2.助けてくれた人
足音が近づいてくる。夜会に参加していた人々の視線から隠れるようにしていたことが、今の状況では唯一の救いだった。お互いの姿はまだ見えないが、相手が近づいているのを感じる。ここから逃げ出すのが一番良い選択だと思うのに、体がすくんで動けない。
このまま知らん顔をして会場に戻るべきだと頭では考えているのに、固くなった体は少しも言うことを聞かない。足音はますます近づき、緊張感が高まる。初めての経験にエレオノーラは混乱していた。どうやってこの状況を切り抜ければいいのか、全く見当がつかない。
今ここで逃げてしまったら、逆に自分が覗いていたのだと誤解されるのではないかという恐れも頭をよぎる。もし相手が子爵家よりも高い爵位の持ち主だった場合、どんな難癖をつけられることだろう。
エレオノーラは両手をぎゅっと握りしめ、覚悟を決めて体を固くした。
「失礼」
小さな声と共に、右腕がぐっと後ろに引っ張られた。
「え?」
エレオノーラは驚いて振り返った。そこには見知らぬ男性が立っており、彼女を見下ろしている。
月明かりと会場から漏れ出る灯りが彼の姿を浮かび上がらせているが、その光は弱く、彼の顔は影に隠れてしまっている。ただ、冷静な彼の目は、どこか冷たい印象を与えていた。
彼はじっとエレオノーラを観察するように見つめた後、再び小さな声で告げた。
「静かに。悪いようにはしない」
エレオノーラは彼に強く腕を引かれ、思わず彼の胸に飛び込むような形になった。状況を理解する間もなく、彼は両腕を彼女の体に回し、強く抱きしめる。彼女は相手の胸に顔を押し付けられ、男の服しか見えない。
突然の出来事に驚いたエレオノーラは、抱きしめられている彼の腕から逃れようと必死に抵抗した。
「離して……!」
全力で抵抗するが、彼は微動だにしない。恐怖に駆られ、体をよじる。誰かに見られることや、騒ぎを起こすことは避けたいと考えていたが、自力で逃げ出すこともできそうになかった。彼女は、助けを求めるために声を上げる決意を固めた。
「落ち着いて」
息を大きく吸い声を出そうとしたとき、エレオノーラを抱きしめた男はそっと耳元で囁いた。その声がとても優しくて思わず動きを止めた。
「大丈夫だ。心配いらない。このまま声を出さずに顔を隠して」
暴れるエレオノーラをなだめる様に囁く。予想外に落ち着いた声に、エレオノーラは大きく呼吸を繰り返した。彼の声は不思議と恐ろしくなかった。
彼の手がゆっくりと背中を撫でる。子供をなだめるような手つきはとてもぎこちない。緊張がほぐれることはなかったが、彼は助けてくれようとしているのではないかと信じられた。
どくどくする心臓を落ち着かせようとさらに大きく息を吸えば、男の服から柑橘系の爽やかな香りがした。
「おや、君は……」
エレオノーラが落ち着いて考えられるようになった頃、男の声がかけられた。先ほど咎めた言葉を発した男と同じだ。痛いほどの視線を感じて心臓がばくばくするが、この男に助けを求めようという気持ちはなかった。姿を見ていないのに、とても圧力を感じる。きっと上位貴族の誰かなのだろう。
怖い。
上位貴族であっても、穏やかで優しい人は多い。それは知っているがこの男の持つ空気が優しい人間ではないことを伝えてくる。恐ろしさにぎゅっと彼の胸に置いた手を握りしめた。
そのことに気が付いたのか、エレオノーラの腰を抱いていた手がそっと彼女の握りしめた手を包み込んだ。大きくてごつごつした手のひらだ。優しく包み込まれて、大丈夫だと言われているように思えた。
「ははは、邪魔をしたのはこちらの方か。まさかこんなところで女嫌いの君に出会うとはな」
「閣下、揶揄わないでください」
知り合いと思われる男はじろじろと抱きしめられているエレオノーラへと視線を向けてくる。緊張に体が勝手に強張った。抱きしめてくれている彼はその男の視線から庇うように少しだけ体を動かす。彼の体は大きくて、不躾な男の視線を遮った。直接見られていないことに、ほんのわずかだけ力を抜く。
「なかなか大切にしているようだ」
「内密にお願いします」
「噂も楽しい恋の一部だよ」
男が揶揄うように言えば、彼はため息をついた。
「それは閣下だけでしょう。私は自分が振られるかもしれないというのに楽しむ余裕はありませんよ」
「おやおや、ずいぶん一途で熱心なことだ。羨ましいね。いいだろう、今回は黙っておこう」
「あら、素敵な方。ねえ、閣下。わたくしに紹介してくださる?」
少し低めの、甘い女性の声が二人の会話に割り込んだ。その艶やかな声音にぞわりと鳥肌が立った。明らかにエレオノーラの周囲にはいないタイプの女性。
声と同じように絡みつくような独特な甘い花の香りが漂う。仄かにしか香らないのに、頭が次第にくらくらする。
「私の女神は他の男に気があると見える。先ほどまで甘えて私から離れなかったのに」
「ふふ、だって本当に素敵なんですもの。あなた、とってもわたくしの好みだわ。声をかけてもらえればいつでもお相手してあげる」
女はくすくすと低い声で笑った。その笑い声さえも男を誘うようなものだ。男女の濃密な空気が居心地悪くて、身じろいだ。エレオノーラを抱きしめている彼の手が押さえ込むように少しだけ強くなる。
「申し訳ないが私には不要です。不必要なことを彼女に聞かせないでください」
不機嫌そうな声でそう答えれば、大げさに女が笑った。男を惹きつける柔らかな笑い声が耳に残る。
「嫌われてしまったわ。ねえ、閣下。今夜はもう行きましょう? これ以上、素敵な彼に嫌われないように」
「そうだな。邪魔をして悪かった。君の恋が上手くいくことを祈っているよ」
何度かやり取りをした後、男も女性を連れてこの場を離れて行った。彼らの気配がなくなるころに、抱きしめられていた腕が緩まる。それに合わせて彼は一歩後ろに下がってエレオノーラとの間に少しだけ距離を作った。夜の空気が間に入り込み、彼の温もりが消える。
「突然、すまなかった」
「いえ、助けていただいてありがとうございます」
お礼を言う声が震えた。うつむいたままでは失礼だと思い、顔を上げようとするがそれを彼が止めた。
「そのままで。お互いに知らない方がいいでしょう」
「ですが」
きちんと顔も見せずにいるなど、助けてくれた人に対して礼儀がない。そう言おうとしたが、拒否する空気を感じて口を閉ざす。
「私が離れたら、すぐに会場に戻るように」
厳しめの口調で告げられて、そのまま立ち尽くした。微かに聞こえる足音が遠のいていく。彼の存在が全く感じられなくなって初めて顔を上げた。彼の去った方向に目を向ければ、背の高い細身の男性が歩いている。
月明かりが彼の姿を照らした。先ほどよりも明るい光がその横顔をはっきりと見せてくる。
整った顔立ちに黒髪。
すっとした、姿勢の良い立ち姿。先ほどは気がつかなかったが、夜会服ではなく騎士団の制服を着ていた。
やっぱり知らない人。
でも助けてくれた。エレオノーラはぼうっとする頭でいつまでも彼の後ろ姿を見送った。彼の名前を聞いておけばよかったかなと少しだけ後悔する。
「エレオノーラ!」
アマンダの焦った声がする。慌てて会場の方へと顔を向ければ、心配そうな顔をした姉がこちらに急ぎ足でやってくるのが見えた。
「お姉さま」
「ああ、良かった。会場にいないから探したわ。庭には出てはいけないとあれほど言ったのに」
「ごめんなさい。少し外の空気が吸いたくなったの」
「熱気がすごいから、その気持ちもわからなくないけど。でも、出るなら一言、伝えてほしかったわ」
アマンダはエレオノーラのドレスにさっと視線を走らせた。乱れたところがないことに、ほっとしたような表情になる。誰かに乱暴されていないか本当に心配したのだろう。
「誰とも会わなかったのね」
「ええ」
躊躇いながらも、先ほどの出来事は言わなかった。本当ならアマンダに話すべきなのだろうが、エレオノーラは秘密にした。
彼の名前を知らないのだから、と自分自身に言い訳する。でも、それだけの気持ちではないことはわかっていた。
名前も知らない彼との記憶を誰にも話したくなかった。