23.突然の結婚
気持ちの高ぶりのまま夜を一緒に過ごした翌日、扉を叩く激しい音で目を覚ました。
「おはよう、エレオノーラ」
包み込むようにして一緒に寝ていたヒューバートはまだ寝ぼけてぼんやりとしているエレオノーラの頬にキスを落とす。
「おはようございます……」
エレオノーラの頬にかかる髪を大きな手が優しく耳にかけるのを見ているうちに、意識がはっきりしてくる。目の前にはあり得ない距離感のヒューバート。一気に記憶がよみがえった彼女はそのまま布団の中に隠れた。
「うん、可愛い」
布団にくるまれたまま抱きしめられて、エレオノーラはさらに小さくなった。そんなことをしていると、激しく扉を叩く音がする。
「ヒューバート様、お時間ですよ!」
扉の向こうから聞こえてきたのはカレンの声。エレオノーラは慌てて布団から顔を出した。
「時間?」
「そう。これからオーランド殿下の執務室に行く」
「まあ、そうなの。気をつけて」
いってきて、と最後まで言う前に、ヒューバートが違うと笑った。
「エレオノーラも一緒だ」
「え?」
理由を聞く前に、ヒューバートはベッドから降りてしまう。一糸まとわぬ姿に、エレオノーラの悲鳴が響き渡った。
◇◇◇
カレンに急いで支度を調えられ、エレオノーラは機嫌のよいヒューバートと共に王城に向かった。こんなにも距離が近かったかしら、と首をかしげてしまうほど、ヒューバートはとても近い位置にいる。彼の手は腰に添えられ、見下ろす目はとても甘い。恥ずかしくて見返すことができない。それでもチラリと目を向ければ、微笑まれる。
氷の騎士はどこに行ったのだと言わんばかりの様子に、エレオノーラは恥ずかしさと嬉しさが混ざって、走ってどこかに行きたいぐらいだ。
オーランドの執務室に入れば、オーランドの他、義兄のリックとエイル伯爵がすでに揃っていた。思わぬ人たちもいて、目を見張った。
「分かりやすく幸せそうで、何より」
にやにやとしたオーランドにそんなことを言われるて、エレオノーラは現実に戻ってきた。慌てて挨拶をしようとしたが、それをオーランドが止める。
「ああ、大丈夫。今日は特別な日だから。式をする前に、結婚になってしまって申し訳ない」
結婚の言葉が出てきて、エレオノーラは戸惑った。そんな彼女を見て、リックが困ったようにヒューバートを見る。
「説明しなかったのかい?」
「時間がなくて」
「……なるほど」
リックは呆れたようにため息をついた。
「浮かれてしまうほど幸せということで、こちらにサインしてもらおうか」
そう言って、オーランドは執務机の上に書類を広げた。
「これは君たち二人の結婚の誓約書だ」
「どういうこと?」
「ローサ先輩とセロン侯爵夫人が昨日あれから根回しをしてくださった。俺としても横やりが入る前に、さっさと結婚してしまいたい」
今までの事を思えば、婚約者の立場では弱いという事だろうか。
エレオノーラの疑問はオーランドによって肯定された。
「今、私の婚約者候補として王女が来ている。一緒にやって来た侍女がヒューバートに横恋慕していてね。面倒くさくなる前に、結婚させようということになった」
オーランドの口調は穏やかでありながら、冷ややかに響いた。もしかしたら王女とその侍女にとても怒っているのかもしれない。
エレオノーラはヒューバートを見上げた。彼は頷き、ペンを持つと書類に署名する。エレオノーラもそれに続いて自分の名前を書いた。
「リックとエイル伯爵はこれを陛下に持っていってくれ。話はすでにつけてあるから、すぐに許可をもらえるはずだ」
「わかりました。それではこれで失礼します」
その話し方から、一度にすべての許可をもらうためにリックとエイル伯爵がいたようだ。二人は書類を不備がないか再確認してから、退出の挨拶をする。
リックはエレオノーラの前に立つと、優しい笑みを見せた。
「エレオノーラ、結婚おめでとう。幸せにおなり」
「ありがとう、お義兄さま」
祝いの言葉を告げられて、急激に現実が彼女を包み込んだ。急な決定に気持ちが追いついていないが、それでも祝福は嬉しい。思わず笑みを浮かべると、今度ゆっくり話そうと告げられた。二人を見送った後、部屋の空気が緩んだ。
「ああ、これで何があってもヒューバートは暴れない。よかった」
「何も起こさないでください」
ほっとしたオーランドに突っ込んだのはヒューバートだ。オーランドは申し訳なさそうにエレオノーラに目を向ける。
「実はもう一つ、大変なことがあるんだ」
その言葉と共に、ノックもなしに扉が開いた。
「待たせたな」
驚いて顔を扉の方へ向ければ、上質な騎士団の制服を着たがっちりとした体格の男性がいる。年は四十歳を超えていないだろうか。
茶金の短髪に碧眼の彼の醸し出す空気に押されて、思わず体が震えた。
「叔父上、あまり怖がらせないでください」
「そんなつもりはない」
オーランドが叔父上、と声をかけたのを聞いて、エレオノーラは彼が誰であるかわかった。
王弟であるマシュー・オニール公爵。マシューは騎士団の総団長を務めている。
内心慌てながらも、少しでも優雅に見えるよう姿勢を正し、マシューに向かって右手を軽く胸に当て膝を折った。王族に対する正式な礼だ。
「君がヒューバートの嫁か。名前は……」
「エレオノーラと申します」
声が震えないように気を引き締めながら、目を伏せたまま答える。しばらくじっと見つめられていたが、突然ふっと空気が軽くなった。そして、くつくつと笑われた。笑われた理由がわからず、疑問ばかりが頭の中を駆け巡る。
「顔を上げてくれ」
許しを得て体を元に戻す。背筋を伸ばせば、マシューがにやにやとエレオノーラを見下ろしていた。頭のてっぺんからつま先まで、値踏みされて居心地が悪い。緊張しながらじっとしていた。
「夜だったからよくわからなかったが……こういうのがタイプだったのか。道理でヒューバートがあいつの誘惑にのらないわけだ」
「え?」
夜、と聞いて真っ白になる。ヒューバートがため息を付いて、エレオノーラを引き寄せた。そっと包み込まれるように抱き寄せられて、少しだけ思考が戻ってくる。
「夜会の夜、エレオノーラが見た逢引きは王弟殿下だったんだ」
「えええ?」
驚きに目を大きく見開いた。ヒューバートと出会ったあの夜、身分が高い人だと思ったこと、怖い人種だという事が正しかったのだと、どうでもいいことを思った。
「叔父上も来たことだし、そろそろこれからのことを話そうか」
オーランドは長椅子に座るようにと促した。エレオノーラはヒューバートと並んで座り、向かいの席にはオーランドとマシューが座る。
「聞いていると思うが、ヒューバートが王女の侍女に狙われていてね」
オーランドは何でもないことのように話し始めた。エレオノーラはひどく真面目な顔をして耳を傾ける。
「君たちの結婚は私が許可しているんだ。それなのに自分の思い通りになると思っている。まだ王女と私は結婚していないから、彼女は賓客であってこの国の者ではない。勝手に秩序を乱されるのは困るんだ」
それもそうだと頷いた。我が国の王族の許可したものを、他国の王女が口を出すなどあってはならない。話を聞く限り、どうやらそれがよくわかっていない印象だ。
「ヒューバートに粘着する女性というのはいつも過激なんだよ。ヒューバートだけではどうにもならないから、先に手を打とうということになった」
「粘着……」
言葉が口をついて出た。昨日、ヒューバートから話を聞いてはいたものの、話半分に聞いていた。エレオノーラは粘着されている様子を実際に見たことはないのだ。オーランドが認めるほどなのだと実感する。
「一か月後、王宮で行われる夜会がある。そこで君たちの結婚を王太子夫妻が祝福する。祝福されている二人を見れば、貴族たちも噂話をしなくなるだろう」
「ありがとうございます」
何も考えずに頭を下げた。どう考えても、特別な対応だ。
「そう畏まってお礼を言われるとちょっと心苦しい」
顔を上げるように言われて、オーランドは困ったように笑っていた。理由がわからず、ヒューバートを見ればこちらは苦虫を潰したような顔をしている。
「初めて顔合わせをした時に、これは不味いなという反応があったんだよ。だから、ヒューバートを外すことで回避することができた。それをあえてしなかったんだ」
あえて、というところを聞き逃さなかった。見なかったことにすることで、オーランドにとって都合のいいことがあったのだと理解する。オーランドは謝罪を口にはしなかったが、それでもその表情から申し訳ないと思っていることが見て取れる。
エレオノーラは言葉にならない謝罪を受け取ると、頷いた。
「どうぞこれ以上、気にしないでください」
「そう言ってもらえると助かる」
ほっとした顔で微笑まれて、どれだけ彼が気に病んでいたかがわかる。
「こちらはついでの話だが。事実無根の噂を流していた貴族はすでに対処した。これからあのような噂は二度と流れない。安心してほしい」
マシューがそう付け加える。何か楽しいことがあるのか、獲物を見つけたような獰猛な笑顔が浮かんでいた。その笑顔に、まだ何かあるのだろうと思い至った。でもそれをエレオノーラは聞く立場にない。
「お心遣い、ありがとうございます」
エレオノーラが言葉にしたのは、お礼だった。
ヒューバートと別れろと言われなかったのだ。結婚を許され、祝福された。さらに夜会で祝福までいただける。
エレオノーラにとって十分だった。たとえこの一連の出来事ですっきりしなくても。
「もし困ったことがあれば俺の所へ相談に来るがいい」
「遠慮します」
ヒューバートがエレオノーラよりも先に断った。驚いて彼を見れば、どことなく不満げな顔をしている。
「閣下が口を出せば、もっと混乱がひどくなります」
「場合によってはそうなるけどな。でも十分後ろ盾にはなると思うぞ」
豪快に笑いながら、マシューはエレオノーラに遠慮せず言いに来いと、もう一度、言い聞かせるように告げた。