21.近衛騎士団へ訪問
セロン侯爵夫人は音を立ててカップをソーサーに落とした。エレオノーラはあからさまに動揺した彼女に苦笑する。
「何ですって? もう一度言ってちょうだい」
「ヒューバート様の時間が取れないので、婚姻届けにサインするだけにしようかと考えています」
「……後からお披露目をするということ?」
エレオノーラは困ったように首をかしげる。
「お披露目もどうでしょう。もしかしたら難しいかもしれません」
現状を考えると、婚姻届けにサインをするだけで精一杯な気がしていた。お披露目を行うには、様々な準備が必要だ。たとえ、親族や親しい友人たちだけの招待だとしても。先が見通せない状態ではできるとは言い難い。
幸いなことにして、エレオノーラとヒューバートは継ぐ爵位がないため、お披露目はしなくても問題ない。事実、コルトー子爵家の次女と三女は立会人の元のサインだけで婚儀を済ませている。
エレオノーラはそれで十分だと考えていたが、セロン侯爵夫人は違った。怒りに握りしめた拳を震わせていた。
「どうしてそんなことになっているの? もちろん、コルトー子爵家もエイル伯爵家も抗議をしたのよね?」
「ええ。リックお義兄さまも同じように抗議してくださって。でも、城からは謝罪の言葉と検討するとしか返ってこないのです」
「信じられない……。忙しいかもしれないけれども、少しも時間を作らせないなんて。納得できないわ」
ヒューバートは近衛騎士であるが、休暇が取れないような状況ではない。これが国賓を招いての晩餐会や会議があったのなら、数か月拘束されるのも仕方がないだろう。だが、今回の王女の訪問は非公式。しかも、王女はこの国の勉強のためにやってきている。オーランドの専属護衛だとしても、彼に割り当てられている近衛騎士は複数人いるのだ。今回のようにまったく会えない状態というのはおかしな状況だった。
「ヒューバートがいないと、進められないの?」
「残っているのは招待客の確認なのです」
招待状を送付は、三か月前までが好ましい。あと一か月のうちにヒューバートと話し合えればいいが、状況を考えれば、できない確率の方が高い。
「エイル伯爵に確認すればいいのではなくて?」
「それが……」
歯切れ悪く言葉を濁せば、セロン侯爵夫人は察した。
「妹のシルビアね。招待しないわけにはいかないけれども、ヒューバートはしないと言っているのでしょう?」
困った子ね、とセロン伯爵夫人はため息を吐く。シルビアのやらかしはセロン侯爵夫人もよく知っている。あの時、事態を収拾するのに手を貸したのだ。
「だから立会人だけの婚姻にするということなのね」
「そうです」
「だったら、近衛騎士団で話し合えばいいわ。コルトー子爵夫人もあなたのドレスを用意できるととても張り切っていたのよ。それを無碍にするなんて、天罰が下ってもおかしくない所業だわ」
セロン侯爵夫人はエレオノーラが彼女の言葉を理解する前に、家令を呼んだ。
「至急、近衛騎士団に訪問すると連絡を入れて頂戴」
「承知しました」
セロン侯爵夫人と家令のやり取りを見て、ようやくエレオノーラが声を上げた。
「え、本当に!?」
「そうよ。今から近衛騎士団へ行くわよ」
「でも」
「大丈夫。わたくしの息子二人は騎士団所属ですからね。家族として面会の申し込みはできるのよ」
セロン侯爵夫人は何も心配いらないと、朗らかに笑った。
◇◇◇
エレオノーラは王城の雰囲気に圧倒され、足が止まった。今まで彼女は貴族全員が参加義務のある夜会でしか王城に来たことはなかった。しかも今回は近衛騎士団がある棟。表から見る城とは雰囲気が全く違う。やや硬質な空気に緊張しかない。
「エレオノーラ、こちらよ」
名前を呼ばれて、慌ててセロン侯爵夫人の後を追う。彼女は慣れた様子ですれ違う騎士たちににこやかに挨拶をしながら、どんどん奥へと進んだ。
近衛騎士団の棟にはいれば、広々とした受付がある。セロン侯爵夫人はそこで立ち止まると、エレオノーラを呼んだ。
「ここが近衛騎士団の事務棟の受付よ。エレオノーラも結婚したら来るようになると思うわ。事前に連絡を入れた後、あの受付で用件を話すのよ」
エレオノーラが頷くと、セロン侯爵夫人は受付に声を掛ける。
「ごきげんよう」
「あ、セロン侯爵夫人! お待ちしておりました」
先触れをちゃんと受け取っていたのか、受付の年配の男性が愛想よく対応する。
「こちらはエイル殿の婚約者で、コルトー子爵令嬢よ」
「初めまして」
セロン侯爵夫人に目配せされて、エレオノーラは丁寧に挨拶をした。受付の男性は途端に顔色を悪くする。
「え、えーと」
「ふふ。その様子だと、随分とヒューバートは荒れているのね?」
「荒れているというもんじゃありませんよ……」
がっくりとした様子で、受付の男性が嘆く。
「だったら、余計なことをせずにちゃんと休暇を取らせればいいのに」
「そうはいかないのです。今、奇妙な噂が流れているので、身の安全の」
途中まで話してしまってから、彼は口をつぐんだ。セロン侯爵夫人の笑みが深くなる。
「どんな噂?」
「いえ、それが、その」
「噂ですもの。守秘義務に抵触しないでしょう?」
「ですが……」
冷や汗をかきながら、ちらちらとエレオノーラを見る。その眼差しに、噂の内容がわかってしまった。
「もしかして、ヒューバート様に新しい恋人でもできたのでしょうか?」
受付の男性が死にそうな顔になった。どうやら図星のようだ。エレオノーラは不思議そうに首をかしげる。
「でも、わたし、誰からもそのような噂聞いたことがないのですけど」
「事実無根なので、近衛騎士団総出でちゃんと火消ししていますっ!」
受付の男性はしっかりやっていると、力強く証言する。
婚約してから今日まで、そのような噂を聞いたことがない。会えなくなってからと、と考えれば、自然と王女周辺に流れているということになる。火消しをしているということから、ヒューバートの行動を把握するためにも、城の外に出してもらえないだろうと勝手に納得した。セロン侯爵夫人も同じことを思ったのだろう。ため息をついた。
「王女と一緒に来た誰かがヒューバートに一目惚れしたのね」
「申し訳ありません」
「別にあなたが謝るようなことではないでしょう? 冷たくあしらっても、勝手に相手が燃え上がっているんだわ。いつものことよ」
セロン侯爵夫人はそう断定した。エレオノーラも納得できる理由で、頷くしかない。受付の男性は二人が察してくれたことで、肩の力を抜いた。
「ご理解、ありがとうございます。ただ、これは不本意な状態であって、陛下も王子殿下も快く思っておりません」
「それを知ることができて、安心しました」
エレオノーラは自分の婚約がゆるぎないと知ってほっとする。そして彼の立場で最大限の情報を教えてくれたことに感謝した。
そんなやりとりをしている間に、受付に一人入ってきた。連絡係なのか、受付の男性に何やら耳打ちしている。
「ローサが詳しく説明をしますので、応接室でお待ちください」
「わかったわ」
二人は近衛騎士団棟の奥へと足を踏み入れた。
窓の光が入る廊下は明るく、二人はゆっくりとすすんだ。そのうち、苛立ちを露にした荒々しい足音が響いてくる。
「エレオノーラ?」
驚いた声が聞こえた。振り返れば、そこには前に会った時よりもやつれた顔をしたヒューバートがいた。
滅多に見せない驚いた顔に、エレオノーラは思わず微笑んだ。
「ヒューバート様、よかった。思っていたよりも元気そうだわ」
「どうしてここに」
「セロン侯爵夫人に連れてきてもらったの」
ヒューバートは一足飛びに近寄ってくると、そのままぎゅっとエレオノーラを抱きしめた。突然抱きしめられて、エレオノーラは目を丸くする。ヒューバートは彼女の髪に自分の頬を擦りつけた。
「ああ、本物だ。信じられない。とうとう幻覚が見え始めたのかと思った」
ぎゅうぎゅうに抱きしめられて、何度も何度も存在を確認されて。驚きに固まっていたエレオノーラも躊躇いがちに彼の背中にそっと腕を回す。
「幻覚だなんて大げさよ」
「いいや、それぐらい切羽詰まっていた。訳の分からない気持ち悪い女は言い寄ってくるし、仕事以外は近衛騎士団の休憩室で過ごせと命令されるし。手紙だって、一言メモしか伝えることができなかった。こんな仕事、やめてやると何度思ったことか」
「大変だったのね」
「ああ」
彼の確かな温もりはエレオノーラの胸にあった不安を溶かした。