03. もう一度動き出す魔法
ʄʄʄ
それから二日、わたしはアルトを止め続けていた。
「五百年、わたしは遊んでいた訳ではありません」
アルトにそう言われた時、はっとした。
初めて会った時、アルトが探していたのは古い魔法書だった。
その日から今日まで、わたしとは色々な本を読み合ったけど、彼が一人で読む本はいつも何百年も前の魔法書だった。
「魔法使いだから」、と不思議にも思わなかった。
でももしかしたら、アルトはずっと迷宮を見据えていたのかもしれない―――――――自分の時が止まった日から。
「あの迷宮が今日まで制圧されていないのは、挑戦者を退け続けたからではありません。グランタイルが迷宮に挑む力を失い、それから挑む者がないまま、いつしか存在すら忘れられてしまっているためです。制圧不可能だったからではないのです。」
この人は何を言っているのだろう。
今よりずっと強力だった六百年前の魔法使い達が、一個大隊で挑んでも落とすことが出来なかった迷宮なのに。
「今、どの国にも知られていないことが幸いです。国の命で行くのではありませんから、魔道具を手に入れればわたしが自由に使えます―――――一度しか使用出来ない物でも」
そう言われて、魔法使いを擁する国に支援を求めるつもりもないのだと分かった。
「あなたのためだけではありません」
そうアルトが言ったのは、長い押し問答の末だった。
「わたしが受けた、この呪いを解く魔道具が、あそこにはあります」
「……………………!」
五百七十年前、アルト達生き残った帝国魔法使い達は、迷宮に隠された魔道具の数と種類だけは把握して戻った。迷宮の入り口で挑戦者にその情報を与えるのが、古代の魔法使いの流儀なのだと言う。
おかしいわ。
わたしが思う程迷宮が危険ではないと言うなら、なぜアルトは今日まで迷宮に挑まなかったの。
―――――――――いえ、二日も話し合い続けているのに、なぜ今までその話をしなかったの。
重大な問題に気が付く。
魔道具には、何かの操作とか呪文とか魔法を発動させるための条件が設定されている物と、そうでない物がある。触れたり近付いたりするだけで発動する魔道具もあって「解呪の魔道具」の類は多分、ほとんどがそうなのだ。
「呪いを解いた後無事に迷宮を出られなければ、あなたは死んでしまうのではないの」
「…………」
アルトが口を噤み、見送った人が帰らなかった日の記憶が、わたしの肺と心臓を壊しそうに膨れ上がった。
「駄目、行かないで」
「リスタ」
アルトはふいにわたしの右手を取って、自分の胸の前で握り締めた。
「わたしはこのまま、死もなければ生もない人生を生き続けたくはない」
ʄʄʄ
その翌日。
魔法図書館の受付けに、わたし宛の封書が預けられた。
それは
「しばらく魔法図書館には行けませんが、必ず帰って来ます」
と言うアルトからの手紙だった。
その瞬間。
体の内側が弾けそうに感情が溢れた。
どうして気が付かなかったの。
自分の心に蓋をしていたのだ。「あり得ない」と頭から決めつけて。
自分で自分の気持ちに、わたしは気が付かなかった。
なぜあの人の気持ちにちゃんと向き合わなかったの。
わたしは自分を守っていたのだ――――――――――――もう二度とあんな思いをしたくなくて。
行かないでアルト。
わたしでいいと言ってくれるのなら、きっと短い年月だけれど、わたしの残りの人生を、あなたと一緒に過ごしたい。
今ならまだ間に合うかもしれない。
五百年時を止め、「魔法図書館の魔女」と綽名されていたわたしは、この日人間に戻った。
五百七年止まっていたわたしの時は、再び動き出したのだ。
ʄʄʄ
退職を申し出て、制服を返却する。
魔法図書館の職員が図書館を去るためにしなければならないことは、たったそれだけだ。
あまりに簡単で、気持ちが付いて行かない。
でもわたしは、覚悟を決めて足を踏み出した。五百年前、魔法図書館に来た時に着ていた服を着て。
魔法図書館から一歩外に出た時。すぐに異変を感じた。
体じゅうが不調を訴える。
足も腰も痛い。少し歩くだけで動悸がした。
ああ、これが生なのだ。
五百年間忘れていたけれど、わたしの体は老いている。
振り返ると、魔法図書館の外観だけは変わっていなかった。図書館の内部は際限なく拡大し続けているのに、外観は全く変わらないのだ。
灰紫色の壁を持つ八角形の魔法図書館は水路に囲まれていて、五本の橋で外の世界と繋がっている。
橋の上を大勢の人達が歩いていた。
生者の世界と死者の世界を分けるようなその橋を、わたしは渡り出した。
ずっと四角く切り取られた小さな空しか見ていなかったから、果てまで続く巨大な空を見た時、少し酔ってしまった。
橋は随分長かった。
五百年前と一番違って見えたのは、人間の多さだった。今何百人と擦れ違ったのだろう?橋を渡っただけで、何かどっと疲れを覚えた。
辺りを見回すと、自治都市ミラトルの街並みはそれ程変わって見えなかった。
でもそう見えるだけ。
五百年で魔法使いが激減したために、かつて魔力で動いていた物は、魔力を必要としない物に次々置き換えられていると聞いている。
とてつもなく不安になった。
まるで知らない世界に迷い込んだよう。
アルトの家の住所は聞いていたけれど、どうやってそこまで行けばいいのか、ここからどれくらい歩けばいいのかも分からない。
アルト……!お願い、間に合って。
「あの」
目の前を通り過ぎようとしていたご夫婦に声を掛けた。
それから何度も、人に道を尋ねた。
思っていた以上にアルトの家は遠くて、激しい焦りを感じているのに、昼を回った頃に飢餓を覚え出した。
体がよろめき、足が止まる。
ああ、そうだわ。わたしの胃の中には何も入っていない。
何か口に入れなければ倒れてしまいそうだった。
でもわたしが持っているのは、五百年前のお金なのだ。
金貨と銀貨には、でも貴金属としての価値があるからこれで何か食べられるかもしれない。それとも両替商に行けば、今のお金に両替して貰えるかしら。
だけどそれだと、アルトの家の前に両替商を探さなければならなくなる。
目の淵が涙で熱くなった。
アルト。
間に合って。
時代遅れの格好でよろよろと歩く老婆は、一体周囲からどう見えただろう。
ようやくアルトの家に辿り着いた時には、もう日が落ちていた。
門番が四人もいる大きなお屋敷を見た時、わたしは途方に暮れた。
こんな所に住んでいたなんて。
取り次いで貰えるかしら。
近付くと、うさんくさげに見降ろされた。でも怯んではいられない。
「魔法図書館の者です」
わたしは小さな嘘を吐いた。自分の身分を証明出来る物を、今のわたしは持っていない。
門番達の表情から警戒心が少しだけ消えた。
きっと主人が魔法図書館に通い詰めていることを、彼らも知っているのだろう。
「アルト……アルト様に、お手紙を頂いたのです。リスタが参ったとお伝え願えませんか」
図書館を出てまだたったの一日なのに、疲れのせいか、声が酷くしわがれている。
封書を取り出したわたしの手は震えていた。
封書の表書きを見て、確かに主の筆跡だと分かってくれたらしい。門番達の警戒心はさらに下がったが、代わりに彼らは困ったような表情をした。
「主人は今朝屋敷を発たれ、しばらくこちらには戻っていらっしゃいません」
間に合わなかった。
体から力が抜けてふらりと倒れ掛けて、門番に支えられた。
「お婆ちゃん、大丈夫かい?!」
その声がぐるぐると頭の中で回った。
ʄʄʄ
アルトの家で留守を預かっている人達は、迷宮の存在も、迷宮の正確な場所も知らされていなかった。
分かったのは、アルトが向かった地方の名前だけだった。
アルトはまさか、一人でそこへ向かったの?
それも分からなかった。
もう国名も王朝も変わった小さな国が残っているだけで、グランタイル帝国は今は滅びたも同然だったけれど、五百七十年前は広大な地を支配していた。アルトが向かった地方は、往路だけでひと月は掛かりそうな距離にあった。
まだ追い着くことが出来るかもしれない、と思った。
なけなしのお金を握り締め、わたしはアルトを追って、ミラトルの街を出た。
金貨や銀貨は五百年前のままでも受け取って貰えることが多かった。
五百年ぶりの旅。
何日経っただろう。
わたしは日に日に弱った。
今のわたしに頼れる親族はいない。持っているお金が全てだった。宿には泊まったけれど、食費は出来るだけ絞った。
図書館を出てどれだけの日が経ったのか。
もうアルトは、迷宮に着いてしまったかもしれない。
それでもまだ間に合う可能性があると思うと、わたしは旅をやめることが出来なかった。
そしてある日、わたしは遂に力尽きた。
限界だった。
街道をふらふらと歩いている時に気が遠くなり、その場に倒れた。
呼吸が弱くなっていた。
アルト――――――――――――――――――!
ごめんなさい。
一緒に生きようと言ってくれたのに。
ごめんなさい。
呪いは解けた?
それなら幸せになって。
最期まであなたの気持ちに応えられなくて、ごめんなさい。
ふぅっ、と、視界が暗くなった。
「リスタ!!」
突然、痛いくらいの力で抱き起こされた。
体をがくがくと揺さぶられている。
誰の声だかすぐに分かった。
薄っすらと目を開けると、エメラルド色の瞳が目の前にあった。
ああ、最期にもう一度会えた。
「ア……ト……めい……きゅ……」
「終わりました」
終わった…………?
魔道具を、手に入れたの………?
ならわたし、図書館で待っているべきだった………?
なんてこと。
わたし、あなたにまだ―――――――――――――――――――
「アル………」
あなたが好き。
そう言いたかったのに、力尽きた。
ʄʄʄ
ゆっくりと意識が浮上していく。
もう開くことがないと思っていた目が、ふっと開いた。
目の前にアルトがいた。
「アル……?」
その自分の声に、びっくりする。
とても澄んでいた。
そして自分の胸に掛かる長い金色の髪を見てはっとした。
体に力が満ちているのを感じる。
「リスタ………」
「アルト…………?わたし…………」
目を閉じた時と同じように、わたしはアルトの右手に抱きかかえられて、街道に横たわっていた。
周囲に人が集まり出している。
そっと、アルトの左手がわたしの頬に触れた。
「とても綺麗です」
「!」
信じられないくらいに激しく鼓動が打った。
心臓って、こんなに激しく動くものだった…………?
自分の手を見る。
皺一つない手。
わたし、若返った…………?
「家の者に、あなたが屋敷に来てわたしの行く先を尋ねたと聞いて―――――――――」
そこでアルトは、体から何かを追い出そうとするかのように、ふぅっ、と大きく息を吐いた。
「間に合ってよかった……!」
その腕が力強くて、その声が甘くて、心臓がどうにかなってしまいそう。
「アルト…………呪いは…………?」
アルトはただ黙って微笑むことでわたしに答えた。
わたし達の時間。
動いている。
重なっている。
言わなくちゃ。わたし、もう一度始めなくちゃ。
真っ直ぐに彼の瞳を見た。
「アルト。―――――――――――――わたしと結婚してください」
彼は大きく目を瞠り―――――――――――――――それから魔法使いはわたしに唇を重ねた。
完
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