01. 魔法図書館
「リスタ」
古い服飾史の本を読んでいたわたしは、同僚の青年に名前を呼ばれて顔を上げた。
「この方が、ナトカとか言う王国の書物をお探しなのですが……」
困り顔でそう言う同僚の後ろに客人がいて、わたしに会釈して下さった。
まああ……。綺麗な方。
柔らかな金色の髪に、エメラルドのような瞳。
きっと高貴な方なのね。白いシャツも若草色の上着も、一流の品だと一目で分かる。
「まああ、とても珍しいご要望ですわね。いいですよ。わたくしがご案内します」
そう言って、わたしはれんがのような分厚い本を閉じると立ち上がった。
「すみません」と恐縮する同僚に、「あなたはまだここに来て四十年ですもの。分からなくて無理ないわ」と笑顔で返す。それからわたしは「こちらへ」とお客様を促した。
「五百年程前の本ですから、かなり歩きますよ」
「お願いします」
頷かれたお客様の声には、落ち着きと品があった。お姿に相応しい甘いテノールで、喋るだけでも若い女性が溶けてしまいそうね。
お客様の先に立ち、どこまでも続く本棚の迷路の中を歩き出す。巨大な本棚は、神殿の壁のように高く聳え立っていた。
古今東西の全ての本が集められた魔法図書館は恐ろしく広大で、しかも毎日拡大し続けている。
要所要所に空間転移が出来る扉が立っているから目的地に辿り着けるけれど、これがなかったら、館内で行き倒れてしまうんじゃないかしら。
本も道も見付けられなくなるのは当然で、お客様をお助けするのがわたし達魔法図書館職員の主なお仕事。白い内着とターコイズブルーの貫頭衣の制服は、優美で格調高くて、わたしは大好き。
と言っても、日々爆発するように本と床面積が増えて行くせいで、職員すら図書館の全容は把握出来ないのだけれど。
「……見事な古代魔法ですね」
「ええ本当に。ここを造られた方は、きっと本をこよなく愛していらっしゃったのでしょうね。本は魔法の箱ですもの」
「……本が」
「一つ一つ、開けばどれも知らない世界を教えてくれるでしょう?遠い場所のことも、遥か昔のことも。しかも魔法が使えなくても読めるし書けるだなんて、凄い魔法だとは思いませんか」
「……なるほど」
一拍置いて、「とても素敵ですね」と彼は微笑った。
光が一杯に差しているせいで、その笑顔がけぶって見えた。
迷子を生み出す原因の一つなのだけれど、魔法図書館には本棚の他に、あちこちにオブジェのように巨大な壁が立っている。そしてそのどれにも大きな格子窓が付いているので、館内はいつも、眩いくらいに光に満ちているのだ。
構造的にはあり得ないのだけど。
「ナトカ国がよくお分かりになりましたね。五百年以上前に、僅かな間しか存在しなかった国なのに」
「わたくしはここへ来て長いのです」
ふふ、と笑いながら応えると、何を思われたのかお客様は口を閉ざし、じっとわたしを見つめられた。
そうこうしている内に、巨大な棚の前に辿り着く。
「ああ、着きました。この棚がナトカの原書で、向かいが現代語の翻訳です。どちらをご希望ですか?」
「……原書の方を」
まあ。古書の原書を読まれるなんて、歴史か古文書の研究者の方かしら。一般の方にはまず読めないくらい、言葉も文字も変わってしまいましたもの。
「タイトルか内容がお分かりになるなら、本探しのお手伝いをさせて頂きますよ」
僅かな間しか存在しなかった国とは言え、一つの国で記されたすべての本。果てが見えないくらいにその棚も長い。
「古文字が読めるのですか?」
「古い文字が読めるのがわたくしの取柄です」
「……ではぜひお願いします。わたしはアルトと申します」
多分高貴な方だと思うけど、家名は名乗られなかった。
まあ必要ないわね。
「リスタと申します。本のことでお困りのことがあればおしゃってくださいな」
それから半日、わたしはアルトの本探しを手伝った。
ʄʄʄ
次の日も、アルトは図書館にやって来た。
「おはようございます、リスタ」
「まあ」
大きな円卓の一角で異国の旅行記を呼んでいたわたしは、声を掛けて来たのがアルトと知って目を瞠った。
巨大な魔法図書館で同じお客様に二日続けてお会いするのは、とても珍しい。職員同士ですら、出会わない方とは、年単位で出会わない。
偶然?
「おはようございます、アルト。今日は昨日の続きでいらしたのですか?」
立ち上がって会釈する。
魔法図書館の本は持ち出し禁止だから、一日で読み切れない本は通って読むか、書き写して行くしかない。
「今日は他の本を探しに来ました。―――――手伝って頂けますか?」
目が覚めるような青い服が気品に満ちていて、彼は今日も貴公子のようだった。
「ええ、もちろん」
笑顔で「何をお探しですか」と尋ねようとした時、アルトの後ろで「わあああああああ」と言う喚き声が上がり、わたし達は驚いてそちらを見やった。
「あっ」
思わず叫ぶ。
四十代くらいの男性だった。
「わあああああああ!!」と雄叫びのような声を上げながら、彼は頭上に掲げた本のページを破ろうとしていた。
「いけません!」
咄嗟に駆け出したけれど、間に合う筈もない。
ビィッ、と紙の裂ける音がした直後。男性の足の辺りから、ぼっと炎が立ち上がった。
火柱が男性を呑み込む。
周囲から悲鳴が上がり、炎から遠ざかろうと人々が逃げ惑う。
ああ、もう助からない……!
分かってはいたけれど、炎の中で苦悶の叫びを上げる人を放ってはおけなくて、わたしは彼に駆け寄った。
魔法図書館を造った古代の魔法使いは、きっと書物をこよなく愛していた。
遠い昔に失われた小さな国の書物まで集めた、唯一無二の図書館。
この図書館の書物は、魔法で守られている。
本を故意に傷付けた者には、罰が下るのだ。
だから図書館の入り口にはわたし達職員が詰めていて、明らかに柄の悪い人間や、かわいそうだけれど、まだ道理の分からなそうな年齢の小さな子供の入館は、原則として拒んでいる。
それでもこんな事件は時々起きる。
最期くらい派手に死にたいとか、確実に死にたいとか、人間の思いは色々だ。
完全にコントロールなんて出来ない。
でもこの人は今、多分後悔していると思う。
こんなに苦しむとは思っていなかったんだろう。
魔法の火だから消えないことは分かっているのだけど、消そうとせずにはいられない。
それで火を叩こうと、転げ回る男性の横で、わたしはターコイズブルーの制服を脱ごうとした。
と。
ふわりと風が立ち、アルトがわたしの横に立った。
「え」と思った時には、わたしは後ろに押しのけられていた。
ぼっ。
え?!
男性はまだ悲鳴を上げ続けていたけれど、先刻までとは声の聞こえ方が少し違っている。
彼を包んでいた炎が、音を立てて消えていた。
わたしの前には青い服を着たアルトの背中があって、アルトの左手の指が、床でもがく男性を差していた。
「えっ」
「消えた?!」
遠巻きにしていた人達からどよめきが起こる。
「アルト、あなた―――――魔法使いなの?!」
「はい。……罰を止めてしまいましたが、あなたに火傷してほしくありませんでした」
「魔法図書館の罰は、対象者以外傷付けません」
「そうでしたか。でも目の前で人が焼け死ぬのを見るのは気持ちがいいものではないでしょう」
そう言うとアルトは、男性の横に片膝を落とした。
火は消えたけれど全身に火傷を負った男性は、苦し気に呻いていた。服は燃え尽きていなかったけれど、髪は黒焦げで、見える範囲の肌は皆焼けただれている。
緑の瞳の魔法使いは、小さな十字を描くように、床の上で左の人差し指を滑らせた。
おおっ、と言う驚きの声が辺りを包む。
わたしはただ呆気に取られていた。
男性のただれた皮膚がみるみると綺麗になっていく。そして何ごともなかったかのように火傷は消えた。
服と髪だけは回復しなくて、惨事が確かにあったのだと告げていた。
「え………」
おそるおそるといった様子で男性が体を起こし、自分の手や足を茫然と見つめる。
信じ難いことだった。
魔力を持つ人間は年々少なくなっているのみならず、一人が持つ魔力の量も減っている。生まれてから一度も魔法を見たことがないと言う人間すらいる時代なのだ。そんな時代に、古代魔法を封じられる魔法使いがまだいたなんて。
「――――――いざ死にそうになったら、死にたくないと思ったのではありませんか」
アルトは立ち上がると、男性に語り掛けた。
「死ぬなとは言いませんが、もう一度考え直す機会を得たと思って、よく考えてみて下さい。一度死んだと思えば、これまでとは違う考えになるのではないですか」
アルトの後ろで、わたしは思わずうんうんと頷いていた。
死にたいと思う程追い詰められていても、いざ死に直面すると、なんであんなことでここまで思い詰めたのかと思うもの。
余計なことをしてしまったかもしれないけれど、目の前で誰かに死なれるのはわたしは嫌だわ。
男性はまだ茫然として座り込んでいた。
床には焦げ跡一つ付いておらず、破られた本は魔法のお蔭で嘘のように綺麗に元通りになった後、宙を飛んで勝手に自分の棚に戻って行った。
次の日も、アルトとわたしは出会った。
さすがに偶然とは思えなくて後で聞いてみたところ、人を見付けられる魔法を使っているのだそうだった。
古い時代を知るわたしに興味を持つ方は時々いらっしゃる。
「何をされているのですか」
今日は深紅の服のアルトに尋ねられる。
その時のわたしは、何人もの方達と作業の真っ最中だった。
集めて来た幾つもの机の上にはインクやら裁断機やら、たくさんの物が載っていたけれど、作業面積の大半を占めているのは、幾種類もの紙。
「ここで子供向けの本の複製をしているのです」
「子供向け、ですか?」
「ええ。魔法図書館を造られた魔法使いは本を愛していたけど、きっと子供にはあまり関心がなかったのね。世界中の絵本がここにあるのに、小さな子供は図書館に入ることが出来ないから、読めないの。この絵本を、なんとかして子供達に読ませてあげたくて」
古い本や異国の本の翻訳は図書館の職員の仕事の一つだけれど、絵本の複製は、わたしが一般の方から協力して下さる方を募って自主的に行っている。今ではこれは、わたしのライフワークだった。もうずっとコツコツと、こうしてみんなに定期的に集まって貰って作業している。
「あなたは子供が好きなのですね」
「ええ、とても」
「わたしも手伝わせて頂けますか」
「まあ。何か本を探しにいらしたのでは」
「本ではなく、あなたに会いに来たのです」
「まあ」
作業に協力して下さっている方々が、美しい魔法使いを興味津々と言った様子でちらちらと見ている。
それから魔法使いがわたし達の仲間に加わって、半年分の作業が、その日の一日で全て終わった。
魔法図書館の窓の外には、一つ一つ違う魔法の中庭がある。そして庭の空には、朝も夜もちゃんと訪れる。
夕暮れの茜色に館内が染まり出した頃、協力して下さっている方々が帰宅された。でもアルトはまだわたしと共にいた。
「アルトはお子さんは?」
「まだ独身です」
「まあ、そうでしたの」
こんなに凄い魔法使いと、一体どんな方が結婚されるのだろうと思う。
「あなたは?」
「縁がありませんでした。子供にも結婚にも」
「……あなたのような素敵な方が」
「まああ。そんなことはわたくしみたいなおばあちゃんじゃなくて、若い娘さんにおっしゃって」
笑いながらそう応えると、アルトは何か苦しげな表情でわたしを見つめていた。
ʄʄʄ
それからもアルトは、頻繁に図書館にやって来た。
アルトが望めば、本を探した。時には同じ本を読み合って、感想を言い合った。時には魔法の庭に出て、花や星を眺めながら語らった。
そうして十年が経っても、彼は変わらず若々しかった。
まだ結婚していないらしくて、それが不思議だった。
でもそれから何年経っても、彼の容貌は全く変わらなかった。
これは魔法なの?
「アルト、あなたもしかして年を取らないの?」
ある日尋ねると、アルトはわたしの向かいではっと息を呑み、表情を強張らせた。
わたしに答える時、彼の唇と声は震えていた。
「わたしのこれは――――――――――呪いなのです。」
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