がつい零れた。その言葉に、彼がパッと顔を上げた。彼の表情はとても苦いものだった。
「なんて自分勝手な! いくら手紙を出しても返事も来ないのに、どう手を打てと? 一言、王女についているからと伝えてもらえば、彼はそれを理由に一人でも参加できたのだ」
さらにアルメスト子爵が言い募ろうとしたのを止めたのは彼だった。彼はどこか諦めたような顔をしていた。
「これ以上はもういいです。婚約破棄も伝えましたので、僕は帰ります」
彼はバイオレットと言葉を交わすことなく、屋敷から去っていった。アルメスト子爵は申し訳なさそうな様子で彼を見送ってから、お前は好きに生きなさい、と一言だけ言っただけだった。
自分に起きたことが信じられなくて、茫然として城に戻った。そして色々と調べてみれば、彼と新しく縁を結んだ男爵令嬢が色々と手を回していたことが分かった。彼女は彼の又従兄妹で、彼からの手紙はその男爵令嬢が隠していた。当然、バイオレットには手紙が届くわけがない。
もちろんバイオレットが定期的に手紙を出していれば、そのようなことはすぐに発覚しただろう。だが、バイオレットは手紙すら出さなかった。手紙が来ないから、と言い訳して。
今は知らない人がいないほど彼と彼女の噂も広まっていた。夜会も茶会も、バイオレットが参加しないから、彼は夜会のたびに誰もエスコートせずに一人で参加していた。
その隙を突いたのが男爵令嬢だ。彼のことを気遣うように血縁関係を盾に近づき、一緒にいたようだ。もちろん、婚約者のいる男性にすり寄る行為ははしたないのだが、その頃には婚約者が彼を放置していることが知れ渡っていて仕方がないとまで思われていた。
処理しきれない現実に、頭がどうにかなりそうだった。
「バイオレット?」
意気消沈したバイオレットを気遣い、慰めてくれたのがコンスタンスだ。コンスタンスは彼女の混乱が落ち着くまで、失敗しても特に注意しなかった。侍女長にも話が伝えられていたのか、呆れながらも早く立ち直るようにと侍女長の言葉をもらった。
バイオレットはどんな状態であるか時間をかけて整理して、ようやく落ち着いた。そしてどうしても手紙が届かなかったことが自分だけの非だとは思えなかった。悩んだ挙句、バイオレットは彼と直接話そうと決心した。
彼に連絡を取り、了承を得たので会いに行った。
二人だけで話すつもりだったのだが、思わぬ訪問者が来た。彼と縁を結んだ男爵令嬢だ。
「あの、心配で」
彼女は不安そうにしながらも、彼の隣にぴったりとくっついていた。彼も困ったような顔になったが、仕方がないと同席を許してほしいとバイオレットに告げた。
手紙が届いていなかったことなど言いたいことは色々あったが、二人の様子を見ていて言葉を飲み込んだ。バイオレットと彼は兄妹のように仲が良かったが、熱く見つめられたり、彼を思ったりすることはなかったことに気がついた。だから二年も放置していても、特に気にしなかった。
きっと結婚してもうまくいかなかった。
そう思えるほどの気持ちの差がそこにはあった。
「……お幸せに」
それだけを告げて、バイオレットは逃げるようにして城に戻った。それからは王女の侍女として側にいることを決めた。結婚は考えなかった。一度、婚約破棄された女性に良縁があるとは思えなかったのだ。不本意な結婚をするぐらいなら、コンスタンスに仕えていた方がいい。バイオレットは王女付きの侍女となったことを誇りにますます仕事にのめりこんだ。
結婚なんてしないと、祖国を離れコンスタンスの嫁ぎ先までついてきた。
そこで出会ってしまったのだ。
理屈なんてない。
彼だけが輝いて見えた。
コンスタンスは応援したいと言った通り、時折ご機嫌伺に来るバックリー男爵にそれとなく聞いていた。余計なことはしなくてもいいと思いながらも、嬉しいと思ってしまう。
バイオレットの中で死んでいたはずの女の気持ちが目を覚ます。
今まで王女付きの侍女として恥ずかしくない程度の身だしなみしか気にしていなかったのに、髪の香油を変えてみたり、リボンを毎日変えてみたり。侍女の制服は決まっているからドレスを選べないが、少しでも彼に綺麗に見せたくて手入れをすることが増えた。
「とても素敵よ。今日は直接オーランド様にお願いしてみるわ」
「え?」
「だって、遠回しにしていても全く気が付いていないみたいだから。はっきりお願いするしかないわ」
バイオレットはドキドキしながら、オーランドとの交流会を心待ちにした。
「オーランド王子、どうか護衛騎士を貸していただけませんか?」
コンスタンスは改めた様子で切り出した。バイオレットは期待の眼差しをヒューバートに向ける。だが、ヒューバートからは視線が返ってこない。仕事中だし、きっと照れているのだろうと思っていれば。
「なるほど、王女殿下は貞操観念が緩いのですね」
ヒューバートの強烈な拒否を食らった。ガツンと頭を殴られたような衝撃だった。その後、彼が何を言っていたのか、覚えていない。ただコンスタンスを窮地に追いやってしまったことだけ理解した。
オーランドが立ち去った後、コンスタンスが乱暴にカップを床に払った。カップの割れる甲高い音が部屋に響く。
「何故、護衛騎士ごときにわたくしがあんなことを言われないといけないの!?」
「コンスタンス様、落ち着いて」
激高した王女を宥めようと、声を掛ける。だが、コンスタンスの怒りは収まらなかった。
「そうだわ。別に事実でなくてもいいのよ」
バイオレットは突然怒りを消したコンスタンスを見つめた。
「貴族の噂なんていくらでもコントロールできるわ。ふふ、追い詰められたらどんな顔をするのかしら」
あまりよくない感情を読み取り、バイオレットは真っ青になった。
「コンスタンス様、お願いです。もうこれ以上は」
「ああ、心配しなくて大丈夫よ。わたくし、すごく上手にやれるから」
コンスタンスはバックリー男爵を呼び出すように指示をした。