1.夜会は戦場
穏やかな夜だった。伯爵家で開かれた夜会は豪華な大広間で行われていた。人々の会話を邪魔をしないように優雅な音楽が流れ、華やかなドレスを身にまとった令嬢たちの楽し気な笑い声が辺りに響く。甘い香水の香りが漂い、時折、外から運ばれた花の香りが混ざった。
エレオノーラは周囲の華やかさに圧倒されながらも、自分がこの場にいることが場違いだと感じていた。彼女は四女であり、さらに婚約者もいないことからこのような夜会に参加することはほとんどない。
しかも今夜は知り合いが一人も参加していないのも不安を掻き立てた。周りの令嬢たちがおしゃべりに夢中になっている姿を見るたびに、彼女の心は一層重くなる。次第に足が遅くなり、ついには止まった。
「こっちよ」
立ち止まってしまったエレオノーラに、保護者である姉のアマンダが声をかけた。アマンダは妹の気持ちを察しているのか、厳しめの表情だ。エレオノーラはこの場から離れたい気持ちから、アマンダに訴える。
「お姉さま、わたし、やっぱり」
「ここまで来たのだから、腹をくくりなさい」
「……でも」
「この程度で怖じ気づいてどうするの?」
きっぱりと言われて、黙り込む。情けないと思うが、気後れはどうしようもない。アマンダへの反論は思い浮かばない。思わずドレスを掴み、俯いた。
「手を離しなさい。ドレスが皺になるわ」
「あっ」
指摘されて、すぐに手を離す。アマンダは小さく息を吐くと、優しい笑みを浮かべた。
「難しく考えることはないのよ。折角の夜会ですもの、楽しんでほしいの。新しい出会いは楽しんでいると自然と生まれるのよ」
アマンダの言いたいことはわかる。アマンダは十八歳にもなって、結婚相手どころか恋人すらいない妹を心配している。わかっているけど、エレオノーラの中で、結婚への優先順は低い。
自分の気持ちを伝えようと口を開いたのと同時に、やたらと通る声があたりに響き渡った。大きくない声なのに、不思議とすっと耳に入ってくる。意識が逸れ、姉妹は声の方へ視線を向ける。
「皆さま、わかっておりますわね」
夜会会場には不似合いな教師のような台詞。
ダンスホールの片隅に彼女を中心として、ひときわ華やかに着飾った令嬢たちが集まっていた。その人数は二十人ほど。彼女達は間違いなく夜会の参加者なのだろうが、その雰囲気が少し浮いている。不思議に思い眺めていると、中心にいる母親と同じくらいの年齢の夫人が声を張り上げた。
「よりよい旦那様を見つけるため、今まで沢山の試練を乗り越えてきました」
気持ちよく始まった演説に唖然としていると、アマンダがエレオノーラにそっと耳打ちした。
「あの集団、婚活組よ」
「婚活組?」
意味が分からず、初めて聞く言葉を繰り返す。アマンダは扇子で口元を隠したまま続けた。
「ほら、この国の貴族は子沢山でしょう? 特にエレオノーラの世代は婚約者のいない貴族の子供たちがすごく多いのよ」
「ええ、知っているわ」
そのせいで、エレオノーラは自分で婚約者を見つけなければならないし、こういう慣れない場にも顔を出さなくてはいけない。
「主催している伯爵が開く夜会、独身者の参加率がよくて人気なの。だからみな気合が入っているのよ」
この国ではどの貴族家も子沢山だ。少なくても三人、多いところだと七、八人いる。五、六十年ほど前に子供しかかからない病が流行し、子供の数が激減した。当時、血筋の維持が大変だったそうだ。それを教訓に、今では三人以上の子供を作ることが常識になっている。
だが国策により医療が向上、子供が病で亡くなることも減少。その結果、貴族出身の平民が多くなった。もしかしたら王都に住む平民の半数は二、三代さかのぼればどこかの貴族にあたるとも言われている。
コルトー子爵家も四人の娘がいる。アマンダはエレオノーラの五歳年上の長女で跡取り、次女、三女と続いてエレオノーラはなんと四女だ。跡取り息子が欲しかったらしいが、三人女の子が続いたところで諦めてほしかった。
男性優位のこの社会で、貴族令嬢が働いて生きていくには厳しい世界だ。平民であれば下働きもあるだろうが、貴族令嬢は使いどころが難しい。自然と、結婚が一番良い身の振り方となる。だからこそ、条件のいい相手と結婚したいがために婚活組と言われるような人たちが出来上がるのだ。
「エレオノーラももっと積極的に男性と交流するのよ。少なくても、三人とダンスを踊ること」
アマンダはそんな無茶を言う。よりいい条件の相手を見つけようと気合を入れている令嬢たちを押しのけ、独身令息に声をかけるなんて、結婚に後ろ向きなエレオノーラには難しい。
跡取り以外は身分など気にしない風潮になりつつあるのだから、彼女たちを押しのけて貴族令息と縁を結ばなくてもいいのではと思っている。結婚が幸せの一歩と思っている母や姉たちには言えないけれども。
「……そうね、できる限り頑張ってみるわ」
気が進まないながらも、エレオノーラはアマンダの期待に応える返事をした。その返事をどう受け取ったのか。アマンダは困ったような、怒りたいようなそんな顔をする。だが彼女の口から出てきたのは、夜会での注意事項だった。
「一人で庭やバルコニーに出ないでね。変な輩が多いから、引きずり込まれたら大変だわ」
「そんな人、いないと思うけど……」
「エレオノーラ、あなたはとても綺麗よ。だから、絶対に油断しないで」
アマンダは次から次へとエレオノーラに注意をしていく。彼女の言葉に頷きながら入り口を見ていれば、ぽつりぽつりと会場に招待客が入ってきた。それでもまだ人数が少ないため、アマンダは人目を気にすることなくエレオノーラの髪を整えたりしている。
「――失敗したわ。新しいドレスに合わせて、髪飾りも新しく作ればよかった。もっと華やかにすれば、あなたの良いところが際立ったかもしれない」
「この髪飾りはお気に入りなの」
今日のドレスは十八歳にもなって未だに恋人の気配すらない娘を心配して、両親が新しく仕立ててくれたもの。新しいドレスはいつもよりも明るい色の青を基調に、白のレースでできたオーバースカートを重ねている。茶金の髪も複雑な形に結い上げられ、瞳と同じ緑色の宝石をあしらった髪飾りをつけてもらった。
エレオノーラには十分華やかな装いだ。だが、アマンダの目には華やかさに欠けるのか、ちょっと眉を寄せている。
「アマンダ、その辺で終わりだ」
今まで黙って見ていたアマンダの夫であるリックが妻の手をそっと握りしめた。さりげなく止めてくれたことにエレオノーラはほっとした。
「リック」
「君がエレオノーラを心配する気持ちもわかるが……」
リックはアマンダの過保護さに、呆れたような顔をしている。
「心配しなくてもこの会場から出ないわ。お姉さまたちは挨拶回りがあるでしょう?」
「そうね、挨拶を先に済ませてしまいましょう」
最後まで心配そうな顔をしていたアマンダを見送り、エレオノーラは体から力を抜いた。笑みを浮かべ続けるのも疲れる。姉夫婦が見えなくなって、ようやく壁際へと移動した。庭やバルコニーに一人で出られないのなら、残る場所は壁際しかない。
目立たない場所を探すためにゆっくりと会場を歩いた。
移動しながら会場を見渡せば、婚活組と言われた令嬢たちがあちらこちらで独身男性に話しかけている。積極的に話しかけている令嬢は生き生きとしてキラキラして見えた。そして捕まった男性も押され気味の人もいれば、その会話自体を楽しんでいるような人もいる。
自分とは違う世界。もちろんアマンダのように家のために社交をしろというのならできる。でもそれは社交であって、恋人を見つけることではない。エレオノーラは男性と二人で何を話していいのかわからないし、距離も近すぎると緊張して碌な受け答えができない。積極的に声を掛けている令嬢を見るとやや羨ましいと思うこともある。
見ているだけで息苦しさを感じて、少し外の空気を吸うことにした。一人で庭に出るのはまずいけれど、会場にほど近い回廊へ出るぐらいなら大丈夫だろう。回廊なら会場から姿が見えるし、給仕の者や警護の者たちもいる。そこで何かする人もいないはずだ。
会場の華やかな話し声から遠ざかるようにゆっくりと歩いた。音が遠くになるにつれて、息苦しさが少し楽になる。空を見上げれば綺麗な月がひっそりと輝いていた。
もう夜会に出席するのはやめよう。
エレオノーラはつくづくこういう催しものに向いていないとため息をついた。
姉三人は自分で結婚相手を見つけてきたから、エレオノーラにも良い縁を見つけられるようにと口うるさく言う。でも、エレオノーラは見知らぬ人に声を掛けるのが苦手。見知らぬ人を初めから結婚相手として見ることに抵抗があった。
当初の予定通り、裕福な平民か下位貴族の家庭教師になる。まずは一人で生きていけるようになる。結婚を考えるのはその後だ。それまでに誰かと出会ったら結婚するかもしれないし、こればかりはわからない。そもそもエレオノーラ自身、結婚自体が想像できなかった。
「……ふふ」
どこからか声が聞こえた。思わず足を止めてしまう。考え事をしているうちに回廊から少し外れて庭の方へ出てしまったようだ。位置を確認すれば会場の入り口は少し遠くに見える。
「あ、そこ。触ったらダメ」
「そう? じゃあ、こちらは?」
「そこもダメよ。もう、わかっているでしょう? こんな場所で意地悪なことを言わないで……」
艶をたっぷりと含んだ女の声とそれを面白がる男の含み笑いが耳に入る。言葉の合間に聞こえる女の声を殺した甘やかな囁き。
二人の会話の内容を理解して息を呑んだ。
恋人を持ったことはないが、男女の恋愛については多少のことは聞き及んでいる。恥ずかしさに顔を赤らめ、極力聞こえないようにと意識を逸らす。意識を逸らすが、そうすれば他の人たちの逢瀬が目に入ってくる。自分が良くない場所に踏み入ってしまったことに気がつき、青ざめた。
いけない。戻らないと。
夜会会場の庭など密会の場だ。未婚の男女ならまだ恋愛として許されても、既婚者同士ということもある。秘められた恋は刺激があって貴族界ではちょっとした流行になっているほどだ。誰かの逢瀬の邪魔をしたとなったら、間違いなく面倒な状況になる。
そっと離れようとしたにもかかわらず、何かを踏んだ。ぱきっという結構な音を立てて割れた。
あまりにも大きく響いたその音に体が硬直した。
「誰だ?」
低い男性の声が咎めるように響いた。