87_ユリウス 対 セドリック 1
「ユリウス様。ヴィクトル様の言葉を憶えておられますか? 常に万全の状態で戦えると思うなと……。それは、相手にとっても同じことなのです」
それは、ドルガスがよく俺に向かって言い聞かせていた言葉だった。
「稽古ならば良し。より強い相手と戦った方が上達しますからなあ……。しかし、相手の息が整うのを待つのを癖にしてはなりません。好機をふいにしては勝てる者にも勝てなくなります。相手が体勢を崩したとき、武器を落としたとき、その機を捉えることは決して卑怯ではありません。隙を見せた相手が弱いのです。逆に、その隙を突けねば、ユリウス様。次に膝を折るのは貴方自身となるでしょう」
ドルガスからは、同じような話を様々な言い方で繰り返し何度も聞かされた。
それだけ俺に、その心得が身に付かなかったからなのだが、実戦が絶えて久しい砦村において、その理を身体に覚え込ませるのは、なかなかに骨の折れることだった。
自分なりにそれを体得できたと思ったときには、常に考えるより先に身体が反応するようになっていた。
今もそうだ。ためらっていては今という好機は一瞬にして過ぎ去り、一瞬前とは同じ条件ではなくなってしまう。
セドリックの呼吸が整う前に、動くしかない……!
木剣が刺さったままの剣を構える……そのように見える挙動の途中で、俺はそれをセドリックに向かって放り投げていた。
予想された動きではなかったはずだが、さすがにセドリックは動じず、身を捻り、それを簡単に避けていた。
だが俺にとってはそれで十分だった。
身体の向きを転じて一目散に走り出す。
「あっ! おい!」
セドリックが恨めしく叫ぶ声を遠くに聞く。
してやったりだ。
すでに息を切らしているセドリックでは、剣を捨てて身軽になった俺には追いつけないだろう。
もたもたしていたらローランも立ち上がるだろうし、パトリックや、他の者たちだって駆け付けるはず。
俺としては最善の選択をし、これでこの場の決着は付いたと考えていたのだが、ふと気配を感じて振り向くと、遥か後方からセドリックが諦めずに追ってくる姿が見えた。
思ったより執念深いな。
大分息が上がっているようだし、これだけ距離があれば、林の中に逃げ込んで身を隠すには十分のはずだが……。
いや、セドリックは俺が敷地の外へ逃げると思っているのか。
だとすれば高い塀や警備の者が障害となる。
だから、まだまだ俺に追い付く見込みがあると踏んでいるのか。
どうやらセドリックの俺に対する執着を甘く見過ぎていたらしい。
俺は再び前を向いて走り出す。
よく手入れされた広大な芝生ももう中ほど。
ぐんぐんと加速する身体に心地良い風を受けながら、俺は思わず込み上げる笑いを我慢しきれなくなった。
「ふ……、ははっ!」
『気持ち悪っ。何笑ってんのよ?』
必死の形相で追ってくるセドリックの様子が面白かったのもあるが、こうして誰かと追い駆けっこをしていることで、童心を思い出したせいかもしれない。
なにしろ、これだけ広い場所を全力で走るのは随分久しぶりなのだ。
ずっとジョセフィーヌの虚弱な身体でいることを強いられ、具合が良くなったとしてもその振る舞いは高貴な身分の女性の型を決して逸脱することができなかった。
今はその鬱積していたものが解放されたような清々しい気分だった。
幼い頃はこうやって、ただ走るだけで無性に楽しかったことを思い出す。
風が顔を撫でていく感覚。
足の裏が地を掴み、身体を前へ前へと押し運ぶ感覚。
右に左に曲がる度、重心が揺れて身体が流される感覚。
子供の頃はその何もかもが新鮮で楽しい遊びだった。
昼間この芝生の上で見た貴族の子供たちが駆け回っていた姿と、幼き日の自分やパトリック、ミスティたちの姿が重なって見えた。
大の大人になってから、これだけ全力で走る機会が訪れるとは……。
……いや?
つい最近も、こんなことを思ったことがなかっただろうか。
不意にそんな奇妙な感覚に襲われた。
それと同時にミスティの顔が思い浮かぶ。
子供の頃のミスティではなく、美しく成長した大人のミスティ。
その顔は苦しみに喘ぎ、不安げな表情を浮かべていた。
これは……、一体いつの記憶だ?
前後の事象は何ら思い出せないが、そのとき自分が感じたのと同じ感情が、苦い胃液と共に喉の奥から込み上げてくる。
この苦さは……、焦燥感? いや、悲壮? 絶望……?
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