22.久しぶりの二人きり
「はいはい、いちゃいちゃはそこまで」
ぱんぱんと手を叩かれた。ここは近衛騎士団棟の廊下。ヒューバートがここ連日荒れていたのもあって、心配そうに出てきていた事務員たちや騎士たちがこちらを見て、硬直していた。聞こえる呟きから、ヒューバートの態度がいつもと違うことに驚愕しているようだ。
エレオノーラはようやく冷静になって、そろりと辺りを見回す。
「は、恥ずかしい……」
ヒューバートにぎゅうぎゅうに抱きしめられて、エレオノーラも今までの寂しさもあって、つい気持ちが高ぶってしまった。自分がいかに恥ずかしい真似をしたのか理解すると、顔が真っ赤になる。
そんなエレオノーラを見て、ローサがにこにこした。
「すれ違っていたらどうしようと思っていたけれども、大丈夫そうだ。よかった」
「ちっともよくない。ただの結果論だ。これ以上酷い状況になっていたら、潰している」
「こら、物騒なことは言わない」
ローサは困った顔でヒューバートを諫めると、エレオノーラに聞いた。
「何か聞きたいことある?」
どこまで聞いていいのだろう、とちらりと抱きしめているヒューバートを見上げる。
「……俺が説明する」
「そうか。じゃあ、後から疑問が出てきたら、聞いてほしい」
「わかりました」
セロン侯爵夫人はほっとした様子で、ローサに聞いた。
「この後、ヒューバートの時間は大丈夫なのかしら?」
「ええ。仕事はもう終わっています。ここから出られないのは、不測の事態に陥らないためなので」
「そう。では、馬車で移動するなら問題ないわね。エレオノーラはヒューバートに新居を案内してあげて。まだ彼、見ていないでしょう?」
エレオノーラは突然新居の話になって瞬いた。セロン侯爵夫人はにこにこして続ける。
「わたくしは少し城でやることがあります。折角だから、二人で過ごしなさい」
「ああ、それならついでにヒューバートの望みもかなえようか」
ローサも何か思いついたのか、とてもいい笑顔になる。ヒューバートが不審そうに眉を寄せれば、ローサに耳打ちされた。ヒューバートはその内容にますます険しい顔になる。
「本当に?」
「多分、通る。準備しておくから、明日の昼前に二人で戻ってきてほしい」
「わかった」
仕事の話だろうかと、エレオノーラは黙って見守っていた。
「行こうか」
ヒューバートに手を繋がれ、二人は馬車止めまで移動した。
◇◇◇
馬車では二人きり。
カレンは気を利かせて、御者の隣に座っている。本当に二人だけの時間だ。
「ヒューバート様とこうして一緒にいられるだけで、幸せだわ」
数か月ぶりの逢瀬に、エレオノーラは会えない毎日に辛いと感じていたことに気が付いた。彼からのメッセージは届いているのだから、仕事なのだからと気が付かないうちに我慢をしていたようだ。
「すまない」
「近衛騎士の妻になるのは、こういうことなのだと実感したわ」
近衛騎士の妻になるとはどういうことか、改めて考えさせられる。
家を空けることが多いことも、職務内容を話せないのも納得している。セロン侯爵夫人やローサから話を聞いていて、彼の妻になることがどういう事であるか、覚悟していた。
覚悟していたのに、実際にその立場に立ってみればとても寂しいものだった。
一人で気を張り、顔を少しも見られないことで不安が徐々に育っていく。エレオノーラの今までの人生では知ることのない感情だ。でも、寂しいからと言ってヒューバートとの結婚をやめたいとは思わない。それ以上に彼と一緒に人生を歩みたい気持ちが強い。
二人黙って寄り添っているうちに、馬車が新居へと到着した。先にヒューバートが馬車を降り、エレオノーラに手を差し出す。
「手を」
「ありがとう」
彼の手に自分のを預け、馬車から降りた。
新居に入れば、ヒューバートが目を見張る。彼がこの屋敷に来たのは、一番最初に内覧した時だけ。だから、屋敷の中が整えられていることにすぐに気が付いた。感心したように屋敷の中を見回し、居間に入る。
居心地の良い長椅子、趣のあるテーブル、存在を主張しすぎないカーテンは真新しい。
庭を見ることのできる大きな窓は外の景色を見事に切り取っており、見る人の心を穏やかにする。
どれもこれも、エレオノーラの好みで整えられたくつろぐための空間。
ここだけではない。屋敷全体がエレオノーラの好みで仕上げられていた。ヒューバートの表情が柔らかいのを見て、エレオノーラはほっとする。居間だけでなく、他の部屋も見てもらいたい。
「お茶を用意いたします」
カレンが居間から下がると、二人きりになった。ヒューバートはエレオノーラと並んで座る。
「ああ、ようやく会えた」
ヒューバートはエレオノーラをぎゅっと強く抱きしめた。彼はエレオノーラの目元に小さなキスを幾つも落としながら、謝罪を口にする。目元を舐められ、体が痺れたように震えた。
広い胸に頬を付け、体を預ける。
「仕事は……本当に大丈夫なのですか?」
「心配いらない。つまらない理由で呼び出したら、今度こそ辞めてやる」
強い口調に驚いて、彼を見上げる。よほど今までの制約が気に入らなかったのだろう。その目には怒りが見え隠れしている。
「あと結婚まで少しだというのに、エレオノーラに会えない、手紙も一言だけ。変な噂まで出始めて。これ以上、我慢できるわけがない」
「噂、どんな内容だったのですか?」
こうしてヒューバートがはっきりと意思表示をしているのだから、噂を聞いても笑い飛ばせる。そんな気持ちで聞いてみたのだが、ヒューバートの顔が一気に渋いものになった。
「聞いても不愉快なだけだ」
「でも、他から聞くよりも知っていた方がわたしの気持ちが楽です」
噂があることを知っていてもその内容を知らなかったら、気がつかないうちに不安になる。そう訴えれば、嫌々ながらも語ってくれた。
「わかった。大前提だが、全て噓だから」
「わかっているわ」
念を押されてから、噂の内容を聞く。
王女の侍女と二人で王都の街に王女が行かせたがっていること。はっきりと断れば、行ってもいないのに二人で手を繋いで街を歩いていたといったような噂が出始める。ヒューバートが一日中城で仕事をしていると知っている人たちが、その噂を否定してくれているのだが、何度も何度も同じ噂が流れ続ける。
そのような事情から、ヒューバートは必ず近衛騎士団棟にいる羽目になった。少しでも、一人でいる時間をなくすために。
「そこまでしなくてはいけないの? 近衛騎士団の寮でもいいと思うけど」
「寮までの距離が問題らしい。正直、ローサ先輩が面白がっているせいで、やり過ぎているところもある」
疲れたようにヒューバートはため息をついた。
「本当にふざけた女だ。他国の貴族の娘でなければ、徹底的に叩きのめしていた」
「そのようなことをしたら、外交問題になってしまうわ」
「そもそも、その認識が間違っている」
ヒューバートは少しだけ体を離すと、考えるように黙り込んだ。エレオノーラは距離ができたことで彼をきちんと見ることができた。やつれた印象があったが、それ以上にひどかった。随分と顔色が悪く、頬がこけている。髪も艶がなく、まとまりがない。そして何よりも殺伐とした雰囲気が彼の心情を表していた。
「王女の祖国はこの国に対して傍若無人に振舞えるほど強い国ではない。我が国に干渉したとして糾弾されてもおかしくはないんだ」
「そんなことしたら……戦争になりませんか?」
政治のことはよくわからないが、国同士がぶつかれば簡単に戦争に発展する。それは過去の歴史からも明らかだった。
「戦争にはならない。あの王女の国は我が国に比べたら赤子のような軍事力しか持っていない。向こうも戦争をするくらいなら、王女を切り捨てるだろう」
はあっと大きく息を吐くと、ヒューバートは再びエレオノーラを強く抱きしめた。
「エレオノーラは結婚するのが嫌になった?」
「嫌ではないけれども……一人で準備をしていると本当に結婚できるのかと不安だったわ」
本音を漏らせば、ヒューバートはさらに腕に力を入れて抱きしめた。ぎゅうぎゅうに抱きしめられて苦しいぐらいだ。でもその苦しさが今ここにヒューバートがいると実感させてくれる。エレオノーラも背中に腕を回し、ぎゅっと抱きしめ返す。
「どうしたら不安を和らげられるだろうか」
「ヒューバート様の問題じゃないわ。わたしがもっと強くなればいいの」
「……俺としては強すぎるのはあまり望まない。できれば今ぐらいでいてほしい。でも心が折れない程度には強くなってもらいたい」
その細かな要求に、くすくすと笑った。
「なんて身勝手なの」
「知らなかったのか。男はいつだって身勝手なんだ。こうして温かく迎え入れてくれる場所があるのがとても嬉しい」
ヒューバートはぐるりと部屋を見回した。エレオノーラも一緒になって部屋に視線を向ける。
「一人で準備するのは大変だったろう。ありがとう」
「そうね、できれば一緒に選びたかったわ」
やや咎めるような言葉が出てしまったが、ヒューバートは嬉しそうに笑った。
「例えば?」
「お揃いのカップとか。クッションの色とか。刺繍の柄もいろいろ相談して決めたかった」
「ああ、そういうことをしながら結婚を意識するのか」
たわいもない会話を重ね、二人は笑いあった。本当はこんな時間を少しずつ積み重ねて、結婚するまでの間、過ごしたかった。
だけども、こうして話していくのもまた楽しい。少しずつ、胸の中に折り重なっていた寂しさが薄れていく。
一通り、話し終えた後。
ヒューバートは耳元に唇を寄せた。
「少し早いけど、俺の妻になってほしい」
驚いて彼の顔を見つめれば。
「ずっと考えていた。絶対に婚約白紙はありえないと思いながら、婚約者でいるだけでは不安で仕方がない」
驚きよりも、嬉しさが。応えたいのに胸がいっぱいになって、声が出ない。
エレオノーラも婚約者という立場よりも妻という立場が欲しかった。誰からも何からも奪われないように。
愛しているからこそ、確かなつながりが欲しい。
「愛している」
ちゃんと愛の言葉を返したかったけれど、それは彼のキスで飲み込まれてしまった。