02. 魔法と呪い
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魔法図書館の職員には、不老不死の魔法がかかる。
とは言えそれは職員になってからのことだから、その時に年老いていた者は、老いた姿のまま時が止まる。
わたしのように。
わたしがここに来たのは、五百年以上前。その時点でもうすっかり、わたしは老いていた。
結婚は一度もしなかった。
本当は、一度だけ婚約者がいた。
わたしの人生に存在した、たった一度だけの恋愛。
今のように姿や景色を写し取る魔道具がある時代ではなかったから、正直もう、相手の顔もよく思い出せない。五百年も経つと、彼の名前すら時々ど忘れしてしまう位なのだけれど。
戦が起きて彼が徴兵されることになった時、胸が張り裂けそうだった。
「婚約する」とわたし達がそれぞれの家族に告げたのは、彼の徴兵が決まった後。
わたしはまだ18歳だったけれど、「帰って来たら結婚しよう」と二人で固く約束を交わして、当時の全ての女性がそうしたようにわたしはお気に入りの服を一着裁断して、あの頃は金色だった自分の髪を一房中に閉じ込んで、彼が剣を提げるための提げ紐を縫った。一針一針、ただひたすらに彼の無事を祈りながら。
泣きながら彼を見送ってから一年。
戦地から届いたのは、彼の死の知らせだった。
遠い地から故郷に戻って来られたのは、遺髪と少ない私物だけ。その中に、わたしの縫った提げ紐もあった。
遺体のない葬儀が執り行われ、泣き叫び続けてとっくに声が嗄れていたわたしは、両家の家族に体を支えられながら、ようやくその場に立っていた。
参列者が墓地で祈りを捧げていたその最中に、幼い子供を連れた女性が現れて彼の名を叫んだ時、最初は誰も、彼女が何者なのか分からなかった。
幾つかの遺品を納めて土を被せたばかりの場所に彼女は取り縋り、「こんなことになって」とか「子供はどうするの」とか、そんなことを喚いて、その間に何度も彼の名を呼んだ。
みんなが徐々に事情を理解して、わたしは女性と、まだよちよち歩きの子供を茫然と見つめていた。
信じたくなかった。でも彼の面影をはっきりと残した幼い男の子の顔を見た時、わたしは悟った。
いつからだったのかは分からないけれど、彼の出征前にはその子は生まれていただろう。
厳粛な葬儀の場が突然スキャンダラスな場と化して、大混乱した。
わたしの家族は怒り狂い、気付いた時には、わたしは家に連れ帰られていた。
それからわたしは、二度と恋をしなかった。
わたしはただ淡々と生きた。きょうだいがみんな結婚して家を出た後も、わたしだけは家に残った。
皮肉なことに、帰らぬ人となった彼は子供を残したけれど、わたしは生涯子供を持たなかった。
父よりずっと長く生きた母を看取った後、わたしには生きる意味がなくなった。
余生をどう過ごそうかとしばらく悩んだ末に、魔法図書館へ行こうと思い立った。
すっかり人間不信となり、あの日から恋も結婚もしなかったわたしの心を支えてくれたのはいつも本だった。子供の頃から、わたしは本が好きだった。本の世界に没頭している間は、現実を忘れられた。
魔法図書館は、どこの国にも属さずに古代から存続している自治都市、ミラトルにある。
「16歳以上」という条件以外、魔法図書館の職員になるのに特別な資格は必要なかった。それ程難しくない学力試験と簡単な面接にパスすれば、誰でも魔法図書館の職員になれる。
不老不死になりたいと、世界中から大勢の希望者がやって来はする。でも殺到すると言う程ではない。
魔法図書館はいつも人手不足。
図書館が毎日爆発的に拡大していくせいもあるけれど、せっかく職員になっても、多くの人が百年も保たずに辞めてしまうから。
不老不死の魔法の代わりに、魔法図書館の職員にはある制約が課される。
わたし達は、図書館の外に出ることが出来ない。
多くの職員が、不老不死が思った程幸せではないと感じるに至る理由はそれだけではない。
わたし達は、何も食べなくても死なない。楽しみのために食べることはあるけれど、食べ物も、誰かが外から届けてくれない限り手に入らない。でも食べなくても、お腹が空くこともない。寝られはするけれど、睡眠も必要ない。だから一晩中本を読んで過ごしたり、一つ一つの庭を彷徨ったりして過ごすこともある。
五百年前とは世の中がすっかり変わっていることはお客様のお話を聴いたり、書物で読んだりして知るけれど、伝聞だけではよく分からないこともたくさんある。
生きながら死んでいるのと同じね。
不治の病に冒された人が「治療法が見つかるまで」と言ってやって来ることも多いけど、家族や親しい人がみんな先立ってしまうと、何のために延命しようとしていたのか大抵分からなくなって、やっぱり図書館を去って行く。
こうして今では、魔法図書館の一番の古株はわたしになってしまった。
わたしが魔法図書館に居続けることが出来るのは、外の世界になんの執着もないからだろう。
アルトには魔法図書館職員と同じ、不老不死の魔法がかかっていた。
ただ悪意でかけられる魔法は「呪い」と呼び分けられていて、「呪い」は大抵、解除や停止を受け付けない。
アルトが「呪い」を受けたのは、五百七十年程前だった。
まあ、わたしより年上だったの……とは思ったけれど、わたしは口に出しては言わなかった。
実際の年齢は逆かもしれないけれど、見掛けはおばあちゃんと孫ですもの。とてもそんな風には思えない。
「わたしは当時、グランタイル帝国に仕える帝国魔法使いでした」
「まあ、大国ね」
その当時は、大陸を征服するのではないかと言われていた国だわ。
「ある時帝国の支配地で古代の魔法使いが残した迷宮が見つかり、その制圧命令が下されたのです」
古代の魔法使いが造った迷宮には、古代の偉大な魔道具がたくさん遺されているのです、と、アルトは説明を加えてくれた。
「魔法使いの大隊が編成され、わたしは中隊長として迷宮に向かいました。古代の魔法使いは、自分の魔力に強烈な自負心を持っています。貴重な魔道具を迷宮に隠し、魔法の罠を何重にも張り巡らせています。それは、その罠を破れる者にしか魔道具は渡さないと言う挑戦状なのです」
恐ろしい、と思って、わたしは無言で青ざめた。
魔法使いの大隊を編成するなんて、それだけ危険なことなのだと理解出来たからだ。
きっとわたしの想像など及ばない程、苛烈な任務だったのだろう。
五百年も経っているのに、口を引き結んでうなだれると、アルトはしばらく沈黙した。
「たくさんの仲間が死にました。生き残れた魔法使いは僅かでした。その後の帝国の衰退は、この事件がきっかけです」
どれだけの人達が、帰らぬ人を想って泣いたのか。
緑の瞳に翳が落ち、眠っていた記憶が牙を剥いて、わたしの胸を刺した。
アルトがようやく顔を上げる。
「僅かな生き残りの中にわたしはいました。自分に呪いがかかっていると気付いたのは、かなりの月日が流れてからです」
「運命」という言葉が少しだけ頭をよぎった。
多分その呪いには、回数か人数の制約があったのだと思う。
不老不死のような極端な魔法の発動には膨大な魔力が必要で、それ故に、なんらかの限界を抱えているものだった――――――――――――――「図書館の外には効力が及ばない」、というような。
その呪いは、アルトにだけかかった。
それからずっと、家族がこの世を去っても、この人は老いることも死ぬことも出来なかったのね……
「一度は結婚の約束を交わした女性もいます。でも呪いの話を告げると、彼女は去って行きました」
まあ。
でも彼女の気持ちは分かる。
特に女性は、自分がおばあちゃんになっても若い姿のままの夫に愛して貰えるなんて、そんな自信はなかなか持てないだろうし、実際それが現実だろうと思う。
独りで生きて来たのね………。この人も。たくさんの人達を見送って。
「わたくし達、同じ時間を生きているのね」
「はい」
「どうぞこれからも魔法図書館にいらして。わたくしきっと、これからの長い月日も、あなたの話し相手くらいにはなれるわ」
心からそう言うと、アルトはわたしを見つめて、何かを言い掛けて黙った。
それから更に、数年が経った。
アルトは数日と置かずに図書館にやって来て、よく外の話をしてくれた。絵本の複製作業のメンバーにも、彼はすっかりお馴染みだ。今は自治都市ミラトルの専属魔法使いをしているというアルトは、美味しい物や珍しい物も、度々差し入れしてくれた。
そんなある日。
巨大な書棚の間を並んで歩いていた時にアルトがふと足を止め、わたしは半歩先へ出てから振り返った。
何年経ってもアルトは変わらずに美しかった。
そんな彼が、思いつめた表情で宙を見つめていた。
「アルト?どうなさったの?」
「……リスタ」
いつになく硬く響いた声が、それでも甘い。ひどく近い距離で真っ直ぐに瞳が合い、どきりとする。
一瞬、時が止まったような静寂に支配された後。
「わたしと結婚してくれませんか?」
は?
「あなた何言ってるの?」
思わず素になって、半オクターブ低い声が出た。
「駄目でしょうか」
「駄目に決まってるじゃないの!」
彼が酷く傷付いた顔をしたので、わたしは慌てて言葉を補完した。
「わたしおばあさんよ?」
「年齢はわたしが上です」
「年齢は上と言ったって………わたしここを出られないわ」
魔法図書館を出たらわたしの寿命は、きっとそれから数年程で尽きてしまう。
「わたしが魔法図書館の職員になります」
「駄目」
「なぜ」
「なぜって―――――――――――――」
絶句する。
魔法図書館は生きながら死んでいるような場所。
不老不死は同じでも、外の世界で自由に生きられるアルトが幸せになれる場所じゃない。
それだけではなかった。
若いまま時を止めたアルトと、老いて時を止めたわたしは、同じ時を生きていてもやっぱり違う。
姿かたちは関係ないとか、愛に年齢の差なんてとか言うけれど、限度がある。
受け容れてくれる女性さえいれば、アルトは本当は、今からでも家庭だって、子供だって持てる筈なのだ。
「五百年の記憶と孤独を分け合えるのは、あなただけです」
「それは」
それはわたしにとっても同じだった。
わたしにとってもアルトは、同じ苦しみを分かち合える唯一の人だった。
――――――――――――――でもそれは、結婚の理由になる?
言葉にならない、無意識に近いくらいの深い場所で、微かにそんなことを感じた。
五百年の不老不死が確かにお互いを特別な存在にしているけれど、でも同じ時間を歩んだのは、生まれた時代がたまたま同じだったからというだけ。
そんな思いが胸の奥によぎったその時。
「でもそれだけで、こんなにあなたに魅かれない」
アルトのその強い声に、心臓が跳ねた。
わたしが固辞しても、アルトは簡単には引き下がらなかった。途中で魔法の中庭のベンチに場所を移して、わたし達は日が暮れるまで話し合った。
「………わたしの姿が若いから、駄目だということですか」
ごめんなさい。
それでは彼の元を去った女性と同じだと思いながら、わたしは頷いた。
するとアルトは、しばらく無言で何かを考え込んだ。
その頃にはもう空が星で一杯になっていて、アルトと小さな庭の窮屈そうな花壇は、図書館の窓から漏れる柔らかな灯に照らされていた。
そして。
「――――――――リスタ」
右に座るアルトの手が、突然膝の上のわたしの手に重ねられた。
かつての婚約者を除いて、男性にそんな風に手を握られたことがなくて、異性を意識して息を呑む。
でも同時に、皺だらけの自分の手が恥ずかしかった。
「あなたが若返ればよいのですか?」
「え?」
「五百七十年間、誰も制圧出来なかったあの迷宮には、人を若返らせる魔道具もあるのです」
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