19.王太子と第二王子
部屋の中には紙をめくる音だけが聞こえていた。
オーランドは王太子である兄ライアンの執務室でじっと長椅子に座っていた。オーランドの執務室と比べて、ここは非常に静かだ。執務室の隣に用意されている事務官の部屋とつなぐ扉が開いているというのに、あちらの部屋からも話し合う声すら聞こえない。ただリズムを刻むペンの音は大きく響いている。
「こちらが呼び出したのに、待たせてすまなかったな」
ライアンは書類が一区切りついたのか席を立つと、オーランドの向かいの席に腰を下ろした。音もなくお茶が用意された。オーランドにも新しいお茶が用意される。
「いいえ。今日は予定を入れていませんから」
「そうなのか? 王女との交流をすぐにでも始めるはずではなかったか?」
驚いたようにライアンが聞いてくる。オーランドも最初はそのつもりであったが、挨拶の時に彼女の隠せない欲を孕んだ目を見て、最小限の交流に留めることにした。
「私との交流よりも、ドレスが欲しいそうですよ」
「は?」
「なんでも、こちらのドレスを着て、早く馴染みたいと侍女経由で言われました」
ライアンはびっくりしすぎて目を丸くしている。滅多に感情を揺らすことのない彼にしては珍しい顔だ。
「ちょっと待て。確かに交流していく中で、お前が贈りたいなら贈ればいいと思っていたが。交流前に強請られたのか」
「そういうことになりますね。まあ、一着ぐらいは作ってもいいと許可しました。今頃、デザイナーが来ているのでは」
ライアンは弟のことを揶揄うつもりがあったようだが、すぐに真剣な顔になる。
「なんだか嫌な予感しかしないな。一着だけと言っても、それ以上に頼むんじゃないのか?」
「その場合は後ろ盾になっているバックリー男爵に請求書を回しますよ」
「財力からすれば、ストライド侯爵ではないのか?」
バックリー男爵に同調してオーランドの婚約を推し進めたのがストライド侯爵だ。後ろ盾と表明していないが、コンスタンスと非常に近い位置にいる。
「ストライド侯爵は上手いこと逃げましたね。なんでも、バックリー男爵の主張は無理がなく、納得だったそうで。後ろ盾になるのは結婚後に考えるそうです」
ライアンはその言葉に、鼻を鳴らした。
「他に気になるところはあったか?」
「他ですか。そうですね、コンスタンス王女の侍女がヒューバートに興味があるようです」
王女の侍女は挨拶の時にオーランドの後ろに護衛として立っていたヒューバートを食い入るように見ていたことを思い出した。その狙いを定めたような視線は覚えのあるものだ。ヒューバートはどういうわけか、思い込みが激しく、面倒な問題を起こしそうなタイプの女性を惹きつける。過去に起こった様々な騒動から、なんとなくわかってしまった。
「ヒューバートだと? そんな接点があったのか?」
「全然。ごく普通に私の後ろに立って護衛をしていただけです」
「本当に呆れるほど同じタイプを引いてくるな」
その場が想像できたのか、くくくとライアンが声を押し殺して笑う。
ヒューバートの女性のいざこざは酒の席では笑い話になるほど面白い。当事者にとってはたまったものではないだろうが、人が羨むものをほとんど持ち合わせているヒューバートが苦々しい顔をするのが面白くて、近衛騎士たちはよく揶揄っていた。
もう少し笑みを見せ愛想よくあしらえば面倒な問題に発展することはないと思うのだが、ヒューバートは女性に対しては氷のような冷たさだ。一部の令嬢にその冷淡な様子が余計に惹きつけられていることに本人は気がついていない。そして、全方向に冷気をまき散らしている彼に食いついてくる令嬢は信じられないほど粘着質だ。
「笑い事ではないですよ。ヒューバートは四か月後には結婚するのです。できる限り平和に結婚してもらいたい」
「そう言えばそうだったな。ヒューバートの相手はコルトー子爵令嬢だったか。お前は会ったのか?」
「ええ。とても落ち着いた令嬢ですよ。心根も素直で、彼女に対するヒューバートの豹変ぶりが見ていて面白い」
孤児院で会った時のエレオノーラを思い出し、笑みが浮かぶ。あの時にはすでにヒューバートは彼女を手に入れようと考えていたにもかかわらず、そ知らぬふりをしていたのだ。唐突に婚約の証人を頼まれて、驚いたものだ。
「ほう。一度会ってみたいな」
「やめてあげてください。彼女は子爵令嬢なので、兄上と面会などしたら卒倒してしまいます」
「なるほど、控えめなのだな。もっと男勝りの強い令嬢を選んだのかと思った」
どんな想像をしていたのか、ライアンが驚いた顔をした。
「あのヒューバートが男勝りの令嬢に心を許すと思いますか?」
「あり得ないか。でも、その令嬢、大丈夫か?」
「何がです?」
ライアンの心配がわからなくて、首を傾げれば彼はため息を付いた。
「簡単に排除できそうだと思えば、令嬢に手を出してくるのではないのか?」
「……それはないとは言い切れません」
「ああでも、それなら……」
「兄上?」
ライアンは何か思いついたのか、黙り込んだ。目を伏せているため、何を考えているのかわからない。だが今までの経験上、関係者にとって碌なことがない。ただ今回はオーランドのためを思って考えてくれているのだと思いたい。
「うん、そうだな。いけるかもしれない」
不穏な言葉にオーランドは思わず身構えた。ひどく明るい表情のライアンを最大の警戒心を持って見つめる。
「何がです?」
「ヒューバートを使って、お前の婚約破棄ができないかと思ってな。ずっと婚約破棄の方法を考えあぐねていたのだが丁度いい」
婚約破棄と聞いて絶句した。オーランドと王女の婚約は国と国との契約だ。簡単に破棄などできるはずがない。それなのに、ずっと方法を考えていたと言われて反応ができずにいた。
「まあダメでも被害者はお前で、結婚するだけだ」
「一人で納得しないでください。どういうことですか?」
「ヒューバートと連れてきた侍女の仲を取り持つのなら、ヒューバートの婚約破棄を狙うのか、既成事実を作るかになる。いずれにしろ、この国の王命に干渉する行為だ」
王命、と聞いてはっとしてライアンの顔を真正面から見た。彼はようやく理解した弟にひどく暗い笑みを見せた。
もし万が一、王女が自国にいた時のように傲慢に振舞いエレオノーラに手を出せば、さらに問題が大きくなる。他国の王族が勝手に我が国の貴族を従わせようとするのだ。我が国は堂々と抗議することができる。
「相手は小国と言えども正当な血筋の王女だ。ちゃんと理解しているだろう? 理解できていないようならこの国に嫁ぐのは酷というものだ」
「……煽れということですか?」
「煽らなくとも、ヒューバートをお前の護衛として連れていけばいい」
「まあ、彼は護衛なので連れて行きますが」
「交流会の度に連れて行き、その後、会わせないようにすれば、何かしら行動を起こすだろうよ」
オーランドは天井を見上げた。
要するにヒューバートの女性を引き寄せる性質を利用するという事。ヒューバートが荒れることは間違いない。結婚するまで会えないとなると……。
恐ろしさに身震いする。
「ヒューバートが荒れると、私が非常に迷惑を被ります」
「それでお前の婚約が白紙になるかもしれないんだ。明るい未来のために耐えるがいい」
「……はあ」
確かに放っておいてもそのような事態にはなりつつある。事実、王女の方へも護衛として近衛騎士を割り当てたために、誰もが休みが取れず家に帰れていない。ヒューバートもその一人だ。
「心配せずともエイル伯爵家とコルトー子爵家の不利益なことにはしない。必要なら騎士団から護衛を付けよう。いや、第三者の証言を得るために付けていた方がいいかもな」
「……兄上、もしかしたら怒っていました?」
今回の婚約の件では何も言わなかったから、気にしていないのだと思っていた。それに実際に結婚するのはオーランドだ。
ライアンは薄く笑った。
「私が裏に何があるのか、知らないとでも思っていたのか?」
「いえ。ただ、こちらが後手に回っているのは事実です」
小国との婚姻は必要でも何でもなかった。小国と隣接する貴族たちは小国の栽培技術を欲しがったが、国の規模からすれば、小国から輸入している割合は僅かなもの。だから、婚姻と引き換えの技術提供など、なくてもよかったのだ。厄介なのは、高位貴族たちの横やりだ。主導権を握らず、賛同する方法でまんまとオーランドの婚約者にしてしまった。
ストライド侯爵は自分の娘を王太子の正妃にしたかったのだが、ライアンが選んだのは後ろ盾の弱い伯爵家の令嬢だった。
「ストライド侯爵はお前の正妃が他国の王女なのに対して、私の正妃の後ろ盾が弱すぎるという理由で自分の娘を側室にねじ込む気だ」
「……彼女はすでに人妻では?」
ライアンの婚約候補だったストライド侯爵令嬢を思いだし、首を捻った。彼女はライアンと性格が合わず、内密に選考から落としてくれと頼み込んできていたのだ。候補から外れた後、他に嫁がされないよう、さっさと意中の人と結婚したはずだ。
「ああ違う。彼女ではなくて、三女だ」
「……三女?」
三女と言われても全く覚えがなかった。オーランドの反応が面白かったのか、くつくつとライアンが笑う。その笑いに誤魔化しようのない暗さが滲んだ。
「まだ社交界デビューしていない」
「え、まさか」
「十歳だからな」
成人前の十歳と聞いて沈黙した。王太子は二十五歳。実に十五歳の年の差だ。
ストライド侯爵の執念にげんなりした。国の平穏を考えるなら、継承権争いになるような縁組こそ避けるべきだ。ストライド侯爵家の令嬢を後宮に迎えたら、死人が出る可能性すらある。それが狙いなのだろうが、王族としては継承権争いは避けたい。
「兄上はどうするのですか?」
「波風を立てないのなら、ストライド侯爵の娘を側室にして後宮に捨て置けばいいだけだ。いくらストライド侯爵と言えども、自分の娘に子供が生まれなければ何もできまい。だけど、何もないとは言い切れない。コンスタンス王女に帰ってもらって、以前の状態に戻るのが一番だ」
「父上は兄上の考えを知っているのですか?」
いくらライアンが画策しても、つまらない理由による王族の婚約破棄など醜聞でしかない。だから国王の判断が気がかりだった。
「この情報を掴んできたのが叔父上だ。叔父上が私に情報を開示したということは、父上も了承しているはずだ」
「ああ、叔父上ですか」
天井を仰ぐ。マシューが出てくるなら、うやむやにはならないだろう。ストライド侯爵とついでに王女を排除する方向ですでに動いているはずだ。
「お前もこの件が片付いたら、セリーヌ嬢を捕まえに行け」
「今回の件は関係ないのでは?」
「いいや。お前がいつまでも態度をはっきりさせず、彼女を自由にさせているのが悪い」
風向きが悪くなったのを感じて、オーランドは急いで冷めたお茶を飲み干した。
「では、私はこれで」
ライアンは話し合いたくないオーランドの気持ちをわかっているのか、軽く手を振った。




